遠い場所、遠い人

 晴天だった先週とは違って今日は朝から重たげな灰色の雲が空を隙間なく覆い、細かな霧雨きりさめが降り続けている。案内された場所こそ同じテラスだったけれど、庭園を横切らずに王城内を通ることとなった。


 足元が雨でぬかるんでいることを思えば、些か遠回りになっても城内を通るのは仕方がないのだろう。それに暖かい時期ならまだしも、今は冬の気配が強まって肌寒さ自体も増している。吐き出す息も白い日の方が多い。


 それでも、雨露に濡れて普段とは違う表情を見せているであろう花々も見てみたかった。けれどキースに案内してもらう以上、天気も悪く気温の低い外を歩きたいなどと言えるはずもない。でも、いつか王城内を一人で散策する権利を得られたなら、その時は必ず雨の庭園に行こう。

 ガラス窓の向こうに淡く揺れる花を眺め、リリーナはそう決意を固めた。


 無言で前を歩くキースは今日も黒一色だった。雨雲が広がり薄暗い中、暗く沈み込んだりすることなくも凛とした空気を放っている。そう思ってしまうのはきっと、リリーナがキースに対してある程度以上の好意を抱いているからなのだろう。


 護衛は二人ずつ前後についてはいるけれど、会話が聞こえないような距離を開けていた。リリーナは後方をちらりと見やり、それからキースの左手辺りに視線を向ける。


 テラスまであとどれくらいかかるか分からないけれど、また手を繋いで歩きたい。


 そう思うのは、はしたないだろうか。高望みだろうか。


 自分から言い出せるはずもなく、憧れだけを募らせて後を歩く。するとキースが不意に足を止めて振り返った。

 もしかして、無意識のうちに物欲しげな視線を向けていたことに気がつかれてしまったのだろうか。リリーナも足を止め、やんわりと顔を背けた。


「……リリーナ嬢」


 名前を呼ばれ、キースを見つめる。ところが、名を呼んだにもかかわらずキースはしきりに前方と後方とを気にしているようだった。さりげなくその視線を追うも、護衛の騎士たちがいるだけだ。彼らも同様に足を止め、距離を保ったままでいる。


「キース様? どうかなさったのですか?」


 状況が分からなくて尋ねると、キースは再び護衛をそれぞれに一瞥して大きな咳払いをした。どこかわざとらしい仕草に何と声をかけて良いか見当もつかず、リリーナは黙って成り行きを見守るしかなかった。

 所在なさげに揺れる眼前に、先程まで焦がれるような想いで見つめていたキースの左手が差し出される。


「――手を」


 キースの目線はリリーナでも護衛たちでもなく、左手側の壁へ向けられていた。

 今回は平坦な城内を歩いているから足を取られるような段差はない。リリーナが言い出せなかった以上に、キースにとっては言い出しにくいことではあったのだろう。


「お心遣いありがとうございます」


 リリーナは微笑み、まだぎこちなさを残す動作でそっと右手を重ねた。今回もやはりレースの手袋越しに伝わる、わずかな温もりを受けてたちまち手が熱を帯びて行く。


 それにしても、手を繋げるのは嬉しいけれど一体どうしたのだろう。リリーナが首を傾げるのと同時に、前を歩く護衛たちが掲げた拳同士を軽く合わせるのが見えた。

 キースの顔を窺えば、その表情ははっきりとは見えなくとも何となく、眉間にしわを寄せているような気がする。たとえ真似事でも、リリーナの手を取ってエスコートするのは不本意なのだろうか。


「行こう」

「は、はい」


 促されて歩き出したは良いものの、これでは当然、いつかはテラスへ着いてしまう。

 テラスに着いたら繋いだ手を離さなければならない。それを恐れ、思わず繋ぐ手に力を込めた。


 少しでも長く、触れていたい。

 城内を案内してもらえないか頼んでみることも考えた。でも、テラスから庭園に出たいと先週頼み事をしたばかりだ。頻繁にわがままを言っても良いのはキースの寵愛を得た女性だけ。そうでなくてもリリーナは、要求をすでにいくつも通してもらっている。


 リリーナはただ、お互いの魂に刻まれているらしい紋章が対になっているという理由で婚約者に選ばれた存在に過ぎない。

 キースの寵愛を受ける女性は他にいるのだ。


「あの」


 黙っていると悪い方向へと思いが行ってしまう。リリーナは小さく首を振ってそんな気持ちを追い払うと、キースの背中に声をかけた。


「綺麗なバラを、ありがとうございました」


 目線だけを向けるキースに花束のお礼を言えば、その目線も無言のまますぐに外されてしまう。色好いろよい反応は期待してなかったとは言え、わずかな時間しか目線を向けられなかった事実は少しだけリリーナの心を削った。


 お礼の品は翌日に届けてもらっている。迷った挙句に結局、お気に入りの焼き菓子にした。少しでもキースの口に合うことを祈るように期待し、スパイスを効かせたクッキーを選んだ。


 受け取ってもらえただろうか。

 開封して中を改めてくれただろうか。


 婚約者となって日の浅いリリーナが、王太子に食べ物を贈ったのだ。周囲の人々がそれを見たら警戒したに違いない。

 様々な懸念がついて回り、自分からはお礼の品について口には出来なかった。


 リリーナは思わず苦笑を浮かべた。

 勝手に想像を膨らませて勝手に悲観したって何にもならないのに、少し黙っただけでこの有様である。

 まだ、二人で会うのはこれが二回目だ。心が通じ合わないのは当然だし、分かり合いたいからリリーナはここにいる。


 リリーナは俯きがちだった顔を毅然として上げた。

 手は繋がれたまま、離れてない。今はその些細な繋がりが全てでも、いつかきっと心まで繋がれる日が来るはずだ。

 だから大丈夫だと自分に言い聞かせ、繋いだ指に再びやんわりと力を込めた。




 手が離れてしまえば、仲の良い婚約者ごっこは簡単に終わる。

 程よく暖められたテラス内の空気とは裏腹に、今日も向き合って座る二人の間に会話はまるで弾まなかった。これなら空気の抜けたゴムまりの方が、よほど弾むというものだ。


 リリーナとしてはもちろん、色々なことを話せたらいいと思って来た。これでも考えに考えた初めての質問だってしたい。


 それに――エドガーに「デート」に誘われたことの報告と相談もある。


「俺の顔に何かついているのか」


 何をどう切り出したら良いか迷って、ずっと見つめていたから気にはなるのだろう。形の良い眉を訝しげに寄せたキースに問われ、リリーナは意を決して口を開いた。


「質問をしてもよろしいでしょうか」


 何度か自分なりにタイミングを見計らってはみたけれど、さりげなく切り出すことはどうしても出来なかった。時間だけが漠然と経過して行くことは看過出来ずにお伺いを立てれば、キースは軽く眉根を寄せて渋々と言った様子も隠さずに「どうぞ」と答える。

 やはり質問すること自体はあまり歓迎されてはいないらしい。でも、許可を出してくれたということは、歩み寄る余地はあると思っても良いのだろう。


 リリーナは背中を押してもらえたような心強さを得て、記念すべき最初の質問を尋ねる。


「キース様のお誕生日を教えていただきたいのです」


 月並みだけれど、それでもやっぱりいちばん最初に知るのなら誕生日以外の選択はない気がした。

 ちゃんと答えてもらえるだろうか。

 嘘をついてもいいとは言ってある。だけど嘘をついて欲しいわけじゃない。


 固唾を飲んで見つめていると、キースは深く息を吐きながら告げた。


「……六月十七日だ」

「それで六月に夜会が開かれているのですね」


 招待を受けたからと参加していた夜会にそんな事情があったと初めて知って、リリーナは両手を軽く合わせて納得の意を示した。

 毎年開かれているからにはそれなりの理由があるとは薄々思ってはいたけれど、鬱々とした雨の日が続くからせめてもの気晴らし目的なのかと深く気にしてはいなかったのだ。


「今さら気がついたのか」

「私にとって王太子殿下は遠い存在のお方でしたから……。申し訳ありません」


 リリーナは伏し目がちに俯く。


 そう。遠い、遠すぎる存在だった。

 今だってそうだ。こうやって向き合って話をすることは出来ても、キースが近い存在になったとは到底思えないでいる。


 幸せになりたくて、幸せになれる夢をみているのかもしれない。

 目が覚めたらキースも、家族さえも誰もいない寂しい場所に一人でいるかもしれない。


 次の瞬間、光の差し込む森の景色が脳裏をよぎった。

 森は瑞々しい葉が生い茂ってはいたけれど不思議と生命力をまるで感じさせず、どこか寂しい雰囲気を漂わせている。


 何よりも――ここには、愛しい人がいない。


「リリーナ嬢」


 ともすれば脳裏の映像に引きずられるように沈んで行きそうだった心が、キースの声によって引き上げられる。

 顔を上げたリリーナに、キースは心なしか安堵した表情を見せた。初めて見るとても優しげなそれは、けれどすぐに見慣れた無表情へと戻ってしまった。


「別に謝罪をさせたかったわけじゃない」

「はい」


 キースにとって大切な人になれたら、あの表情をたくさん向けてもらえるのだろうか。


 それはどんなに幸せなことだろうかと、リリーナの心を甘く高鳴らせた。


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