重ならないもの
キースは本当にリリーナを家へ帰らせるつもりで来たらしい。手入れの行き届いた中をパーティー用にと、ことさら美しく飾り立てた庭園には目もくれずにシャルドネイト邸の正門へ続く石畳を歩いて行く。
こんな早い時間から帰ろうとする招待客がいるはずもなく、時折シャルドネイト家の衛兵とすれ違う以外には誰とも会わなかった。
キースの顔を見るなり衛兵たちは一様に驚いた顔で足を止める。招待客一覧に名前がなかった王太子が敷地内にいるのだから、彼らの反応は当然のものだと言えた。その後、すぐさま姿勢を正して敬礼を取る辺りはさすがと言ったところだろうか。
「あの」
巡回に戻る衛兵の背を遠くに見送ったところで、リリーナは前を歩くキースへと声をかけた。
一方的に連れ出された形ではあったが、リリーナの呼吸は全く上がってはいなかった。キースがリリーナの歩幅に合わせていてくれたからだ。
強引に見えてさりげなく気遣いをする余裕はある。そんなことでもキースに対する好意的な感情が多少とは言え上がってしまう一方で、ますますキースという人物そのものをどう見たら良いのか分からなくなった。
「我が家の馬車で帰りますから」
だからもう放っておいて欲しいと暗に訴えると、キースはリリーナの手首を掴んだまま足を止めた。振り向いた黒い目がリリーナの姿を映したようで、初めて重なった視線に思わず胸が高鳴りを覚える。
今度はリリーナがわざと視線を外した。手を振りほどいて俯き、
「……何のつもりなんですか」
「婚約者である姫君を迎えに来たと言ったのが聞こえてなかったのか」
「それはちゃんと聞こえていました。でも、このようなやり方をなさるとは事前に一言も伺っておりません」
今日迎えに来ることはおろか、未だにリリーナが正式に登城する日の連絡すら受け取っていない。
まがりなりにも王太子の婚約者として丁重に扱って欲しいなどと望んではいないが、あんな目立つことをするなら先に一言くらい言ってくれても良いのではないだろうか。
リリーナがバーバラの誕生パーティーに出席すると、クレフを通してキースに伝えたのも昨日や今日の話じゃない。もう一週間も前の話だ。
キース自らがディアモント家に足を運び、用件を直接伝えて欲しいとは言ってないし思ってすらいない。
でもリリーナの想像以上に多忙を極めているにしても、キースが直接出向かずとも意思を伝える方法などいくらでもあるではないか。婚約の話を聞いたのだって、キース本人からではなく名代を務めたクレフからだ。
もし、クレフも今は忙しいのであれば、手紙という手段もある。最も基本的で手軽な連絡手段を取れることも、キース自身がいちばん最初に証明していた。なのに今回はそうしなかった理由は何なのだろうか。
何から何までリリーナの意思は尊重されず一方的に決められているようで、思わず文句の一つも言いたくなって来る。
キースをはじめとした王族の歴々から見たら、リリーナは王家側で決められた全てを運命だからと黙って受け入れなくてはいけない立場にあるとでも言うのだろうか。
別にそれならそれでいいのだ。
リリーナは王家が求める条件を満たした婚約者に過ぎないとキースから断言されれば、政略結婚に期待することなど何もないと受け入れる。
「いらっしゃるのならエスコートして下さってもよろしかったのではありませんか」
「王族は一貴族が主催する夜会に参加出来ない。ありもしない癒着を疑われ、余計な腹を探られるからな」
そんなことも知らないのか。
暗にそう言われた気がしてリリーナの感情がわずかに逆撫でられた。リリーナは割と気が長い方だと思うが、先程からいやにキースの言葉に棘を感じて心をささくれ立たせてしまう。
きっと、自分の前に現れた”運命の相手”という存在に対し、無意識のうちに理想を高く持っていたせいだ。魂で結ばれた唯一無二の相手なんて、夢見がちな年頃の令嬢の心をくすぐるには十分すぎるロマンチックな響きとの落差に引っかかっている。
でもそれはリリーナが勝手に期待していたことであり、キースが悪いわけじゃない。
どこから心を擦り合わせたら良いのだろう。
真っ暗な中で手探りの感覚を頼るには、キースのことを知らなさすぎた。
「そう仰るならどうして、迎えに来たなんて嘘をつかれてまでいらしたんですか」
「嘘はついていない。迎えに来たのは事実だ」
「どういうことでしょうか」
キースが分かっていることを当然のようにリリーナも分かっているものとして話を進められたところで、リリーナに分かるはずがない。
それなのに深いため息を一つ吐かれた。まるで察しの悪いリリーナに非があると言わんばかりだ。
「さっき言っただろう。王族は一貴族が主催する夜会に参加出来ないと」
つまり、正式な婚約はまだでもリリーナはすでに王家の一員として振る舞えと言いたいのだろうか。
そんな重要そうな要求をいきなりされても上手くこなせる自信などありはしない。だが、それならばなおさらにバーバラの誕生パーティーへ行くこと自体は知っているのだから言ってくれても良かった。
「……それに」
キースはそこで一度言葉を区切る。
「正式な手続きを
「……婚約の申し込みがあったとしても、最終的に私は破談される身ですけど」
十六回もお断りされている現実を自分の口から改めて言わなくてはいけないことは、さすがのリリーナも気分の良いことではなかった。声の端々に若干の棘を含んでしまう。
キースに当たっても仕方ない。それくらい分かってはいたが、他に気持ちのやり場がなかった。
「ディアモント家と王家に婚姻という形で繋がりが出来る」
「……あ」
リリーナはようやく理解に至る。
アピールしたかったのは何も、リリーナへ婚約の申し込みを考えていた、あるいは考えることになるかもしれない子息たちに対してだけではなかったのだ。
むしろ、リリーナが王太子の婚約者に選ばれたという噂だけが独り歩きした際に、王太子妃の座を水面下で狙っている令嬢やその家へとキースの牽制は向けられていた。
つまるところ非公式の場ではあるが、ディアモント家の背後にはすでに王家が控えていると直々の通達が下されたも同然なのである。
(私の保身の為に?)
少数の前で婚約の話をわずかに匂わせただけで、リリーナに対する嫉妬や敵意があからさまになっていた。
だが敵意のこもった視線だけで済んだのはキースがその場にいたからに他ならない。そして王太子であるキースがリリーナに好意的な態度を人前で示すことで、リリーナに危害を加えれば王家が黙ってはいないという無言の圧力をかけたのだ。
「ありがとうございます」
先手を打って助け船を出してくれていたことに深々と頭を下げる。
自分のものではない権力に頼り、それを振りかざすような真似はしないし、したくもない。だが、それと助けようとしてくれたことに感謝するのはまた別の話だ。
キースは何も言わず、遠慮というものが一切感じられない――もっとも、彼の身分からしたら遠慮する必要こそないのだが――値踏みするような目を向けた。
「エドガーと親しくしているようだが、すでに
「た、誑し込まれたとは、どういう意味でしょうか」
ずいぶんな言われようにリリーナはたじろぐ。
少なくとも、先程のエドガーにやましい下心は見られなかった。初対面なのにずっとひどい言い方しかしないキースと比べたら……わざわざ比べるでもないほどにエドガーの方が紳士的な態度だったと言える。
「美しい姫君、願わくば貴女の従順な愛の下僕になりたい」
突然、顔を寄せられたかと思うと甘さを帯びた低い声で耳元に囁かれた。
何と言われたのか一瞬分からなくて、そこから全身に血が巡るように緩やかに言葉の意味を理解する。途端に頬を赤く染め上げた熱は耳にまで達した。
おそらくは夜目にも鮮やかな色になっていることだろう。ましてやこんな距離では――と、リリーナはキースがまだ離れていないことに気がついた。
心にもないと簡単に窺える甘い言葉を受け、みるみる赤くなっていく様を至近距離で見られていたのだ。これ以上は染まりようがないと思われた肌が羞恥で熱い。
でも、こういうことに全く免疫がないのは仕方ないではないか。
「こういう意味だよ」
小さな笑い声が聞こえ、それからわずかな音を伴った冷ややかな何かが、耳たぶの少し上辺りをほんの一瞬だけ掠めた。
また何が起こっているのか把握出来なくて固まっているリリーナをからかうように、ひんやりとした感触のそれはこめかみ、さらには頬の上をやんわりと滑る。
口づけをされていると気がついた時、足から力が抜けてその場にへたりこんでしまいそうだった。かろうじて踏み止まることの出来た自分を褒めてあげたい。気が動転するあまり正常な判断力の一切を失った頭はそんなことすら考える。
「この程度でそこまで真っ赤になるのは、不慣れだからか」
「……っ、最低です!」
反射的にキースの頬を打っていた。
ぱちん、と小さく乾いた音が風もない宵闇に響き、溶け込んで行く。
(今……私、何てことを)
人を叩いたのは生まれて初めてだった。リリーナ自身が呆然と、キースの頬を打った自分の右の掌を見つめ立ち尽くす。
小さく震える、色を失った指先は自分のものではないようだった。確かめるように強く握り、胸へと押し当てる。
どうして、この人はこんなに近くにいてもずっと遠くを見ているのだろう。リリーナを見ようとすらしてくれないのだろう。
――どうして、運命の人がこの人なのだろう。
何故だか分からないけれど悔しくて涙が潤んでくる。
泣いているところをキースには見られたくない一心で顔を背けた。唇を噛み、すぐさま目尻を拭うと口を開く。
「大変申し訳ありませんが、気分が優れないのでお先に失礼致します。――王太子殿下のご指定を賜れば私の責任を果たすべく登城は致します故、ご心配いただく必要はありません」
一息に告げ、しかし顔は上げられないままに一礼をする。自分で言ったことながら、指定された日に仮に登城しなかったとしても微塵も心配はされないに違いない。そう思えば今度は笑いが込み上げて来そうだった。
形式的に、上滑りする言葉だけを紡ぐ相手が運命の人。
それならば一生見つからないでいた方が、まだ良かった。
しかし帰ると言っても、シャルドネイト家に来る時に乗って来た馬車は一旦帰してしまっていた。
少ない招待客だけの、規模の小さなパーティーではよくあることだ。お開きになる時間も予め決められているし、帰りの馬車はその時間が近くなると迎えにやって来る。だからリリーナが今すぐ、どうしてもキースの手を借りずに家に帰りたいのであれば、通りへ出て乗り合い馬車を利用するか自力で歩くしか手段がない。
おそらくはキースもそのことに気がついている。大きなため息をつくのが聞こえ、弾かれたように顔を上げると強い光を放つ黒い眼が真っすぐにリリーナを見つめていた。
「迎えに来たと言ったことを忘れたのか。ちゃんと責任を持って家まで送って行くから安心したらいい」
呆れているのか、あるいは小馬鹿にしているのか。
キースの感情を正確に読み取ることはリリーナには出来ない。
だが、今度はリリーナの手を取らずに再び歩き出したキースの歩幅は、やはりリリーナのそれと合わせたものだった。
「……叩いてしまって、本当にごめんなさい」
三歩ほど退いた距離で後ろを歩きながらキースの背中に声をかける。
「別に気にしてない」
振り向くこともなく静かに告げられた言葉は、キースがリリーナの存在を気にも留めていないと言っているような、そんな意味に聞こえてしまった。
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