第二部
久し振りの我が家
失態を演じてしまった夜会から二週間が経過した。
その間はずっと王城の客室に寝泊まりするという状態だった。リリーナを階段から突き落としたエマに正当な手続きを
キースはよほど責任を感じているのか、一日に一度は必ず顔を見に来てくれた。
会えることはとても嬉しい。
けれど、その行動に至らせる原因が責任感なのだと思うと複雑な気持ちになった。
(ただでさえお忙しいのにくわえて今回の件の処遇もあるから、それこそ目が回るくらいお忙しくなっていると分かってはいるのだけど)
自分勝手な感情を抱いている自覚はある。でも、それでも少しでいいから他の気持ちを理由にして会いに来てくれていたら良かったのにと思ってしまうのだ。
最初の五日間は、リリーナは大事を取ってベッドから出ることを許されなかった。
医師が申し渡した言葉は絶対だ。「絶対に安静に」と強く念を押されたのだからなおさらだった。いくらリリーナが年頃の令嬢だと言えども、王太子を迎えるのだとしても、その為の着替えも出来ずにいた。寝間着姿でキースと会わざるを得なかったのである。
そんな中、唯一の救いは起き上がることも医師に制止されていたことだろうか。
顔から上は身綺麗に整えてもらえた一方で、その他の部分はシーツに全て覆われて見えなかったことに感謝する以外ない。
リリーナの身支度など二の次に思うほど心配してくれていたのだろう。頭を打ちつけているのは事実だから、気にかけてくれるのも嬉しかった。けれども女性として、婚約者として全く見られてはいないのかと落ち込んでしまったのも事実だ。
(心配して下さったのにそれ以上のものを求めたりして、私はどこまで贅沢になってしまうのかしら)
もちろん煌びやかなドレスや宝石で着飾りたいわけじゃない。そんな姿を見て欲しいわけでもない。ただ、責任感なんて大きく行動を左右する感情を持たない、フラットな状態で向き合いたかっただけだ。
けれどキースはリリーナと"運命の相手"という、このうえなく大きな先入観ありきの出会い方をしている。まっさらな状態で、などと願っても意味はないのかもしれない。
六日目の朝、ようやくベッドを出ることへの許可は下りた。とは言え部屋を出て散歩をするまでは認められず、三十分ほど顔を合わせて無言のままお茶を飲むだけで終わった。
リリーナはずっと臥せっていたから話題がない。もちろん何もないかと言えばそうではなかったけれど、のんきに家族の話をするのは気分的に
そうして今朝、リリーナの体調に異常なしと判断が下り、全ての後始末が終わったことでディアモント家へ一旦帰宅となったのだ。
ディアモント家へ向かう馬車の中で、リリーナは窓の外を流れて行く景色をぼんやりと眺めていた。
キースは何を思っているのだろう。
隣に座るその顔をちらりと窺うと目が合ってしまった。視線を逸らすのも不自然だし、かと言って話しかけることも思いつかない。反応に困っていると意外にもキースから声をかけて来た。
「馬車に揺られて気分が悪くなったのか?」
「え……」
全くの予想外な言葉にリリーナは目をしばたたかせる。キースの表情は真剣で、相変わらず心配してくれているようだった。体調が悪くなったのを言い出したいのに言えない。そう思われたのだろう。
それがやっぱり嬉しくて、くすぐったい。リリーナは笑みを浮かべると静かに首を振った。
「体調はもうすっかり大丈夫です。お医者様をはじめ、たくさんの方々に良くしていただきましたから」
「そうか」
ほんの少しキースの表情が和らいだように見えて、リリーナは「はい」と一言だけ答えると結局視線を外してしまう。
いつもの凛と冴え渡る黒い目が好きだけれど、柔らかさを帯びた黒も好きだ。けれど、そんな目を向けられている時は気恥ずかしさが先立ってしまって直視出来なかった。
あれもこれもと願っていたのに、いざキースを前にするとどうしたらいいのか分からなくなる。
再びその顔を窺い見ると座席に深く背中を預けたキースは腕を組み、軽く握った左手を口元に当てて何らかの思案に耽っているようだった。
考えたいことがあるのなら、邪魔をしてはいけない。
リリーナは静かに窓の外へ視線を戻した。窓に自分の顔が映っている。そして、隣にうっすらとキースの横顔も映っていることに気がつく。
(少しくらいなら、お顔を見つめていても大丈夫かしら)
窓越しにキースの様子をそっと確認し、思案する横顔を遠慮がちに眺めた。
ディアモント家に到着したのだろう。少しずつ速度を落とした馬車が止まった。ここで一旦お別れかと思うと、また会えるのに寂しさを覚えてしまう。
けれどキース側にあるドアは一向に開く気配がない。思わず怪訝な目をキースに向ける。ほどなくしてディアモント家の門がゆっくりと開きはじめた。
「あの……?」
「ディアモント伯爵と話がしたい。門番にそう言伝を頼んだ」
「お話を?」
リリーナは首を傾げる。何を告げたのか聞きたかったけれど、聞かなかった。二人を乗せたまま馬車は屋敷に続く石畳を進んで行く。
ドアの外にはすでに両親が待っていた。
何だかとても久し振りに会うような気がして胸がいっぱいになる。キースの手を借りて馬車を降りると父も同じ感傷を抱いているのか、何かを堪えるように口元を引き結んでいた。
ゆっくりと表情を緩め、帰宅したリリーナを出迎える。
「お帰り、リリーナ」
「ただいま戻りました」
挨拶が済むとその場の視線は自然とキースへと向けられた。
もちろん話があると聞いたから父もこうして出て来たのだろう。途端にその表情が強張って行く。
「キース様、よろしければ中の応接室に……」
おそらく自分がいちばん話せると判断し、キースを促した。「いや」、そう短く答えたキースは次の瞬間、誰もが驚く行動に出る。
「こちらに警備を一任してもらったにも拘わらず、リリーナ嬢を守ることが出来ずに申し訳ない」
「と、とんでもございません殿下!」
頭を下げたキースに、出迎えた父は今にも平伏さんばかりの勢いで首を振った。リリーナも、王太子であるキースがまさか伯爵相手にそんな行動を取るとは思わずに信じられない思いで目を瞠る。
そもそも、キースは何も悪くない。リリーナ本人ですら、エマに階段から突き落とされるなんて思ってもみなかったのだ。そこまで責任を感じる必要はない。
「で、殿下……どうぞ面をお上げ下さい」
青ざめた顔で言う父の姿は、どちらが責任を感じているのか分からなかった。さすがに父が居たたまれなくなってリリーナが口添えをすると、ようやくキースも顔を上げた。
「とりあえず自分なりにけじめはつけておきたかった。それだけの為に手間をかけさせたな」
「いえ……。畏れ多い温情にてございます」
今度は父が深々と頭を垂れる。母とリリーナもそれに
「王城に帰るがこのままで見送らなくていい。――リリーナ嬢」
名を呼ばれ、リリーナはその横顔を見上げる。
思えば家に送ってくれるのは、初めて会った日以来だ。でもあの時のキースはひどくそっけない振る舞いだった。婚約の経緯が経緯なだけに、無理もないことではある。
だからリリーナがいくら歩み寄っても分かり合える日は来ないかもしれない。そう思ってすらいた。
でも今は、まだ恋や愛とは呼べないものではあるかもしれなくても、心の距離は近づいている。自惚れてしまっても、いいのだろうか。
「来月の半ば辺りに、また迎えを出す。それまでは君もゆっくりしていたらいい」
「はい、キース様」
リリーナが頷くとキースがその右手を取った。その仕草も、あの時と同じだ。だからまた触れない距離で手への口づけの真似事をしてみせるのだろう。
そんなことを思いながら半ば余裕で構えていると、指先に少しひんやりとしたものが触れた。
「……っ」
冷たいものが触れたのに、リリーナの指先が瞬時に熱を帯びる。熱はあっという間に全身に広がって行き、吸い込まれるようにそこを見つめた。キースの唇が触れたその部分だけが自分の身体の中でも特別で、指先を中心に淡い光を放っている錯覚さえ覚える。
「お、お待ちして、おります」
ほんの少し触れただけなのに、心臓が激しい鼓動を刻む。
耳まで真っ赤になったリリーナがかろうじて告げると、キースは悪戯が成功した子供のような顔で笑って帰って行った。
「殿下とは上手くやれているようで何よりだよ」
一方、父はどこか寂しそうな力のない笑顔を浮かべてしんみりと呟いた。
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