見えないもの

 どうしよう。


 キースの顔を見上げているうちに気がついてしまった。

 目線が合っているはずなのにキースはリリーナを見てはいない。表情だって人当たりの良い笑みを浮かべていると見せかけて、目だけは微塵も笑ってはいなかった。


 手を伸ばせばたやすく触れられる場所に立っているのにひどく遠い場所にいる。キースの周囲にはリリーナに限らず他人の介入を拒絶する、見えない壁があるように思えた。

 現時点での心の距離を嘘偽りなくありのまま表すのなら、まさにこの距離なのだろう。

 一言で言えば全く関心がない。それに尽きる。


 もっとも、今この段階でキースに関心を持たれる要素がないことはリリーナ自身がいちばん良く分かっているつもりだ。

 王家が有力な名家の令嬢を押しのけてまで、ディアモント家と婚姻関係を結ぶことにメリットはない。あまりにも突然持ち上がった今回の一件が、王家にとっても不測の事態だったと遠回しに物語っていた。


 実際、政略結婚と呼ぶことすらはばかられるような状況だった。

魂なんて自分はおろか誰の目にも見えない場所に、対となる紋章を持っている。だから王太子の妃として迎えたい。そんな都合の良すぎる話は、胡散臭い口車に乗せられようとしているのではないかと真っ先に疑うのが普通な話だ。


 令嬢の実家が持つ権力や財産といった家同士の繋がりに魅力があるわけでもなければ、令嬢本人の美貌や人柄に心奪われたなどという個人的な情熱があるわけでもない。

 なのにおそらくは代替えが一切利かないのだ。不条理な制約を課せられたうえで、相手には非がないと頭では分かっていても、初対面から好意的に接することが難しいのはリリーナにも察しがつく。


 だがそれはリリーナにしてみても同じだ。キースの名代として家を訪ねて来たクレフに運命で結ばれた相手が王太子殿下だと告げられた時からずっと、驚きと戸惑いを抱え続けている。


「リリーナ……」


 本来なら王太子が直々に婚約者を迎えに来たという甘やかな状況のはずが、ただならぬ様子を察したのかバーバラが小声で名を呼ぶ。心配そうな面持ちでリリーナのドレスの袖口を掴む友人を見やり、手短に謝った。


「せっかくの誕生日パーティーなのに騒ぎを起こしてごめんね」

「それは、いいんだけど」


 友人の誕生日を祝うパーティーを騒がせておいて、残念ながら……と言って良いものだろうか。一目見ただけで恋に落ちると言った情熱的で劇的な現象は起きてはいない。


 運命の人だと告げられたところで所詮その程度の結びつきでしかなかった。

 リリーナに向けられている視線に多量の棘が含まれているのも偏にそのせいだ。当人同士でも納得の行かないような曖昧なことが、赤の他人に上手く伝わるわけがない。


 もし、普段から王家と懇意にしている名家の令嬢であったならば。

 もし、傾国の美女と呼ばれるに相応しい容姿の令嬢であったならば。


 それでも多少の敵意は持たれるかもしれないが、ここまでのものでもないだろう。あの令嬢ならば仕方がないと、大多数が羨望や諦念を持って認めるはずだ。

 ところが実際に王太子妃の座を得ようとしているのは、王家とは縁もゆかりもない伯爵家の令嬢なのである。さらに言えば同年代の子息や息女たちで形成されたごく限られた範囲の社交界で、良い意味と悪い意味の両方で注目を集めているといういわくつきだ。

 リリーナだって好き好んで悪目立ちをしているのではない。はなはだ不本意な状況としか言い様がないが、親しくもない周囲から見ればそれは非常に些末なことだ。


 現に今までのリリーナは、どちらかと言えば被害を受けた側として同情的な目で見られることの方が多かった。我ながら卑屈で穿うがった見方だとは思うが、恥をかかされる側だったからだ。


 それが今やどうだろう。

 次の”お相手”が王太子と判明した途端、向けられる視線に嫉妬や敵意がこめられるようになった。「どうしてあの子ばかりが」と、物言わぬはずの目は口以上の雄弁さでなじっている。

 そしていつものように土壇場で婚約解消の憂き目に遭えばいい。すでにリリーナの不幸が不特定多数に願われている声すら聞こえて来るようだった。


 リリーナはゆっくりと一つ、深呼吸をした。

 根拠のない、ただの想像で悪い方へと物事を運んだって良いことなんか何もない。


「まだ、婚約の話を正式にお受けしたわけではありません」


 ようやくそれだけを絞り出すと、キースの右目がわずかに細められた。

 それはそうだろう。

 王家からの打診にくわえ、リリーナはキース以外とはどうあっても結ばれない運命にあるらしいのだ。誰もが羨む最高レベルの玉の輿をリリーナ側から断る理由だってない。


「こちらとしても婚姻関係を結んでもらわなくては困るのは同じだと、理解していると思ったが」

「それは……理解している、つもりですけど」


 世間体は悪いが最悪の場合、生涯を独身で過ごすという選択肢も一応与えられてはいるリリーナとキースでは、置かれている立場がまるで違う。

 次期国王として世継ぎを残す義務がキースにはある。そして正統な血筋を持つ世継ぎを残す為には王妃を娶らなければならない。

 だからキース側の言い分は彼からしたらもっともなのだろう。

 でも、それがたとえ完全な政略結婚であったとしても、愛とは行かずともわずかばかりの歓心も得られないのは悲しすぎるではないか。


「キース、可愛い女の子を困らせるのはそれくらいにしておけよ」


 意外な場所からの助け船にリリーナは思わず振り返った。


「いくら久し振りにお前と会うからって、レディを困らせるのを見過ごすわけにはいかないな」


 顔見知りなのだろうか。

 エドガーは女性に接する時とはまた微妙に違った気さくな態度でキースに話しかけた。キースはと言えば、さも面倒な相手に会ったと言わんばかりに秀麗な眉の間に深いしわを刻んでいる。

 少なくともキースから見て友好的な間柄ではないらしい。


「お前には関係のない話だ」

「それはどうかな、ね、リリーナちゃん」


 ぱちん、と音が聞こえそうなほどに大きなウインクをしながらエドガーが突然リリーナに視線を向けた。同意を求められるとは思わず、リリーナは咄嗟にバーバラへと救いを求める。そこでバーバラが場を収めるようエドガーを見た為、三人の視線が綺麗に一周することになった。

 結局、最終的に自分の元に解答権を戻され、エドガーは肩をすくめてみせる。


「リリーナちゃんは俺の大切な友人だから無関係じゃないんだよ」

「……友人、ね」


 キースはリリーナに一瞥を与え、唇の端をわずかに上げた。


「彼女は俺の伴侶として王太子妃に――ゆくゆくはこの国の王妃になることが決まった身だ。今後気安く接することは一切やめるんだな。いくらお前でも王家を敵に回すほど愚かじゃないだろう」


 表面だけを受け止めれば独占欲のこめられた牽制の言葉に、フロア内のあちこちからどよめきの声が上がった。

 でもリリーナにはやはり、当事者であるはずが見えない壁の外側に置かれているように思えてならない。キース個人がエドガーに対し何らかの悪感情を持っていて、言葉は悪いが偶然居合わせたリリーナを利用したのではないか。そんな気がする。


「可愛い女の子の為にお前や王家と敵対するならそれはそれで悪くないな」


 どこまで本気で言っているのか。エドガーはなおも飄々とした態度を崩さなかった。

 公爵家の子息だから簡単に処罰が下ることもないだろうが、見ている方がヒヤヒヤしてしまう。大丈夫なのかとリリーナの胃が鈍く軋んだ。

 仲裁なんて大それたことは出来なくとも、エドガーを止めた方がいいのかもしれない。


「――エド」


 エドガー様、と名を呼ぼうとしたその時だ。


「リリーナ・ディアモント嬢」

「は、はい」


 わざとタイミングを被せたのかそれとも偶然被ったのか、キースの声で遮られた。

 まさか名前を呼ばれるとは思っていなかったリリーナは完全に不意を突かれ、それまでキースに抱いていた感情を一瞬忘れ去る。むしろ無関心な中でも最低限の情報である名前程度は知ってもらえていることに、好意的な印象すら持ってしまった。


 先程からキースに対する感情は良くも悪くも揺れ動き続けていた。

 それは好意を持てる、持てない以前の地点ではあるが、不安定な天秤は些細なことでぐらつき、リリーナの心をさざめかせる。


 キースはやはり微妙に重ならない視線を向けた。

 ほんの少しくらい、目を合わせてくれたっていいではないか。受け止められているか分からない――いや、受け止められてはいないと察しはつく――目線に非難の色を込め、キースを半ば睨み返す。

 リリーナの予想通り、非難を気にした風もなくキースは再び作り物めいた笑みを浮かべた。見てくれだけは完璧な王太子の所作でリリーナの手を取る。


「夜会は存分に楽しまれたことだろう。婚約者と離れがたい俺の為にも今宵はこれで引き上げてくれないか」


 そのままリリーナの返事を待たず歩き出す。

 掴まれている右手首が熱い。まだバーバラと話したいことはあったが、キースに反発してまで居残ろうとするのは得策とも思えない。これと言った案もない以上、おとなしく後に従った。


「バーバラ、今度は私が、お茶会に誘うから」


 かろうじてそれだけを告げると、バーバラは了承したという返事の代わりに笑顔で手を振ってくれた。


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