第八段 キリスト教包囲網

 寺町を外れ、西山の方に中島川沿いを進むと、その先には鎮西大社である諏訪神社がそびえる。ここでそびえる、という表現を使ったが、その高低差は他の神社ではなかなか見られないものである。一度でも本殿に至るまでの石段を上った者なら分かるが、目の眩むような高低差は膝を容赦なく笑わせる。上ったが最後、下りるときには眼下に広がる豆粒のような自動車に転落の恐怖を煽られる。

 なぜ、このような高所に、という疑問は以前からあった。神々しさというものを示すためのものであったとしても流石にこの高低差は異常ではないかというのが私の感覚であった。無論、人が容易には近づけぬ神聖な場という意味合いもあったのかもしれないが、後に現在の地に遷座された時期を見て一つの想像に辿り着いた。島原・天草一揆の四年後にこの地が幕府によって寄進され、この神社は対キリスト教戦争の総司令部として位置づけられたのではないか、と。

 本作でも、別の拙作でも繰り返し触れてきたことであるが、長崎は禁教の時代にはキリスト教との宗教戦争の最前線であった。そもそも、大村藩自体が戦国時代末期にキリシタン大名大村純忠によってキリスト教に改宗させられ、神仏の信仰が迫害されたという歴史を持つ。それに加えて、南蛮人による日本人の奴隷売買も進んでいた。戦国時代で乱取りも横行していた時代に何を言っているのだろうかと首を傾げたくもなるが、国内問題と国際問題とを分けて考えれば大問題であった。なお、奴隷貿易については布教の妨げになるということでイエズス会の提言により禁止されることとなる。それでも、長崎や茂木の寄進という事実を基に、秀吉による伴天連ばてれん追放令が出された。そして、その後には日本二十六聖人の殉教、島原・天草一揆、鎖国と伴天連には冬の時代が続く。

 これを信教の自由という名の錦旗で蛮と断罪するのは容易であるが、未だに続く急進的な宗教の派閥を見ればそのような恥ずかしいことはできない。ただ、キリシタン大名から切り離された長崎は、その後も対キリスト教との戦いの最前線として位置し続けることとなる。そして、そのソフトな戦法として秋の例大祭である長崎くんちが行われるようになった。その中の行事の一つである庭見世では、華やかな祝いの品や祭の道具を披露し街を盛り上げると同時に、禁教の品がないことを示した。このような実利もあった長崎くんちであるが、何よりも民衆を熱狂の渦に巻き込んで文化で塗りつぶしてしまうという面でも上策であったように思う。事の善悪の判断は他人に任せ、目的と手段という面にのみ焦点を当てた場合の話ではあるが。

 そして、その中心を市街の一望できる山の上に置いたということもまた、管理や監視という面からみた場合に好都合であったのだろう。航空機も高層建築もない時代である。俯瞰ふかん可能というのはそれだけで要衝になりうる。今となっては年表の上であるが、現実的な問題として存在していた頃は切実な問題であったという証左である。

 ただ、今ではその位置づけも変化し、正月には初詣客で溢れかえり、長崎くんちでは神輿が勢いよく駆け上がる。未だに生で見たことはないのであるが、神代の急勾配を生身の男達が大きな人工物を背に征く様というのは江戸の頃より変わりないのであろう。私自身は御免被りたい限りであるのだが。

 また、その麓には庭ほどの大きさの動物園がある。目を見張るような動物などおらず、小動物が長閑に過ごしているだけであるが、今はそれが許される世であるということなのだろう。それとも、小さな兎たちは今なお祈りの声を聴き分けて、ご神体にその様を報告でもしているのかもしれない。


 石段を いくつ踏みしめし 下界小さし 諏訪の大社に 参る人々

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