第二段 港町に生きる
自分の悪い癖として、どうしても余談へと走ろうとしてしまうところがある。だからこそ、長いエッセイを書く場合にはそうした気分を程よく抜いておくか、もしくは予め待避線を
長崎の地は元々小さな
鶴の港――それが長崎港に与えられた敬称である。と、長崎市のパンフレットに書かれていたことがあり、また、水産に関わるものにこの名前が引き継がれているという事実もある。母校である長崎大学の水産学部が有する実習船には鶴洋(かくよう)丸という物があり、旧水産高校は鶴洋高校と名前を変えた。また、私の普段は使わない雅号は鶴崎。故郷を離れて暮らすようになった私が唯一残すべきと考えた足跡をこの名前に込めた。長崎の鶴の港よ、常に平和を保ち明るく在れ、と。まあ、自分語りなどどのようでもいいのであるが、それほどまでに長崎の人間にとって港と坂が間近にあるのはごく自然なことなのである。
だから、長崎の人間は自然と港町に生きているといっていい。別段、平素から舟を
神戸もまた海に近く開国によって港としての機能を強化した。しかし、港と枕を共にするというには心の距離が遠い。繁華街はあくまでもそれよりも内側となってしまうためそこに息づくという感覚は薄い。そこにあるのは人の声よりも倉庫と企業の拠点ばかりである。これは港湾地区と言うべきか。
広島は市街を縦横無尽に河川が駆け巡り、壮麗な水の都と言っても過言ではない。ただ、それは川の中州としての意味合いの方が強く、港町により近いのは呉市の方であろう。呉市は日本でも最たる軍港である。
徳山(現周南市)も繁華街が海に近い。ただ、駅を挟んで海の方は人の住む港町というよりも瀬戸内工業地域の石油化学コンビナートの
そして、熊本市は港を望むべくもない。私はいずれもいい街を住処としてきたのではあるが、原風景とも言うべき、人の活気が港に面した都市から遠ざかっているというのでやや寂しさを感じることがある。時に、無性に海を眺めに行きたくなることがあるが、その先には出立の時に置き去りにした一羽の鶴への
身を変えて 恩を返した 鶴の海 異郷に一人 あればこそ思う
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