見知らぬ悪意
「……ふふ」
リリーナは何度目かも分からない思い出し笑いを浮かべ、クッションを胸元にギュッと抱き寄せた。
「日曜から、ずいぶんとご機嫌が続いているね」
本から顔を上げ、ヘンリーは苦笑しながら紅茶のカップに手を伸ばす。クッションを固く抱いたまま、リリーナは「だって!」と声が弾むのを隠し切れなかった。
「君が王城に移り住んだら、一緒に絵を描くと殿下が約束して下さったんだろう? この数日間だけでも何十回と聞いたよ」
「だって、まさか本当に聞き届けて下さるなんて思ってなかったんだもの」
温厚な兄にすら言外に「聞き飽きた」と言わせるほどの勢いで、リリーナはもう何度も同じ話をしていた。もっとも、今回に限ってはヘンリーから話を振って来たのだから諦めて欲しい。
あの後――食後のお茶を一緒に嗜みながら、リリーナはタイミングを逃して言いそびれてしまったことを提案してみた。
二人で一緒に、一枚ずつ絵を描いて行くのはどうだろうかと。
キースは当然と言うべきか難色を示した。でも、絵なら二人が一緒に見たものをずっと形として残しておける。だからリリーナも引かなかった。
聞き分けがないと呆れられてしまったかもしれない。けれど、それによって取り返しのつかないくらい嫌われた様子もなかったし、きっと大丈夫……だろう。
「上手く行くか心配ではあるけれどね」
「キース様が、絵はお上手じゃないかもしれないということ?」
そこはリリーナも心配した。キース本人にも、やりたくないのは絵が上手くないからなのかと聞いてしまったくらいだ。
「いや」
ヘンリーは意味ありげにリリーナを見て笑みを浮かべはしたものの、何かを思案するように人差し指を唇に押し当てた。
「いや、まあ……案外上手く行ったりするのかもしれないね」
妙に歯切れの悪い言い方だ。らしくない様子のヘンリーに首を傾げつつ、リリーナも紅茶を飲もうとテーブルの上のカップに向けて手を伸ばした。
その時だ。
「お嬢様、こちらにいらっしゃいましたか」
一通の封書を手に、開け放たれた状態の居間の扉から姿を見せた。どうやらリリーナを探していたらしい。
「もしかして部屋まで行ってから探してくれたの? それなら手間をかけてしまったのね」
「とんでもありません。それも私の仕事ですからお嬢様がお気になさることは何もございませんが……」
心なしか顔色が良くないような気がする。何故だか、その理由が彼女の持つ封書にあるのではないかと思った。
「ありがとう、ご苦労だったね」
同じ考えに至ったのか、ヘンリーがリリーナの代わりに封書を受け取る。リリーナに気遣わしげな視線を向け、メイドが一礼して下がるとヘンリーは封書の表と裏とを見比べ、わずかに表情を曇らせた。
「どうかしたの? お兄様」
しばし
手紙の宛先には確かにディアモント家の住所と、リリーナの名が記されている。けれど裏側にあって然るべき差出人に関しては一切記名されておらず、足がつかないようにする為だろうか。不自然なまでにわざと角ばらせたような字体だった。
こんな特徴のある文字を意識もせず普通に書くのなら、差出人もすぐ特定されるに違いない。だから、目的があって崩していると見た方が良いだろう。
そうすると手紙の内容もある程度は推察されると言うものだ。
名乗らず、筆跡で身元が割れては困るなど、ろくでもない内容だと開封する前から言っているに等しい。見ただけの人間が揃って渋い顔をするのも自然な話だった。
「さてどうしようか。小包じゃないから、物理的な被害は少ないと思うけれど」
あくまでも、物理的な被害は少ない。その代わり、精神的な被害は甚大という可能性は十分にある。リリーナは立ち上がり、壁際のスツールへ向かうといちばん上の引き出しからペーパーナイフを出して戻って来た。
「僕が開けて先に内容を確認しようか?」
「ううん」
ヘンリーの申し出に、やんわりと首を振って辞退する。
「私に宛てられた手紙である以上、自分でも見ないわけにも行かないもの。心配してくれてありがとう、お兄様」
「いつか王太子妃になる身であっても、僕のたった一人の大切な妹には変わりがないからね」
「うん。お兄様たちが味方でいてくれるって分かってるから、大丈夫」
「薄い刃物が仕込まれてないとも限らないから念の為、あまり端には触れないように切るんだよ」
リリーナは頷き、裏側を上にした封筒をテーブルに置いた。そういえばと封蝋の模様に目を向けるも、家紋入りの
意を決して封筒の端の隙間にペーパーナイフを差し込み、封を開けて行く。何かが刃先に引っかかるような様子もない。そうして反対の端まで開き終えると、切り口を大きく開かせた。
中には折り畳まれた白い便箋が一枚入っているだけに見える。はしたないと思いつつ逆さにして振ると、便箋がひらりとテーブルに落ちた。
「他の封入物はありそうかい?」
「ううん、便箋だけみたい」
兄からの問いかけに答え、リリーナは注意深く慎重に便箋を開く。
宛名と同じように角ばった文字を追ったリリーナの表情が凍りついた。そんな妹の様子にヘンリーは便箋を取り上げると視線を落とし、ゆっくりと深く息を吐き出す。
「痛い目に遭いたくなければ王太子殿下との婚約を解消しろ、か……。シンプルだけどなかなかに悪意の込められた内容だね」
一目で脅迫と分かる文章にリリーナの頭の中は未だ真っ白だった。
キースの、王太子の婚約者に選ばれることを幼い頃からずっと望んでいた令嬢に強い敵意をぶつけられるのは仕方がない。そう思っていた。
だけどそれは……何と言えばいいのだろうか。綺麗ごとと思われるかもしれないけれど、正々堂々と異議を申し立てることによってぶつけられるものだという認識だった。
王太子妃になるということが、顔も名前も分からない誰かの明確な悪意に晒されることでもあるのなら、リリーナの認識はまるで甘かったとしか言い様がない。
「殿下にご報告を入れていただくよう、父上に頼むよ。ディアモント家だけで処理できるような話じゃないからね」
「……はい」
リリーナとてヘンリーが何を思ってそう言うのか分かっていた。迷惑になるからと黙っていた方が、結果的により大きな迷惑をキースにかけてしまうことになる。
何も起こらないなら起こらないでいいのだ。ただ、もし万が一にでも何か起こってはいけない。リリーナは王妃となる存在であり、代替えの利かない立場でもある。正式に婚約を発表した後のリリーナが王城に居住を移すことも、護衛を配置しやすい位置に置いておきたいからなのだろう。
手紙もキースの手に渡るよう、この場はヘンリーに預けてリリーナは息をついた。兄がいてくれるおかげで多少は持ち直したとは言え、悪意によって揺らされた心はまだ元通りの場所に収まってない。
「大丈夫だよ、リリーナ。僕たちがついてるし、殿下も必ず君を守ってくれる」
「うん」
紅茶を一口飲んで再び息をつき、ようやくリリーナは顔を上げた。
このまま沈み込んでいたら、それこそ相手の思うつぼだ。差出人が何を目的にしているのかなんて分かりようもないけれど、リリーナはキースと二人で幸せになる。すでにもう心をそう決めたのだ。姿の見えない悪意に負けたくない。
「君が殿下の婚約者に選ばれたことは誰から見ても突然の展開だし、聞いてもあまり意味もないような気はするけど悪意の主に心当たりはある?」
リリーナは静かに首を左右に振った。
シャルドネイト家で開かれたバーバラの誕生パーティーに参加していた令嬢は、そんなに多くない。けれどすでに一ヵ月近く経過している。その間、参加者の口から噂が方々に飛んで話が広まっている可能性は十分にあった。
だからあの日、場に居合わせた令嬢の誰かが犯人だと簡単に決めつけるのは早計だろう。
そもそも女性が差出人であるとも限らない。娘なり姉妹なり身内の令嬢を王太子妃にしたい男性の仕業ということだって普通に考えられる。誰から向けられた悪意なのか、名指しで結論づけられるだけの判断材料はこの段階では何もない。
「今のうちにバーバラにも会っておこうかしら」
王族になったら、一個人とあまり親しくしてはいけないとキースが言っていた。ある程度は自由に動けるうちに、友人としてゆっくり話をしておいた方がいいかもしれない。
エドガーとのことも気になるし、パーティーの列席者を記した一覧も王家から提出の要請があるだろう。
「それがいいね」
ヘンリーの同意を受け、リリーナはすぐにでもバーバラに手紙を出すことを決めた。
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