第十七段 バーの琥珀

 長崎で飲み屋街といえば思案橋方面であるが、旧東浜町の界隈もまた面白い店が多い。その中の一つが「ソムパテ」であり、こちらでは洋酒に合わせてスイーツが楽しめるカジュアルなバーとなっている。本来であればこちらを紹介するのは店の趣旨として菓子などに合わせるべきなのであろうが、私の中ではあくまでも洋酒を嗜む場として存在しているため、バーとなっている。ただ、若いマスターが供するスイーツはいずれも小洒落た逸品であり、定番の赤砂糖のクリームブリュレを筆頭に、季節に合わせて揃えられている。

 その中でシャンティ・ガフをやりながらミックスナッツを摘む私は異端もいいところである。ただ、こちらのシャンティ・ガフは比率もあって凛とした佇まいをしている。それが店に流れる端正な薫りと相まって私を魅了して止まないのである。それに、甘味を頂く際にはスパークリングワインでやることが多い。舌の上で幻想の世を現とするのを祝すのである。故に、ボトルが一本空く。故に、普段はシャンティ・ガフで余韻を味わうのに止めるのである。

 世を捨てる 甘さや今日も 酒を酌む

   酔えば良い宵 帰りは怖い

 店の戸を開けると、急な下り階段が並ぶ。そこで現に戻らねば三途の川を目にすることになる。至れり尽くせりと言えよう。

 こうした新鋭でありながらも門戸を広げる店がある一方、昔ながらのバーもまた確とある。鍛冶屋町は崇福寺通にあるセラー・ランプライターはそうしたバーの一つであり、私が最も入れ込んだ店の一つである。闇に溶け込むシックな店構えは無言で人の心に語り掛け、赤寺を前に粛然と控えている。しかし、中に入れば一面のコースターの群れと琥珀の世界が広がり、男は穏やかに揺られる。

 私が初めて訪ねた際は、老齢のマスターと細君、それにご子息の三人で切り盛りされていた。緊張してその戸を開き、カウンターに座ってもなお汗の滲む手を握りしめた小僧はやがて一杯のカクテルを頼む。磨かれたシェイカーが中空を舞う。その艶に息を呑む。永い一瞬が終わり、グラスに翡翠が満ちる。

 ギムレットはバーによって千変万化するが、私にとってのギムレットはこの一杯である。古式ゆかしくライムジュースを用いたその味は、フレッシュライムを用いた今の主流のそれよりも甘い。ただ、その甘美は耽美となり、細君の気の置けない語り口がララバイとなって現の世に別れを告げる。乾き物の小袋を一つ空けて摘まみ、まだ早いという戯言を心で呟けば、憂さはいつの間にやら闇に消えた。時に覗かせるマスターの笑みと、控えめながら豊かなご子息の合いの手は見事であった。そして、長崎くんちの頃に供された石榴膾がそうした記憶に精彩を加える。

 ただ、それを今目にすることはできない。私が長崎を発つ前の夏に細君が鬼籍に入られ、それから一年半ほどしてマスターもあちらで店を開かれた。細君亡き後、気丈にもカウンタに出られていたマスターであったが、語らぬ陰がその寂寥を示していた。だからこそ、長崎を発つ前に心配をしていたものであるが、帰省の折に話を伺い、私は手を合わせた。

 それからの私は長崎に戻る機会も減ったのであるが、折を見てはこちらへと伺っている。今はご子息が「マスター」として立ち、店を切り盛りされている。今のマスターの落ち着いた語り口は、先代ご夫妻の在り方とは少し異なるものであるが、琥珀に彩られた空間を安らぎの場にするという点では変わりない。常に供されるギムレットこそフレッシュのものに変わったが、古式のギムレットも頼むことができる。そして、そのシェイカーを揮われるとき、先代の笑みがカウンターの前に浮かんだように見えた。

 夜の果てに 琥珀の夢を 人は見る

   翡翠の杯の 繋ぐ浮橋

              (第一七段)

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