第二二段 原子の雲
長崎と いう名は今も ここに在り あのあつきひの 燃える思いと
長崎の名前が全国で、世界で用いられるとき、それは必ずしも明るい話題とは限らない。むしろ、核兵器による最後の被爆地としてのナガサキとして取り上げられることが多く、過去との対話においてその名が取り沙汰される。私もまた度々長崎をそのような場所として取り上げており、恐らく今後も取り上げ続けるだろう。高二の夏に詠んだこの一首がその始まりであり、三年前の県民文芸賞で上梓した「日常の燔祭」はこの思考の延長線上に在る作品であった。
とはいえ、原子爆弾を投下された長崎は本当に原子爆弾によってのみ苦しめられたのだろうか。
高校時代の私は文芸という手段を手にして初めて真正面から原爆と向かい合ったのであるが、あの当時の燃えるような情熱と今の諦観に似た感情は既に異なっている。その大きな要因は福島第一原子力発電所の事故によるものであるが、正しくはその流れを追ったことによることの方が大きい。実際、全線復旧する前の浪江町に寄り、帰宅困難区域をバスで通ったこともあるが、それこそが長崎の直面した苦しみの一つではなかったっかという後悔がある。
「ノーモア、長崎。ノーモア、ウォー。ノーモア、被爆者」
この国連演説の一節は、私も大いに同意する。二度とあって欲しくはない悲劇であると浦上の地を通る度に誓うのであるが、恐らくこの地を八月九日に通ることは二度とないであろう。高校時代の私であれば多種多様な活動家の話を伺ったのかもしれないが、その先に何があるのかを見てからはこの「ハレ」の行事に寂しさを覚えるようになってしまった。訴えるべきは誰に対してであろうかという思いは膨れ上がり、ただただ消費される悲劇性に胸が痛む。あの国連演説が名演説であったというのは、内容や言葉よりも場の持つ意味合いの方が大きい。
その一方で、被爆地というのはまるで試験管のように見られることがある。長崎は蛍茶屋電停の近くに立派な白い建物があるが、ここに放射線影響研究所が置かれているというのを今なお意識している人は長崎でもどれだけいることだろうか。
放射線影響研究所は元々米軍が原爆の影響を調べるために設置した組織であり、今でこそその研究は広く知られているが、当初は受診した当人さえも病状を知らされなかった。この建物を指して、祖父母の墓参りに母は憎々し気に組織の在り方を語ってくれたが、幼少のこと故私はその中身をほとんど忘れてしまった。しかし、あの表情だけは生涯忘れることはない。被爆二世であった母は既に鬼籍へと入っている。
幼少の頃といえば、まだ周りにはケロイドの残る老人をよく目にしていた。私などは特に気にも留めなかったのであるが、県外から来た方の中には、怪訝な顔をされる方もいらした。昔の薄暗い原爆資料館で様々な資料を見た覚えはあるのだが、私にとっての原子野は常に生活と隣り合っていた。
その感覚が一般的でないと知ったのは、それよりも後年のことである。被爆者が結婚の上で差別を受け、県外に出れば原爆病がうつると揶揄されたという話を知ってはいたのだが、いまいち実感が湧かなかった。それが、福島出身の方が同様の虐めを受けたということを知り、七十年近くの時を経ても変わらぬ原子の雲の闇を見たような心地となる。芽吹きの香りを鼻腔いっぱいに吸い込みつつ、私はこの原子野の中心で科学がやがて救いを与えんことを祈るばかり。この地で起きたことは他に類を見ないことであるが、この地に生まれ、生きることは青空と同じように等しく与えられたものである。
年表も 写真も資料も 地獄絵図 中には口の 陰一つ無く
浦上の丘は、今年も万緑が映えていることだろう。
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