第二三段 新たな味
長崎といえば古来然とした都市であると考えられる方はいらっしゃらないとは思うが、それでも江戸期より栄えた交易都市、漁撈集落は独特な食文化を築いてきた。角寿司やそぼろなどを今年の正月は拵えて迎えたのであるが、手前味噌ながら満足のいく出来であった。流石に伝統という言葉の持つ重みは大きいと唸らされたものである。
その一方で、新たな味が生まれ出るというのは街が生きていく上で不可欠である。古い皮膚が朽ちて剥がれ、また新たな皮が生まれるように栄えては廃れを繰り返すのが飲食店の健全な姿だ。これが廃れる方にばかり傾けば衰退の足音が近づくのは言うを待たないが、目の舞うほどの誕生に傾くのもまたいずれの衰退を招く。急激に客という牌は増えぬのだ、養分の吸い尽くされた田畑のようにその業界が枯れ果ててはたまらない。
話が逸れてしまった。程よい新陳代謝を起こす新たな味が生まれ出ることを願ってやまないのであるが、比較的「新しい」とすべき味を辿ってみると、なかなか良い例が出てこない。佐世保バーガーが最初に姿を現したのであるが、そして好物なのではあるが、今回はお引き取り願うことにする。佐世保も長崎ではあるのだが、「長崎」ではない。
やっとのことで頭をもたげてきたのは、角煮まんである。元々、卓袱料理などで角煮が供される時には包子が並んでいたようであるが、これを手軽に挟み込んだのが角煮まんである。私もこれは祖父の法事の際にいただいたことがあるのだが、角煮が出る席というのはそれなりに敷居が高い。無論、家で作ればそのようなことはないのだが、そこに包子はない。そのような贅沢を一つにしたのは「岩崎本舗」であり、今でも帰省の際に目にすると思わず目元が緩んでしまう。
とはいえ、これは必ずしも蕩けるような旨味だけによるものではない。この角煮まんに欠かせないのはテレビコマーシャルであり、これに出演する爽やかな女の子である。高校時分、長崎の陽光を浴びてその街並みを駆ける少女の姿に、思わず私は眩暈がした。それを当時は何かしらの恥ずべき感情によるものではないかと疑っていたのであるが、今にしてみれば青春とは、長崎の街とはこうあるべきであったのかもしれないと思う。その瞬間を生き、溌溂と未来に向けて駆ける。それを思い出させるこの一品が浜町にあるというのは中々に心憎い。
同じく高校生から学生時分にかけて出てきたのは「いなほ焼き」であった。これはたこ焼きの具を太閤焼(あえて蜂楽饅頭と呼ぶべきか)のように綴じたものであるが、今は無きユニード・ダイエーの姿と相俟って郷愁を誘う。何のことはない味付けなのであるが、手軽さ腕白さが加わってこの項を書く今、その食欲を抑えることができずにいる。とはいえ、地図情報を見る限りその姿は長崎から失われている。私はこの欲求をどこへぶつければよいのか。
そういえばと思い出して見ると、最後に長崎を訪ねた際にはこの店の近くに焼き小籠包なる商品が売られていたのを思い出す。調べてみると各地で名物化を図ろうとしているようだが、果たしてそれは名物なのだろうかと首を傾げざるを得ない。一ついただいたように思うのだが、その味は長崎「ぶたまん」の記憶に上書きされてしまっている。
そういえば、「午前様のお供」として友人のご母堂が思案橋の入り口でこの「ぶたまん」を商っていたのであるが、大人になっていただいてみると酒後にも街歩きにも良い。今ではその店から友人も離れてしまったのが、新たな味の行く先とはこのようなものなのかもしれない。
日常の 裏に隠れて 「ハレの席」 数多の日々を 味わいに変え
なお、同僚に土産として配ったところ好評であった。新たな物が熟れ得る土壌を持つ時代であったことが証明されたし。
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