第九段 伝統の味

 長崎で有名な割烹といえば、浜勝、吉宗という両巨頭がまずは脳裏に浮かぶのであるが、それはともに私の祖父に通じるから面白い。昔からの大店であり、出前も引き受けていた「吉宗」を祖父は好んでいた。特に、大きな茶碗蒸しは圧巻で、対になる蒸寿しと一緒にいただけば、それだけで満腹が約束されるだろう。目が不自由になった祖父がこの味を愛することに幼い私は不思議で仕方なかったが、今となってみればよく分かる。その祖父は晩秋の午後にこの茶碗蒸しをぺろりと平らげ、そして、その晩に鬼籍へと入った。九十三ではなかったかと思うが、今考えても大往生である。生粋の長崎人であった。

 一方の「長崎卓袱浜勝」はその祖父の法事で利用したきりである。海老アレルギーのせいでハトシを食べることは叶わなかったが、居並ぶ豪勢な料理に目を剥いたものである。そもそも卓袱料理は和食をベースに中華とオランダ料理の融合した長崎の伝統料理で、出島を持っていたが故に成立し得た文化の結晶である。まずは御鰭と呼ばれる吸い物に始まり、大皿に盛られた料理を取り分けながらいただいてゆく。角煮が出る、ハトシが出る、刺身が出る、パイが出る。その豪勢は今の時代に物珍しさを与えるものではないのかもしれない。ただ、幼少の頃に見たその輝きは江戸の世の羨望を彷彿とさせ、往時の肉や魚の持つ有難みをまざまざと見せつけられた。

 しかし、伝統の食という重みを日々背負って食に挑み続ける方々には頭が上がらない。殊に「吉宗」の入口には銅鑼が置かれていたように思うのだが、今でも残されているのだろうか。こうしたものを失うのは一瞬であるが、根差すには莫大な時間と労力を要することを考えれば残っていて欲しいものである。


 円卓に 居並ぶ顔の 誇らしさ 締め出すものの なき現世に


 さて、長崎の名物料理といえばちゃんぽんを思い出す方が多いであろうが、私にとっては先に皿うどんが頭を過る。人によってはあんかけ焼きそばと同じではないかと思われるかもしれないが、それを言われると長崎駅前の商店街に居並ぶ大皿皿うどんのレプリカが寂しそうな顔でこちらを向いているように感じてしまう。皿うどんではその揚げた麺の細さこそが重要であり、うどんを謳いながら太くないというのは看板に偽りありの観はあるが食べていて非常に心地が良いものである。揚げたての軽快な食感も良いが、餡が馴染んでしっとりした麺もまた皿うどんの見せるいい一面である。そして、これにウスターソースとご飯を欠かすことは許されない。

 このような皿うどんであるが、これを出す店は長崎に数多く存在している。ただ、馴染みという点においてはリンガーハットが圧倒的である。本作においてチェーン展開する店を紹介するのはいかがなものかという声もあろうが、長崎でこそその存在感の大きさは計り知れない。また、その在り方は長崎そのものと言うことができる。いずれ語ることとなるちゃんぽんの安さ、多さと言ったら留学生の胃を満たしたという元来の姿を見せられる思いがする。そして、何よりも家の近くの店で持ち帰ったときの期待感と、家で折を開けた時の感動といったら中々に代えがたいものであった。私の実家から階段を上って十分ほどのところにあった店舗で買い求め、急勾配を下っていくというのは長崎らしい風景である。その店も今では潰されてしまい、跡地はアスファルトの合間より意気揚々たる雑草が伸び放題となっており、往時の在り様など偲ぶべくもない。我が家の我が儘な注文に対して快く応じ、私に貴重な外食の楽しみを与え、長崎の在り方を示した。そのような貴重な場は近くのスポーツセンターとともに、今や胸の内にのみ残されている。


 団欒を 繋ぐ錦糸は 餡に濡れ 昔を思え 手弱女のごと

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