夫婦になるということ

「おかしいところはないかい」

「ふふ、大丈夫ですわ、旦那様」


 その台詞を聞くのはこれで何回目だろうか。

 登城の日取りがキース本人の口から正式に伝えられてからというもの、ディアモント伯爵家は普段とはまるで違う空気に包まれていた。


 中でも父は、国王と直接の話をするのは家督を継いで二十四年目にして今回が初めての経験になるらしい。その為に連日朝から晩まで飽きもせず、少しでも手が空けば謁見に赴くにあたって用意した衣装を気にして母の意見を仰いでいる。今はと言えば二本のネクタイを手に、どちらが合うのか迷っているようだった。


「旦那様はとても繊細で優しげなお顔立ちですし、柄物より綺麗な色合いのネクタイの方がお似合いだと思いますわ」

「そうか……。そうだよねえ。私も柄物はどうかなと思ってはいたんだよ。センスが良い君がそう言うなら無地にしよう」


 父に負けず劣らずおっとりとした性格とは言え、よく母も毎回付き合えるものだと感心する。もしこれがリリーナだったら、とっくに投げ出しているかもしれない。

 でも父と母は傍目にも楽しそうな様子だ。衣装選びも夫婦の時間として二人とも楽しんでいるような節もあった。


 それに、基本は父の意見を尊重して褒めつつ、時折さりげなく父とは違う自分の考えを伝えて通す母の言動は、父の扱い方を十二分に熟知したそれだ。夫婦の在り方なんてリリーナにはまだよく分からないけれど、妻とはこうあるべきものなのかもしれないとさえ思わせた。


 直接言葉をたまわったことは一度もなくても、忠義に厚い父にとって国王との面通りはそれこそ恋人に会うことすら比較にならない大事なのだろう。王族の歴々とはそれこそ全く関わりがないからか、リリーナの方が遥かに冷静だった。


 けれど、この様子では胸ポケットに差すハンカチの畳み方ですら迷いかねない。母が上手く父を宥めてくれることを期待するばかりだ。


 そうして、リリーナより父の方がよほど衣装決めに時間をかけ、登城の日を迎えた。



 とっくに支度を済ませたリリーナも、いざ当日となれば緊張して来る。今日も暖かな日差しに照らされたリビングの窓辺に立ち、父を待ちながら大きなため息をついた。


「さすがの君も今日は落ち着かない様子だね」


 読んでいた本から顔を上げ、ヘンリーが声をかける。リリーナが占い師を訪ねて以降、兄は王家が管理する図書館で様々な文献を借りて来ては熱心に読み耽っていた。最後に肩で息をつき、リリーナは兄を見やった。


「ごめんなさい。気が散っちゃった?」

「いや。大丈夫だよ。僕より君の方が大丈夫じゃなさそうだけど」


 謁見に際し、今のリリーナに王太子妃に相応しい完璧な所作を求められてはいないだろう。けれどそれは淑女らしく美しい立ち振る舞いをすることとは全くの別物だ。

 リリーナは王太子妃となる為の教育は受けたことがなくても、伯爵家の令嬢たるべき教育は受けている。こんな特殊な事情でさえなければ、決まりごとにならって王太子妃候補に挙げられていたはずの令嬢たちと比較されることだって十分にあり得た。


「だんだん緊張して来ちゃって。これじゃお父様のことを笑えないわ」

「何せ国王陛下との謁見だからね。無理もないよ」


 すでにキースの前では初対面であるにも拘わらず、二度もの失態を見せてしまっている。


 あろうことかキースの頬を打ってしまったことに関しては、誑し込むだとかエドガーに対して失礼なことを言ったキースが悪いと今でも思ってはいる。でも、感情的に頬を打った自分にも非があった。

 ましてや相手は王太子なのである。理不尽な仕打ちであっても、あの場でキースが不敬罪と見做みなしていたらそれまでだ。


 馬車の中で眠ってしまったことについては――一刻も早く忘れてしまいたいというのが正直な本音だ。

 話すこともなく、馬車の穏やかな振動と柔らかな座席の心地良さが相俟った結果、つい気持ち良く眠ってしまったことは我ながらどうかと思うし、今思い返すだけでも恥ずかしくなる。


「お父様、まだなのかしら」


 リリーナは頬が赤らんで行くのを感じ、手で顔を仰いだ。

 視界の隅に、鏡が入る。


 レースとフリルで品良く飾り立てられた純白のワンピースドレスにお揃いの手袋を合わせ、先日自分で選んで買って来た紅いバラの髪飾りを身に着けた令嬢がそこにいる。

 決して華やかな装いとは言い難いが、かと言って地味すぎることもない。父の言葉ではないがセンスの良い母に相談して正解だった。


「母上がいるから大丈夫だとは思うけど、一度様子を見に行ってもいいかもしれないね」

「うん。そうしてみる」


 リリーナは頷き、扉へ向かった。ノブに手を伸ばすとわずかに早く向こう側から開き、当の父が母を伴って姿を見せる。


「待たせたねリリーナ、そろそろ出ようか」


 約束の時間に遅れるなど、いちばんあってはならないことだ。

 ようやく父も覚悟を決めたらしい。連日悩んでいた衣装も結局はいちばん最初に決めていたものにしたようだが、父も母も楽しそうにしていたからそれはそれで良いのだろう。


「はい、お父様。お母様お兄様、いってきます」

「いってらっしゃいませ。リリーナ。お父様をよろしくね」

「父上、あまり肩肘を張らない方が良いのでは」


 どちらかと言うとリリーナよりも父の方を心配する母と兄に見送られながら、家を出た。




「すまなかったね、リリーナ」

「どうしたんですか?」


 馬車が王城へ向けて動き出すなり謝罪をする父に、リリーナはその目を丸くした。


 謝られるような扱いを父から受けた覚えは全くない。

 むしろ兄と二人、自由にのびのびと育ててもらって感謝の気持ちしかないくらいだ。


 けれど父は申し訳なさそうな顔を崩さなかった。膝に置いた両手の指を組むと今度は泣き笑いのような顔で告げる。


「私たちはリリーナが良家の子息と結婚して幸せになって欲しいと願っていた。だからこれまでに数々あった婚約の申し出も、今度こそはと祈りを込めて受け入れて来たけれど、その度にリリーナの気持ちをかんがみず傷つけてしまっていたことは否めないだろう」


 リリーナはただ首を振った。

 それを言うならリリーナも両親に謝らなければいけない。


 リリーナが”淡く輝く月の紋章”なんて持って生まれて来たせいで結ばれる相手が限られ、これまでリリーナの為にと持ち込まれた縁談話を十六回も無駄にさせてしまった。

 喧噪を好まず穏やかな性分の父に、王族の身内になるかもしれないなんて重圧を背負わせることになってしまった。

 でも人の好すぎる父はきっと、そんなことは大した問題じゃないと笑い飛ばすに違いない。

 だからリリーナも、父に謝って欲しいことなど何もなかった。


「けれどね、それでもまだ私たちはリリーナに幸せな結婚をして欲しいと、いつだって願っているんだよ」


 私たちのようにね。


 そんな言葉で締めた父にリリーナは笑みを返した。


 兄も父も母も、家族は心配性だ。

 リリーナだっていつまでも子供じゃない。現に永遠の伴侶となるべき相手を探しはじめている。


 でも、優しい家族の元に生まれて来て本当に良かった。

 だから嫁いだ先でも幸せになりたい。

 そうして、子供たちにも今のリリーナと同じように思ってもらえたら最高ではないか。


 結婚相手があの、キースだとしても。


「結婚だけが幸せな生活だとは思わないけれど、結婚が幸せの形の一つであることは事実ですもの。お父様もお母様も私の幸せを思ってしてくれたことに変わりはないし、私なら大丈夫です」

「もちろん、何が幸せかは君自身が納得して決めることなんだけどね。最初の婚約が破談になった時も大丈夫だって言っていたし、一人で無理を抱え込まないか心配にもなるよ」

「それこそ大丈夫です。私には家族や友達もいますから」


 リリーナは父を安心させるように笑い、堪らずに吹き出した。


「何だか、今からお嫁に行くみたい」

「それは嫌だなあ、婚約が決まるだけでも寂しくなるのに。でも婚約が決まらないのはもっと嫌だなあ」


 腕組みをして父が唸る。深く眉根を寄せているが、そこまで思い悩むことだろうか。

 母ならばこんな状態の父の扱いも長けているに違いない。夫婦というものは、お互いにいちばん理解し合った関係を言うのかもしれないと漠然と思った。


 ふいに父の手がリリーナの頭に乗せられた。まだ小さかった頃によくそうされていたように、頭を撫でられる。


 父といい兄といい今になって頭を撫でるのは、リリーナが逆にもう子供ではなくなるからなのだろうか。


「でもリリーナは私たちの自慢の娘だから、良い王太子妃になれると信じているよ」

「……うん。頑張ります」


 リリーナは馬車に揺られながら懸命に窓の外の景色を目に焼きつけた。

 何て言うことのない、見慣れた街並みが流れて行く。そこではリリーナの知っている人も知らない人もいて、そんなたくさんの人々が毎日を暮らしていた。

 いつか、キースが為政者となったその時は、キースと共にリリーナが守って行くことになるものたちだ。


 キースはきっと政はもちろん、全てのことにおいてリリーナの手助けを必要とはしないだろう。

 リリーナにしても、自分がそんな大それたことが出来るとは思ってはいない。

 守って行くだなんて意気込んでみたって、何をどうしたら良いのか具体的な考えがあるわけではなかった。


 それでも知って行くことは出来る。

 色々なことを見て、覚えて、理解出来たその時に、もしリリーナにしか出来ないことがあるというのなら、キースの為ではなく自分の為に行動したいと思った。


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