廃品(4)

 いつの間にか、真っ黒な空から降り注ぐものは、雨から雪に変わっていた。

 ぼくの吐息が当たっていた辺りだけ、車窓が白く曇っていた。浅い眠りの余韻は、まだ頭にぼんやりと残っている。

 時刻は十九時を過ぎていた。横に座っているナナは、退屈そうに窓の外に目をやっている。街灯とすれ違うたびに、きれいな横顔に当たる光が、繰り返し向きを変えた。

 起動したまま放置していた電子パッドは、すでにバッテリーが切れかけていた。シャットダウンし、ただの板となったそれをかばんにしまう。

 東郷邸には間もなくもせず着いた。東京とは名ばかりの、かなりの山奥のようだ。

 車を降りると、重たげに落ちていく雪が頬を掠めた。ヘッドライドの微かな明かりでも、それとわかるほど息が白い。

 納車は自動化されているらしい。秘書の男が運転席を降り、黙ってぼくらを先導した。

 かき寄せされた凍み雪の間を抜けながら、ぼくはまじまじと眼前の建物を見ていた。ホテルのような立派な設えだが、灯っている明かりは少ない。玄関口に大きなステンドグラス。宗教画のような不思議なモチーフが象られている。

 重厚な二枚ドアの向こうには、エントランスが広がっていた。豪奢なクリスマスツリーが飾られっぱなしになっている。造花と絵画に無造作に彩られたその空間の中央で、車椅子に座った人影がひとつ。

「やあ。遠路はるばるご苦労だったね」

 車椅子は滑らかな動きでこちらに向かう。見たことのある顔だった。

 大学で、博士のラボに行く約束を取り交わした男のひとり。

「久しぶり、パパ」

 ポケットに手を入れたまま、ぶっきらぼうにナナが言った。

「ああ。元気にしてたかい」

「まあね。そうだ、あとでメンテナンスしてくれる? どっかのお馬鹿さんを助けたせいで、足の調子が悪いの」

 ナナは電子部品の入った袋を彼に手渡し、顎先でぼくの方を示した。

 彼の鋭い双眸と、目が合った。

「手間を取らせて申し訳なかったね。東郷晃だ」

 東郷が右手を差し出す。とりあえずその手を取った。「市村治です」

 彼の手はごつごつと節立っていた。中指に大きなペンだこがある。

 年齢はぼくの父親と変わらないくらいだろうか。精悍な顔立ちだが、笑うと目元に小さく皺が寄った。

「あなたが、ナナやミヤさんの『製作者パパ』ですか」

 博士、という言葉は、喉から出ていかなかった。

 東郷は意味ありげに微笑し、「いかにも」ともったいぶった様子で続けた。

「詳しいことは食事をしながら話そう。温まるものを用意してある」


 東郷に促されるまま、ぼくはエントランスの奥のエレベーターに乗り込んだ。小さな機械音だけが存在する密室は、暖色のやわらかな明かりと、気詰まりな沈黙で満たされていた。

「……その足は」

「ああ、これ。生まれつき足が悪いんだ。残念ながら樹化病ではないよ」

 棘のある口調。何度も聞かれたことのある問いなのか、あまりにも抑揚のない言い方だった。

 エレベーターのベルが到着を知らせ、ゆっくりとドアが開いた。車椅子はスムーズな動作でドアの隙間を抜けていく。ぼくとナナもその後に続いた。

 廊下にはいくつもドアが並んでいた。壁に掛けられた油彩はどれも抽象的なタッチなものばかりだ。その中でひときわ目を引いたのは、絵画ではなくある古いポスターだった。中央でアンが笑顔を見せている。何かの広告らしいが詳細はわからない。

「なかなか広いだろ」

 先を進んでいた東郷が、こちらを振り向いた。「そうですね」とひとまず同調する。ナナの話では東郷は独り身だったはずだが、一人で住むにはかなり大きい。

「オリジナルは私の子供みたいなものだからね。部屋を用意しているんだ。いつでも帰って来られるように」

 子供、という言葉が、妙に耳に残った。

 彼の話では、オリジナルに該当する機体は全て試作機プロトタイプだそうだ。彼が開発したNH型はキューブと同じSECT法を応用しており、エネルギー効率を飛躍的に向上させた。それと同時に、NH型は初めて「不気味の谷」を脱したモデルでもあるのだという。彼のデザインは多くの機種に採用され、アンドロイドの世間的な普及に大きく貢献した。

「作家は作品に対して子供のような思い入れを持つものだそうだ。私はアンドロイド作家なんて肩書きを付けられることが多いが、似たようなものかもしれないね」

 彼の口調は極めて穏やかだが、その真意は読み取れない。


 楕円形のガラステーブルと銀食器。壁には暖炉の真似事。暖色の明かり。設えは一目で上等なものだとわかる。壁際に置き場なく転がったアンドロイドの部品がなければ、ごく普通の豪奢な部屋だ。

 促されるままテーブルに近づくと、給仕のアンドロイドが椅子を引いた。

 二人で話がしたい、という東郷の要望で、ナナは席を外している。

「君はT大の生化学科だったね。私もあそこの工学科のOBなんだ。もっとも、まだキャンパスが東京から千葉に移る前の話だが」

 車椅子をぼくの向かいにつけながら、東郷がこちらに笑いかける。眼差しは穏やかだが、どこか不穏な色を孕んでもいる。

 スープが卓上に置かれた。トマトベースの赤色で、野菜がごろごろと入っている。その後もオードブルらしきものや肉の煮込み料理のようなものが次々と並べられた。

 東郷が料理に手を付けるのを待って、ぼくは卓上のグラスに手を伸ばす。ただの水だと思っていたが、微かに柑橘系のような香りがした。

「デザートにはザッハトルテを用意してある。『オリエント』の新作だ」

 東郷は得意げに言った。食えない人だ。何を考えているのか、まるでわからない。

 ごつごつとした指がきれいに肉を切り分けていく。技術屋メカニックらしい繊細な手つきだ、と思いつつ、ぼくも同じものに口をつける。バターとワインの強いにおいが鼻を抜けた。味が濃い。

「洋菓子店の代表とアンドロイドの開発者とは、すごい肩書きですね」

 皮肉まじりの台詞は、ちょっとした揺さぶりのつもりだった。

「君の父親には及ばないさ」

 一瞬身体が固まったのは、彼に感づかれただろうか。誤魔化すようにグラスに手を伸ばす。しつこいソースの味が舌から流れていく。

「東京の建て直しを掲げ、市長を買って出た敏腕政治家。財政破綻も甚だしいこの街で『豊かな東京をもう一度』とは、立派なことじゃないか。なかなかできることじゃない」

 悪意のない言葉だというのはわかる。けれど、一度体を乗っ取った緊張は、思ったように離れてくれなかった。

「弁も立つし頭も切れる。息子である君がこれだけ優秀なのも頷ける」

「……やめてください」

 自分でも思ってみないほど冷たい声が出た。

 東郷は面白がるような目でぼくを見ている。

「君はホットドッグ屋の話を知っているかい」

 穏やかな声音を変えないまま、彼が言った。あまりにも漠然とした切り口だ。ぼくは沈黙を貫いた。

「銀行強盗を目論んだ輩が、カモフラージュのためにホットドッグ屋を始めたら、予想外に繁盛してしまったという米国の小話だ。私にとっての『オリエント』も似たようなものでね。趣味で始めただけの洋菓子屋が思っていたより流行ってしまった。今度二号店もできるんだ。完全に予想外だったよ」

 無反応を決め込んでいるぼくに構わず、東郷は話を続ける。

「東京市長なんて薄給もいいところだ。別に食い扶持がないとあの仕事は成り立たない」

 彼にとってのホットドッグ屋は何だろうな。

 思わせぶりな口調。どうやら彼が東京から退く気はないようだ。

「一方で『都市再生化計画』なんてプロジェクトが立ち上がっている。市に登録されている東京の居住者には、こんな山奥に住んでいる私も含めて、全員に立ち退きが命じられた。しかも年末までに、だ。市政はどんどんきな臭くなりはじめている。何もかも変わってしまうのも時間の問題だ。それがいいことなのか悪いことなのかは、私にはわかりかねるが」

 東郷はワイングラスを手に取り、一口だけ舐めるように飲んだ。

 十数年あまり変わることのなかったあの街並みが、果たして変わることがあるのだろうか。ぼんやりとそう考えて、おととい父親から受けた通話を思い出した。

『今年は大切な節目の年なんだ。来年の初日の出はうんと特別なものになるよ』

 根拠はない。けれど、胸に何かがわだかまるのを感じた。

 手が止まっているぼくを見て、「食べないのか」と冷やかすように彼が言う。「心配なんかしなくても、変なものを盛ったりはしてないさ」

 急かすような眼差し。気は進まないが、白くて丸いパンに手を伸ばす。上等なものなのだろう、小麦のにおいが強い。もそもそとしたパンを水で飲み下した。

 東京に来てから、博士と一緒にいる時間以外は、粗食ばかり口にしていたことを思い出す。

「『オリエント』が単なるカモフラージュだとするなら、あなたの本当の目的は何ですか」

 ぼくは彼の瞳をまっすぐに見つめた。

 彼は一体何を企んでいる?

「私は真実を突き止めたいだけだ。あの時、東京に起こった全てを」

 グラスの縁をなぞりながら、東郷は口の端だけで笑った。

 東京に疫病が蔓延ったあの年、一体何がその引き金となったのかは、公表には至っていない。二〇四七年に未曽有の被害をもたらした集中豪雨を引き合いに出す人もいたし、衛生環境の悪い東京の過密地域では、病が流行ったのはもはや必然だったとも言えた。

 だが、どこにも決定打は見つからなかった。今の今まで。

「あなたは」

 声の端が掠れた。ぼくは強く手を握り込め、東郷の目をまっすぐに見据える。

「自分の作品を子供みたいだなんて言っていましたが、本当はそんなこと思っていないんでしょう」

 東郷の眉が少しだけ動いた。

「彼らのインターフェースが情報収集に特化しているのは明白です。あなたはただ彼らのことを利用しているだけだ。彼らだけじゃなくぼくのこともです。違いますか」

「心外だな」

「実験対象だというのも口実なんでしょう。あなたは最初からぼくを研究に加担させる気だった。――博士がいなくなったのも、ぼくが彼のデータを引き継いだのも、あなたの思惑の上なんですか」

 かちり、と重たげに柱時計が鳴った。

 暖炉の火が爆ぜる音。分厚い窓の向こうでは、闇の中、しんしんと雪が降っている。

「君は私を悪人だと思うかい」

 静かな声音で東郷が言った。

 ぼくに何かを言い聞かせる時の父親のような、甘ったるい口調だった。ぼくは何も答えず、黙って彼と対峙していた。

 ぼくをしげしげと観察した後、彼は息だけで小さく笑った。

「いくつか訂正しよう。君は少々誤解しているらしいな」

 君を利用しなかったわけじゃないが、あの狭い研究室が『実験室』だったのも嘘ではない、と彼は告げる。

「アンドロイドによるカウンセリング治療の調査をしたいと、T大のほうから直々に依頼があった。私は快諾したがモニター探しに難航してね。何にしろ、東京に行きたがるような学生は少ない。かといって向こうに彼を遣わせるにはリスクが大きい」

 そこで選ばれたのがぼくだった、らしい。

 ぼくと博士が初めて会うよりも前から、ぼくは博士に認識されていたようだ。「最近よくカメラを持った少年を見かけるんですが、こんなところに来るのは危ないと注意した方がいいんでしょうか」という具合で。

 データを照合して、ぼくがT大の学生であるということと、入学時のメンタルテストで抑鬱傾向が示されたことが判明した。まさに渡りに船だったというわけだ。

「それに、今回の襲撃は本当に非常事態だったんだ。こちらにとっても、ここでジロウの力が失われてしまうことは、相当な痛手だった。時間がないんだ」

 彼の表情の中に、一瞬だけ、狼狽のようなものが見えた。

「時間がない?」

「先ほど話題に出た『都市再生化計画』だ。東京はまだ膨大な秘密を有している。あの年に疫病が起こったこと、東京という都市だけに感染が広がったこと、おそらく全部が複雑に絡み合っている」

 都市再生化計画が執行されれば、それら全ての証拠が無に還されるかもしれない。彼の主張は荒唐無稽なものに思えたが、否定するような材料もない。

「あれほどリセットが強調されている政策は見たことがない。確証はないが、今までひた隠しにされてきた事実ごと葬り去られる可能性は十二分にある。……執行は早くて、元日」

 東郷の口調は重々しい。

 彼の言葉を信じれば、タイムリミットはあと四日あまり。「時間がない」どころの話ではない。

「これは命令ではなく交渉だ。私に協力してくれないか」

 東郷は顎の前で手を組み、ぼくをじっと見据えている。

『来年の初日の出は特別なものになるよ』

 父親の声がもう一度浮かんで、重なった。



 食事を終えた後、「君に見せたいものがある」と言われ、ぼくはまた東郷の後ろを歩いていた。彼の話を聞いてから、胃のあたりが重たくて仕方なかった。バターの効いたソースの後味が、口の中にずっと残っているようで、気持ちが悪かった。

 何か深刻なことが起こりそうな焦燥感と、ほんの数日で紐解かなければならない莫大な情報、その重圧。できることなら見て見ぬふりでもしたいものだが、一度手を出してしまったことから退くのももどかしい。

 延々と続くような廊下の中腹で、東郷はあるドアを前にぴたりと止まった。

 ノブのあたりに軽く触れると、ゆっくりとドアが開いていく。中は狭い個室で、机とベッド以外に目立った家具もない。

 ベッドの上には何かが横たわっていた。全体に白いシーツがかぶせられていたが、頭のてっぺんと骨ばった爪先が無造作にはみ出ていた。

 それが何なのか、何も言われなくても、一目でわかってしまった。

 息が震えている。不自然な発汗。どうしようもなく動揺しているのが自分でもわかった。

「地下でばら売りされていた。人が手塩にかけて作り上げたものを、酷いものだ。買い戻すのに苦労したよ」

 東郷の台詞も、まるで頭に入ってこなかった。

 ぼくはベッドに近づき、ゆっくりとシーツを捲った。

 研究室で何度も目にした顔があった。目を閉じている彼の顔は、表情も温度もない。首筋にまとっていた包帯はなく、アンドロイドのロゴがしっかり刻印されていた。パーツ同士は縫い留められていたが、継ぎ目からチューブと銅線が覗いている。

 はかせ、という声が、自分の口から転がり出た。

 身体がすくんで動かなかった。死体のようにただ転がっている博士を、ただ呆然と眺めていた。いくつも傷があるのが痛ましかった。

 向かい合って話をしている時の穏やかな目や、コーヒーを淹れる彼の後姿や、優しいのに悲しげな彼の笑顔や、色々なものが頭を逡巡して、ぐらぐらした。

「手は尽くしたんだ」

 東郷の声が、胸の奥のほうにずん、と響いた。

「君たちに買ってきてもらった電子部品を使えば、一度だけなら再起動できるかもしれない。彼と話ができるかもしれない。だが、次にシャットダウンした時には、もう二度と起動することはできない。彼の命はそこで潰える」

 あるいは、と間をおいて、東郷は続ける。

「数日時間を貰えれば、本格的な修理にこぎつけられる。彼の体はきれいに修復されるが、その代わりに、彼の持っていたデータが――記憶の一切が消える。君のことも」

 君はどうしたい、と東郷が尋ねた。その間も、博士の継ぎはぎだらけの身体から、目を離すことができなかった。

「全て君の返答次第だ。もっとも、私に協力してくれるという条件つきだが」

 ぼくはどうするべきなのだろう。

 機能が停止し眠っている博士は、じっと目を閉じたまま、無機質に光を返している。つるりとした人工皮膚の質感が、今ではひたすらに生々しかった。

「できることなら何だってします、だから、」

 震えを抑え込むように、親指を固く握った。

 揺さぶりだというのはわかっていた。まんまと動揺させられた自分が情けなかった。

「……話をさせてください。最後に、少しだけ」

 お願いします、という自分の声は、何かを噛み殺しているみたいだった。

 本当にこれでよかったのか。後ろ髪を引っ張るような自問に見て見ぬふりをして、自分の中の何かが溢れてしまうのを、じっと堪えていた。

「再起動できるかどうかも五分五分だ。彼の身体は電圧に耐えきれないかもしれない。それでもいいかい」

 念を押してきた東郷に、迷いを呑み込みながら、頷いた。「わかった」と東郷は短く答え、ぼくの肩に手を置いた。

「少し時間をくれ。準備ができたら君を呼ぼう」

 それまで少しだけ二人にさせてくれないか。

 彼の声色にも、悲嘆のような悔恨のようなものが滲んでいる気がした。

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