王太子妃になる覚悟
キースと会えるのは年内最後となる今日は、庭園を見渡すいつものテラスでの逢瀬だった。馬車を降り、庭園に向かう途中で手を取ってエスコートをしてもらえたけれど、また一緒に街へ出たかったから残念なような気もする。
とは言え、リリーナに送られた脅迫状めいた手紙に関する話をしなければいけない以上仕方がないのだろう。それに年が明けたら絵を描く為に、画材を買いに行くこともすでに約束している。当初を思えば十分すぎるほどの扱いだった。
「何か変わったことは?」
「キース様が手配して下さった衛兵の方々もいらっしゃいますし、特に何の問題もありません」
つい昨日の午後にもレイノルドが定時連絡を送っている。そのうえで今日こうして王城に足を運べているのだから何もない証拠だ。けれど、たとえ形式的なものではあってもキースに心配してもらえるのはとても嬉しい。
「手はじめに、今この王城に勤める執事、侍女、衛兵、給仕人、庭師……全ての人間の身元と素行を改めて確認した。もっとも、どこの馬の骨とも知れない人間を王城で雇ったりはしないし、特に何もなかったが」
「全員を……? 大変なお手数をおかけして、申し訳ありません」
「レイノルドたちからすでに聞いているだろうが、年明けの夜会への警戒も兼ねている。だから、この件に関して君が……」
そこで何故かキースは口を閉ざす。眉を寄せながらわずかに逸らした視線をさりげなく追うと、アンドリューがさも不満げに肩をすくませるのが見えた。
キースは咳払いを一つして、顔を向けた方向に立つアンドリューを呼ぶ。先に何か手配してあったのだろうか。任務中の表情にすぐさま戻ったアンドリューは、今日もメイドたちをまとめながら働く女性の元へ歩み寄った。紙の束を受け取り、事情が分からなくて不思議そうな顔をするしかないリリーナの前に置く。
「――全員分の調査書だ。気になることがあったら君も確認していい」
「いえ、私は……」
やんわりと首を振りながら視線を落としたリリーナの顔が、調査書を見て
いちばん上に置かれているのは、温厚そうな表情をした初老の紳士の姿絵が添えられた書類だった。おそらくは王城に勤める人々を束ねる、最も重要な役職に就いているのだろう。
それはつまり、もう何十年も王家の為に働いて来た人物さえもリリーナただ一人の為に疑ったということだ。そして、これだけの広さを誇る王城である。彼だけに限らず、同じような立場の人物は他にもたくさんいるに違いない。
改めて事態の重さに胸が詰まりそうになる。これまで長い時間をかけ、誠実な働きぶりで王家の信頼を勝ち取って来た人々がリリーナに脅迫状を送るわけがない。そんなことはリリーナに
けれどリリーナが、疑いの目を向けさせてしまった。
「何かあれば等しく嫌疑をかけられることを彼らも承知のうえで王城に勤めている。だから君が罪悪感を覚える必要もない」
リリーナは弾かれたように顔を上げた。キースの黒い目と視線が重なる。その強い光に後押しされ、リリーナは小さく頷いた。
それでも一度抱いた罪悪感が消えるには時間がかかる。ならば代わりに長い時間をかけてでも、仕えるに相応しいと思ってもらえるような王太子妃になろう。それが彼らの名誉を守るいちばんの方法に違いなかった。
「リリーナ嬢」
「は、はい」
急に名を呼ばれ、思わず背筋を伸ばす。
「もし君が罪滅ぼしの気持ちから王太子妃の……王妃としての役割を
心を読まれたかのような言葉にどきりとする。
それから、キースに自分の全てを否定されたような気になった。
「どうしてですか。歴代の王妃様方と違って、私ではそのような大役をとても果たせそうにないからですか」
もちろん、リリーナが完璧な王妃になれるなんて思ってはいない。
でも完璧じゃなくても、キースの役に立てることが何か一つくらいはあるのではないかと思った。誰にでも出来ることかもしれなくても、リリーナにもやれることがあるのなら、精一杯こなすつもりでいた。
だけど、キースは王妃としてのリリーナは必要ないと言う。
悔しくて涙が浮かんだ。
頑張ることすら許されないのなら、リリーナはどうしたらいいのだろう。
所詮は形式だけの結婚にしか過ぎないのだから、お飾りの妻らしく何もせず蚊帳の外で一人じっとしていたらいいのだろうか。
「何か勘違いをしているようだが」
「え……」
「君は、最初から王妃になる為に生まれ育って来た女性ではないだろう。あくまでも"リリーナ・ディアモント"という、ディアモント伯爵家の令嬢なんじゃないのか」
涙を堪えながらもリリーナが頷けば、キースもまた頷いて返した。
「王家の為に、民の為に尽くそうと努力することは構わない。だがその為に自らを犠牲にしなくていい。君は王太子妃である前に、守られるべき存在であることを自覚することが先だ」
民を守るのは王家の役目だとリリーナも理解している。
そして王太子妃となるリリーナも守られるべき民の一人であると言うのならば、守ってくれる王家の存在があるということでもあった。
キースがリリーナにそれを告げるということは、キースが守ってくれると自惚れてしまってもいいのだろうか。
心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。
勝手な期待を抱いたところで、後でがっかりするのは目に見えている。でも期待をするくらいは許して欲しい。
「君が王太子妃に相応しい存在であるべく、自分に出来ることを頑張ろうとしているのは分かってる。だからと言って、一人で背負おうとしなくていい。――俺が、傍にいるから」
瞳の端に潤んでいた涙が、先程までとは正反対の理由で頬を伝う。
強く手の甲を押し当てて拭っても、次々と溢れ出る涙を止めることは出来なかった。ただ嬉しい気持ちだけが心の中に渦巻いて、両手で顔を覆う。
「ずるい、です……。そんな風に仰られたら私、キース様を……ずっと頼ってしまうではありませんか」
「ああ。今回みたいにいつだって頼ればいい」
キースに否定されたわけではなかった。
それどころか、リリーナが頑張ろうとしていることを理解したうえで、無理はしなくていいと言ってくれた。
リリーナのことなんて、気にもかけていないとばかり思っていたのに。
でも。
「甘い言葉を仰って下さるなら、もっと、分かりやすい形で仰って下さらないと」
早とちりで勝手に傷ついたことはリリーナ自身の落ち度だ。それを承知しながらささやかな抗議をすると、キースは頬杖をついて顔を背けた。
「――仕方がないだろう。君にしか言ったことがないのだから」
キースの返事にリリーナはどうしたらいいのか分からなくなる。
顔が熱い。確認する間でもなく、耳まで真っ赤になってしまっているに違いなかった。
甘い言葉のつもりはないと、否定されるものだとばかり思っていた。
それが遠回しに肯定されたうえ、リリーナにしか言ったことがないだなんて言われてはキースの顔も見られない。
あるいは、わざとやっているのだろうか。バーバラの誕生パーティーの帰りの馬車の中でそうしたように、リリーナの反応を面白がる為にからかっているだけかもしれない。
でも、そんな肯定の言葉など言われたくなくて、本当のことは聞けなかった。
「次に顔を合わせられるのは年明けになるが、その間に何かあったらいつでもレイノルドかアンドリューを通して連絡を寄越したらいい」
「……はい、キース様」
ようやくリリーナは手を顔から放し、キースを見つめると笑みを浮かべた。
今日はキースに会える、年内最後の日だ。だから普段よりたくさん話をしたいと思っていたのに、恥ずかしくて顔を隠したままではまともに話なんて出来そうもない。
顔さえも見れなかったことを後悔するよりずっと良いと、勇気を振り絞って精一杯顔を上げる。キースは顔を背けた姿勢から変わりはなかったけれど、拒絶されているようには思えなかった。
「何だか今日はずいぶん暑いですね。少し扉を開けさせていただいてもよろしいでしょうか」
レイノルドがわざとらしく右手で顔を扇ぎながら言うとアンドリューも頷いた。何か言いたげな顔を向けるキースには柔らかな笑みで返し、乾いた靴音を響かせて扉へと歩み寄って行く。そのキースとのやり取りでリリーナは初めて、レイノルドが冷やかしているのだと気がついた。
ゆっくりと扉が開かれた途端に吹き込んで来る風が熱を帯びた頬に心地良い。それから目を細め、風が自分の髪を優しくそよがせる様を楽しんだ。思っていたより話は出来てはいないけれど、キースとの距離は縮まったように感じられるのは気のせいだろうか。
何よりも沈黙が苦痛ではなくなっている。
少しは父と母のような関係に近づけたのだろうか。
そう思えば、ますます嬉しい気持ちになった。
年が明け、夜会での発表が終わればリリーナは慣れ親しんだ家を離れて王城で暮らすことになる。
その為に例年より多少は忙しくはあったものの、リリーナの周辺は特に何事もなく平穏な日々が続いていた。
強いて変化があると言うのなら、リリーナが嫁いで行く実感が沸きはじめたのか、父がやたらと感傷的になっていることくらいだろうか。
「リリーナ・ディアモント」でなくなる日自体はもうしばらく先の話ではある。けれど父にとっては、毎日の寝食を別にする時点で嫁いで行ったに等しいことであるらしかった。
もっとも、父のそんな感覚はリリーナに良い緊張感をもたらしいてることも事実だ。もう両親や兄に庇護されるだけの存在ではない。キースは無理をしなくていいと言ってくれたけれど、自分の足でしっかりと立たなくてはいけない機会はこれから増える一方だろう。
そうして忙しなく年も明け、夜会を二日後に控えた金曜日にその手紙は届いた。
不自然なまでに角ばった筆跡で、白い封筒に書かれてあるのはリリーナへの手紙だと示す宛名だけだ。差出人はやはり不明のままである。
背筋がひやりとした。まさか今回の中身は見た目の印象とは反した、読んで楽しい内容ということはあるまい。
前回の時は兄がいた時だったから相談しながら開封したけれど、今はあいにく留守にしていた。代わりにアンドリューに立ち会ってもらい、封を開ける。
「すぐに殿下の元へ届けさせましょう」
「お願い、します」
今回も手紙に書かれていたのはほんの一言のみだ。しかし前回とは比較にならないくらいの強い筆跡で書かれたらしく、紙の表面がそこだけ波打っている。
でこぼこに荒れた紙肌は差出人の憎悪そのものを閉じ込めたかのようで、リリーナの心臓を鈍く軋ませるには十分すぎる状態だった。
『幸せになんかさせない』
大丈夫だ。
リリーナを心配し、守ってくれる人はたくさんいる。
それでも、心臓に直接氷を押し当てられたような感覚はいつまでも消えてはくれなかった。
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