バラとガーベラ

 昨日からこれで何度目だろう。

 花束に添えられていたカードを引き出しから取り出し、リリーナはキースの署名を指先でそっとなぞった。


 目を閉じれば触れ合った手の温かさを思い出す。そうすると自然と頬も熱を帯びた。未だ恋というものを知らないリリーナにとっては、それだけでも十分すぎるほどに甘酸っぱく感じる出来事だった。


(――そうだわ)


 リリーナはくすぐったさを伴い、浮き立つ心を落ち着かせて我に返る。

 また花束を贈ってもらった。今度は何をお返ししたら良いだろう。


 こんな時、友人たちには少し気取ったお返しとして、とっておきの茶葉と焼き菓子、それにジャムのセットを贈ったりしている。でもキースは甘いものはあまり好きそうではなかった。一昨日の所作を思い出しても紅茶に砂糖を入れていた覚えがない。

 あるいはもしかしたらコーヒーの方が好きかもしれないし、コーヒーはあまり詳しくないけれど酸味が強いものと苦みが強いものとがあったはずだ。嗜好品なのに嗜好とは異なるものを贈ったりしては本末転倒である。


 まさかまたタイピンを贈るわけにもいかないだろう。何か喜ぶものを……そう思っても昨日の今日だ。キースの情報は何も得られてないに等しかった。


 父や兄に相談してもリリーナに甘い彼らのことだ。「心がこめられているなら品物が何であろうと嬉しい」と答えが返って来るのは目に見えている。


「お嬢様。お嬢様!」


 カードを眺めながら一人唸っているとドアがノックされた。そんなに待たせてはいないはずだが呼びかける声が、ずいぶんと高揚している気がする。

 何か大事でもあったのかと首を傾げてドアを開けると、頬を紅潮させたメイドが口早に告げた。


「グラヴィット公爵家ご令息のエドガー様が、お嬢様にぜひお会いしたいとのことでいらっしゃいましたっ」




「やあ。会うのはバーバラの誕生パーティー以来だね、リリーナちゃん」


 客室のソファーに腰を下ろしていたエドガーは、リリーナの姿を見て取るなり立ち上がると歩み寄って来た。

 まさかエドガーが家を訪ねて来るなんて夢にも思わなかった。リリーナは思わず挨拶さえも忘れ、その姿を無言のままぽかんと見上げる。エドガーはそんなリリーナに気を悪くする様子もなく、花束を手渡すと空いている右手を素早く取って口づけた。


 相変わらず一連の流れが手慣れている。呆れるやら感心するやら、どちらとも言い難い思いを抱きつつ、勢いで受け取った花束に視線を落とした。

 花束は、様々な色のガーベラだった。確かに今がちょうど見頃の花だけれどピンクに赤、オレンジ、黄色、白と五色も良く揃えたものだ。しかも色がぶつかり合わないよう、バランスよく綺麗にまとめられている。


 それこそエドガーなら情熱的な赤いバラの花束を贈りそうなイメージがあったから、素朴で可愛らしい選択に戸惑いを隠せない。

 いやそんなことよりもせめて最低限の挨拶だけでもしなくては。

 そう思うのに状況を理解するのに精一杯で言葉の出て来ないリリーナに向かい、エドガーはにっこりと微笑んだ。


「君に会いたいと思っていることは、バーバラにもちゃんと伝えてあるよ。さすがに家の場所までは教えてはもらえなかったから、自力で調べさせてもらったけどね」

「そ、そうなんですね……」


 リリーナはようやく声を振り絞るとガーベラを左手に抱えたまま、右手だけでスカートをつまんで頭を下げた。


「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。本日は我がディアモント家にようこそおいで下さいました。綺麗なガーベラの花束もいただきながら大したおもてなしも出来ず、エドガー様には窮屈な思いをさせてしまうかと存じますが、わずかばかりでもお寛ぎいただければ当家としても喜ばしい限りです」


 何しろ事前に一切の連絡もなかったのだ。よほどの事態がなければ父も兄も不在だし、母やリリーナが出掛ける予定も普通にある。せっかく足を運んでもらったのに、歓迎どころか出迎えさえ出来ない可能性があったというのはぞっとしない話だ。

 もっとも連絡があったらあったで、王太子の代理人が遣わされると知らされた時と同じか、それ以上の混乱がディアモント家にもたらされていたに違いない。


「驚かせようと思って急に来たのはこちらだし、そこは気にしなくていいよ。本来ならこちらから連絡を入れるべきことなのにごめんね」

「いえ。エドガー様に徒労をかけずに済んで本当に良かったです。どうぞソファーでお寛ぎ下さい」

「リリーナちゃんは優しいね」


 エドガーを立たせたままでいることに気がつき、リリーナは先程まで座っていたソファーへ促した。

 その際に隣を勧められたが、さすがにその申し出には笑顔でやんわりと断りを入れる。公な発表自体はなくてもリリーナがキースの婚約者に選ばれたということはエドガーも知っているだろうに、数々の浮き名を流す彼にとってはあまり気にするべき事象ではないのだろうか。


 それより、少しだけ困った事態になってしまった。

 ガーベラの花束は驚きこそしたけれど可愛らしいし、とても嬉しい。

 でも今のリリーナはキースから贈られたバラの花束へにお礼の品をどうするべきか迷っている。そこへエドガーからガーベラの花束をさらに贈られたとあってはどうしたら良いのか分からなかった。


「エドガー様は、よく花束は贈られるのですか?」

「いや。リリーナちゃんが初めてだよ」


 さりげなく普段はどんなお返しをもらっているのか探ろうとしたのに、質問が唐突で不自然すぎて警戒されてしまったのか、あるいは本当のことを言ってくれているのか。

 満面の笑顔であっさりと否定され、目論見もくろみは見事なまでに大きく外れる結果になった。


 それにしても、とエドガーの姿を見やる。

 わざわざリリーナの家を調べてまで足を運んだりするなんて、何の用事だろうか。真意をつかめずにいるとエドガーはおもむろに口を開いた。


「今日はね、君のことが気に入ったからデートのお誘いにやって来たんだ」

「えっ」


 リリーナは思わず大きな声を上げた口に手を当て、出てしまった声を取り戻すように息を飲んだ。

 そのままゆっくりと深呼吸し、シャルドネイト邸の一件を思い起こす。


 バーバラの誕生日に何の前触れもなく姿を見せたキースが、リリーナを婚約者だと宣言した。エドガーもその場に――しかもかなり近い位置にいて一連の流れを見ていたはずだ。


 それとも「デート」なんて言葉が余計な誤解を招くだけで、一緒に出掛けようというだけの話だろうか。

 どんどん思考をかき乱されている気がして、エドガーの顔を見つめる。でも、リリーナとは比較にならないほど駆け引きに長けているであろうエドガーは笑みを絶やさずに見つめ返すだけだ。


「キースは予想以上に面白味のない男だったんじゃない?」


 エドガーも、先日のエスメラルダと同じことを言う。

 ひどく不愛想な態度はリリーナが相手の時だけに限らず、誰に対しても変わらないらしい。

 そういえば、バーバラの誕生パーティーでもキースとエドガーのやりとりは素っ気なかった。あれは場の雰囲気がそうさせているものだと思っていたけれど、普段もあんな感じということだろうか。


 自分が特別邪険にされているわけではないと分かり、思わず安堵してしまう。

 何よりエスメラルダに言われた時とは違って、まだほんの少しの時間とは言えキースと話したことで、リリーナの心象も良い方向へ変わっていた。

 キースを思い出せば温かくなる心を宥め、リリーナは淡く微笑んでみせる。


「そうでしょうか。私がまだ知らないだけで、良い部分もたくさんあるようにお見受けしました」

「へえ?」


 同調を得られると思っていたのだろうか。エドガーの目がわずかに細められた。もっとも、それは不興を買って機嫌を損ねたと言うよりはリリーナの答えを純粋に面白がっている。そんな感じに見えた。


 エドガーは人好きのする笑顔を浮かべたまま、首を傾げる。


「俺ならキースよりもっと分かりやすく、良いところがいっぱいあるんだけどね」

「エドガー様はキース様とは親しいのですか?」

「そうだね。母親が姉妹に当たる従兄弟同士だから、親しいと言えば親しいことになるのかな」


 キースに対してずいぶん砕けた口調だったのは近しい血縁関係があるからなのか。

 公爵家の時点で王家とは繋がりがあるのは分かっていたけれど、従兄弟同士に当たるとは知らなかった。


 やや緑がかったスモーキーグレーという落ち着いた色合いのフロックコートは、エドガーの柔らかな物腰と良く似合っている。黒の似合うキースがどこにいても一目で見つかるのなら、エドガーは少しでも目を離したらどこかへ消えてしまいそうだ。少なくとも外見から得る印象は正反対の二人であるように思う。


「キースについて、知りたい?」


 真っすぐに目をのぞき込まれ、リリーナは反射的に頷いていた。

 キースのことは、たくさん知りたい。

 けれど、そういうことではないのだと思い直してかぶりを振る。


「俺とデートしてくれるなら、リリーナちゃんの知りたいことを全部教えてあげてもいいよ」


 さらに押され、先程の意思表示では弱すぎて何も伝わらなかったのだと今度は強く首を振った。

 今はまだあまり話が広まっていないことでも、リリーナはもうキースの婚約者であることに変わりない。浮ついた不誠実な行動でキースや王家が守り続けている栄誉に傷をつけたり、迷惑をかけたりするなんてしたくはなかった。


「まだ正式に発表はされていなくても、私はいずれキース様の婚約者となる身です。エドガー様のような素敵な方からお誘いを受けるのは身に余る光栄に思いますが、他の男性と出掛けることは出来ません」

「じゃあキースの許可が下りたら?」

「それは……」


 特別険悪な仲ではなくとも、年の近い従兄弟であるキースへの対抗心なのだろうか。

 何がエドガーをそうさせるのかは分からないけれど、なおも押されてリリーナの心がぐらついた。


 でも違う。


 婚約を解消されない限り、リリーナはキースの隣に寄り添っていたい。


「じゃあ聞いてみてごらんよ。キースが良いって言うのは分かってるし、言われた時はリリーナちゃんが傷つくだろうけど、ちゃんと慰めてあげるから」


 そう提案するエドガーの顔は、何故かひどく酷薄そうに見えた。


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