問われる覚悟

「……ふう」


 慣れ親しんだ自室のソファーに腰を下ろし、リリーナはほっと息をついた。それからはしたないと思いつつ、誰もいないからと両足を投げ出してぶらぶらと揺らす。

 たちまち開放感に全身が包まれた。固く強張っていたものが、爪先からじんわりとほどけて行くような気がする。特に何を頑張っていたとは思わないけれど、やはり気持ちとしてはぴんと張り詰めた状態ではあったのだろう。


 でも、これで全てが終わったわけではなかった。

 キースとの婚約を、リリーナの存在自体を快く思わない人物はいる。今回は偶然それが浮き彫りになっただけで、リリーナはまだ認められてはいないのだ。


 キースは無理をしてまで頑張らなくていいと言ってくれた。それでも頑張らなければいけないと思う。もちろん限界点を越えることで却って迷惑をかけてしまうような事態には十分気をつける。けれど、今まで特に何もしなかったリリーナはこれから人の何倍も頑張らなければいけない必要はあった。


(私は国を支えるなんて出来ないけれど、せめてキース様をお支えしたい)


 リリーナにしか出来ない方法はきっとあるはずだ。

 肝心のその方法はまだ見つかってすらいないけれど、やれることがあるならキースと接するうちに見つけられると信じたい。

 それは、甘い考えだろうか。


「お嬢様」


 メイドの声と共にドアのノックが響いた。リリーナは顔を上げ、ドアを開ける。

 幼い頃からディアモント家に仕えてくれているメイドだった。慣れ親しんだその顔にも懐かしさと安堵を覚え、家に戻って来たのだと実感を重ねる。


「旦那様が、お話ししたいことがあるとおおせです」

「お父様が?」

「書斎にてお待ちになられております」

「分かったわ」


 必要最低限の言葉のみ交わし、書斎へと向かった。




「戻って来たばかりで落ち着く前にすまないね」

「いえ。どうかなさったのですか?」

「うん――ちょっと話したいことがあってね。たまには父様と一緒にお茶を飲んでくれるかい」


 そう言って父は来客用の椅子をリリーナに勧めた。リリーナが言葉に従うと父もまた、小さなテーブルを挟んだ正面の椅子に腰を下ろす。


 束の間の沈黙が書斎に満ちた。

 他人にはあまり聞かれたくない用件なのだろう。リリーナもまた、何も言わずにメイドがお茶の準備を整えてくれるまで待つことにする。


 しばらくして、お茶とケーキの乗ったワゴンを押してメイドがやって来た。

 用意されていたのはストレートのままでも、ミルクを入れても楽しめる風味の強い紅茶と、リリーナの好きなチョコレートのケーキだ。ケーキはおそらく料理長がリリーナの為にわざわざ焼いてくれたのだろう。しかも作ってからまだそんなに時間が経っていないのか、お皿が置かれる時にカカオとコーヒーの香りがほんのりと鼻先をくすぐった。


 ミルクと少しの砂糖を入れ、リリーナはカップに口をつけた。父はミルクと砂糖は入れずに喉と心を潤している。

 お互いがカップを一旦置いたのを合図に、父は人当たりの良い笑顔を消した真剣な表情で話を切り出した。


「リリーナが戻って来る前にキース殿下からだいたいの話は聞いたよ」

「私が階段から落ちた件に関してですか?」

「うん。もちろん、殿下が直接足を運んで下さったわけではないけれどね。君の容体と……その」


 そこで父は気まずそうな顔を見せる。コーヒーを混ぜたシロップを染み込ませた生地とコーヒー風味のバタークリーム、ガナッシュとが美しい層を描くケーキを一口大に切って食べた。

 これらのお茶の一式はリリーナの好きなものではあるけれど、それ以前に人の好すぎる父が気分を落ち着かせる為でもあるのかもしれなかった。父が話したい内容は甘くないものだろう。大人びた甘さを持つケーキで、少しでも気持ちが緩和されると良いと思った。


「その――突き落とした犯人とされる令嬢の証言とかね。毎日まめに手紙を届けて下さっていたよ」

「キース様が……」


 意を決するように語られた事実にリリーナは目を丸くする。

 リリーナのお見舞いにも毎日来てくれていた。その裏で父に報告の手紙を送ってくれてもいたなんて知らなかった。

 家族にも連絡が行っていること自体は想像していた。けれど、それはあくまでも王城からの報告で、キース個人の手で毎日行われていたと誰が思うだろう。キースだってそんなことは一言も言わなかった。


(でも、キース様は何も仰らない方だわ)


 リリーナが知るキースは彼のほんの一部分にしか過ぎない。それでも、彼の性格的に何をリリーナに告げ、何を黙っているのか。その判断は出来るようになって来ているつもりだ。

 キースは素直じゃない。そして――照れ屋だ。だからリリーナを簡単に喜ばせてはくれない。でも彼の言動は、それを知ったリリーナをとても嬉しい気持ちにさせる。


「今回の件は、君が王太子妃に選ばれたこととは直接の関係はないようだね。だけど私たち家族からしたら、君が危険な目に晒されたことには変わらないのも、また事実ではある」


 父は再び紅茶に口をつけると、大きく息を吐いた。

 ここからが本当に話したいことなのだろう。リリーナは膝の上で固く指を組み、父を見つめる。


「もしかしたら、また危険な目に遭うかもしれない。それでもリリーナは殿下と添い遂げたいのかい?」

「はい」


 父からの質問に、一瞬たりとも答えを迷わなかった。


「王太子殿下ではなく、キース様と共にありたいと願っています」

「――そうか」


 力強い返事を受け止め、父は困ったように笑う。


「だったらしょうがないなあ。リリーナ、登城する時に父様が言ったことを覚えているかい?」

「もちろんです」


 リリーナはしっかりと頷き返した。

 馬車の中で父が言ってくれた言葉に勇気をもらった。忘れるはずがない。


「そうか、ありがとう。でもせっかくだし、もう一度言っておこうかな」


 父は嬉しそうに破顔した。

 けれどもすぐさま畏まった様子で姿勢を正し、咳払いをする。何度目かの咳払いの後で優しい目をリリーナに向けた。


「私たちはリリーナに幸せな結婚をして欲しいと、いつだって願っているんだよ」

「はい」

「リリーナは私たちの自慢の娘だから、良い王太子妃になれると信じているよ」


 本当に馬車の中で言っていた言葉と同じだ。

 リリーナはあの時のやり取りを思い出し、同じように笑う。


「やっぱり、今からお嫁に行くみたい」

「今からは困るなあ。でも……そろそろ父様も本格的に覚悟を決めないといけないね」


 父は力のない笑顔で呟いた。自らの額に右手を押し当てると少しの間、視線を遠いところへと向ける。

 その"覚悟"とは、単にリリーナが嫁ぐことに対してだけではない気がした。リリーナの直感を裏づけるよう、父の目には先程までの"娘の結婚を嘆く父親"の色はもう見えない。ディアモント家当主の顔がそこにあった。


「我が家は伯爵位ではあるけれど、中央で取り立てて強い権力を持っているわけじゃない。だから君が王城内で窮地に陥った時、父様たちが力になってあげられることは少ないだろう。でも殿下の次でもいい。君が父様たちを頼ってくれたら、とても嬉しいよ」


 リリーナはさらに強く頷く。


 ありがとうございます。

 頼りにしています。


 伝えたい言葉はあるのに胸がいっぱいで言葉が何も出て来なかった。


「せっかく君が帰って来たのに何だかしんみりさせてしまったね」


 リリーナが首を左右に振ると、父は穏やかな笑みを浮かべた。でも、と険しい表情をして言葉を紡ぐ。


「正直な気持ちを言うとね、ずっと心配してはいたんだ。あまりにも急な縁談だからね。殿下のご寵愛を得られず、それどころか冷遇を受けるのではないかと懸念は尽きなかった」


 リリーナは指で涙を拭いながら父の話に耳を傾ける。

 心配しすぎだと笑い飛ばせるはずがない。冷遇を受けるとまでは考えてはいなかったけれど、リリーナも同じような懸念を感じてはいた。

 だから何も言えなかった。

 

「今回の事件の報告を受け、これ幸いとばかりに君の立場が追いやられるのではないか。婚約の発表も延期になったし、話を何とか白紙にして今すぐこちらに戻して欲しいと嘆願することさえ考えたよ。だけど君も先程見たように、殿下は我々にとても誠実な対応を示してくれた」


 リリーナの目に新しい涙が潤む。

 当主の顔と父親の顔の混じった表情で、父は口を開いた。


「王太子殿下に父様が人物評を下すのもおこがましい話ではあるけれど……良い若者と巡り会えたね」

「――はい」

「決して殿下の手を離さず、共に幸せになりなさい」


 リリーナはまたしても、頷くだけで精一杯だった。


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