紡がれた過去

「どうぞ、こちらへ」


 真っ白なローブを着た、自分の父とさほど変わらぬ年齢の神官の後を無言で続けば、ほどなくして広々とした森に出た。


 上方から眩いばかりの光が差し込んで明るい森ではあったけれど、瑞々しく輝く緑の葉を茂らせた木立ちの隙間からはあるはずの空が全く見えない。森を照らす、ほのかに白みがかった光と同じ色がのぞいている。

 木々のさざめきも、枝で羽を休める小鳥のさえずりも、生命力を感じさせる息吹と言ったものは何も聞こえない。そこにはただ森という概念があるだけだった。


 反射的に振り返ると先程通ったと思しき扉が遥か遠く、白い空間の中にぽつりと浮かんで見えている。

 その不可思議な光景は空間が歪んでいると認識させるには十分すぎて、もう戻ることは出来ないと改めて思い知らせるようだった。


 お互いに言葉を発することもないまま森を歩く。歩きながら再び振り返ってみたけれど扉は影も形も見えず、完全に森の中に入り込んでいた。


 途端に軋みはじめる胸の痛みを和らげるよう、そっと息を吐く。


 自分が選んだことだ。後悔は一度たりともしていない。

 でも未練はある。

 幸せだった。

 愛しい人と幸せな家庭を築いて、一切の心を残さずに手放せるわけがない。


「何か、お伝えすることは」


 まるで心を読んだかのようなタイミングで問いかける神官へ、静かに首を振ることで否と答える。

 何を伝えたところできっと、最後の言葉として彼に重くのしかかってさらに苦しめるだけだろう。そうでなくとも彼はこの先、罪悪感を抱いて生きて行くことになる。


 どちらの道を選ぶことが本当に正しかったのかなんて分からない。


 けれど、少なくとも自分自身の中では、自らが選択した道こそが正しかった。今でもそう、信じている。


「――いいえ。何も……ありません」

「では――時間をかけても、お辛くなるばかりでしょうから」

「あなたにも辛い役目を背負わせてしまってごめんなさい」


 代わりに謝罪の言葉を口にすると神官の目が大きく見開かれた。何かを堪えるようにきつく眉根を寄せ、かぶりを振りながら顔を下げる。


「いいえ! いいえ……! 我々がいながら、このような結果になって……何と……何と、お詫び申し上げれば良いものか……」


 泣いているのだろう。言葉を振り絞る神官の声は掠れ、震えていた。


 最近は、然るべき地位を得た大人の男性を泣かせてしまってばかりだ。

 神官と父親。


 ――それから。


 そんなつもりはなかったのに。

 大丈夫だと微笑んで見せれば、神官はとうとう目元を右手で覆い隠した。もう何か月も、この国に恵みの雨は降ってはいない。なのに人の心からはこんなにもたやすく雨が降る。それはこのうえない皮肉に思えた。


「申し訳……ありません」

「あなたが私に謝罪する必要はありません。さあ……はじめましょう」


 やんわりと促せば神官は目元を乱雑に拭って顔を上げる。すでにその目は真っ赤に腫れ上がっており、こんな状況でも悲しんでくれる人がいることを嬉しく思ってしまう。


 神官は大きく息を吸い込んで両手を高く掲げた。おそらくは精霊言語だろう。聞き取れはしても意味は理解出来ない言葉を唱えはじめる。それに反応して細かな意匠の施された祭壇と、ガラスの棺とが赤い光を伴って地面を裂いて現れた。


 あの棺が、自分が永遠に眠ることになる場所。


 そう思うと恐怖がじんわりと心臓を覆って行くようで苦しくなった。

 唇を噛みしめ、首を振る。おそらくは同じことを想っているのか、神官も青ざめた表情で棺を見つめていた。


 このまま時間を重ねれば重ねるほど心が揺らいでしまう。最後に取るべき行動を他人の手に委ねるわけには行かない。全ては自分自身が、自分自身の為に決めたことだ。その責任を果たす時が来た。――ただそれだけのことでしかない。


 ましてや"この役割"は自分にしか果たせないのだ。

 だから彼の唯一となり得た。幸せの対価を支払うその時が来ただけだ。


 神官へ向き直り、深々と頭を下げる。


「辛い役目を引き受けて下さって本当にありがとうございます。どうか皆で彼を……陛下を支えてあげて下さい」

「――承知、致しました。我らが愛しき王妃陛下よ」


 再び目尻に浮かぶ涙を拭いもせず、神官は恭しく右膝をついて"王妃に与えられた最後の命令"に応えた。

 これでもう、やり遺したことは何もない。何もかもを断ち切るよう神官に背を向け、未練と恐怖で震える足を叱咤しながら祭壇に続く階段を上がる。


 そう、自分は王妃だ。

 心より敬愛する王の為に。彼が統治する国と民の為に。王妃として国母として毅然と振る舞う。償いきれない罪を犯し、処刑される為に断頭台へ向かっているわけではないのだ。そこに何を恐れることなどあるだろうか。


 別れの言葉は誰にも告げなかった。彼にもう二度と会えない事実を受け入れて認めるのは、あまりにも苦しすぎた。


 蓋が開いた状態の棺の端に手をかける。いかにも冷たそうな見た目とは裏腹に、棺からは一切の温度も感触も伝わって来なかった。あくまでもこの森ではあらゆるものが無機質な存在としてあるのみらしい。

 もっとも、包み込むでも突き放すでもなく佇む様は、文字通りに永遠の眠りにつく場所としてはこれ以上ないように思う。


 眠るだけで良いと教えられた。そうしたら痛みも苦しみもなく終わるからと。

 けれどそんなのは大嘘だ。

 心が痛みと苦しみを訴え続けている。どうせなら感情も、想いも、記憶も、全て奪っておいてくれたら良かったのに。


「水の精霊よ……我らが敬愛せし王妃にせめてものご慈悲を」


 神官が祈りを捧げる言葉が耳に届いた。それに呼応するように胸元が温かくなった。

 ゆっくりと横たわり、目を閉じる。脳裏に愛しい人の顔が浮かんだ。

 王である自らの立場を捨て、泣いてくれた。

 ずっと愛している。私を忘れないで。次の幸せを早く見つけて欲しい。


 胸元の服をそっと握りしめた。先程ほのかな温もりを主張したそれが、掌の中にある。

 ここに来ることが決められた日、返すつもりだった。結婚式の夜に彼と交換したサファイアのネックレス。彼の手元には対のルビーのネックレスがあるはずだ。そのネックレスが、決して切れない彼との繋がりを示し続けるように心地良い熱を帯びている。


(――大丈夫。一人じゃないわ)


 誰よりも愛しい人と結ばれることは出来たけれど、自分は跡継ぎを産むことは叶わなかった。けれど、こんな結末で終わるのならそれで良かったのかもしれない。そして彼は跡継ぎを残す為にも次の幸せを早く見つける必要があった。

 寂しくないと、次に彼と結ばれる女性が妬ましくないと言えばもちろん嘘になる。どうして自分にその運命が与えられなかったのか、誰にぶつけたら良いのか知れない、醜い感情だって人知れず抱いた。


 彼は偉大な賢王としてこの国の歴史に間違いなくその名を残すだろう。代わりに優しい王は、たった一人の王妃さえも守れなかったと自らを責めながら生きて行くに違いない。

 どれだけ願っても一滴さえも降らなかった雨がこの先降る度に、心を痛めてしまうに違いなかった。


 栄華を誇った国の最後の王とその王妃として二人一緒に名を残すことと、どちらが良かっただろうか。


 答えはやはり分からないけれど、自分の為に民を捨てる自分も、民の為に自分を捨てる自分も、彼の妻であることに変わりはなかった。

 だから最後まで胸を張っていよう。


 愛して良かったと、彼に思ってもらえるように。







 目を覚ましたリリーナは、両耳の辺りが濡れていることに気がついて身を起こした。

 手の甲でそっと耳元を拭いながら周囲を見回す。まだ日が昇る前なのか辺りは薄暗く、少し肌寒い。

 しんと静まり返った宵闇の中、ぼんやりとした輪郭が描くのは見慣れた自分の部屋のそれだ。暖かなベッドで眠っていたことをようやく確認して安堵感を抱く。


(私……夢を、見て……?)


 おぼろげにしか覚えていないけれど、とても悲しい夢を見ていた。

 同時に、とても大切な夢でもあったように思う。思い出そうとすると心臓が鈍く痛んだ。何かを懸命に訴えかけているようで苦しい。


 それでもリリーナは思い出さなくてはいけない気がして、記憶の片隅に引っかかったいくつもの欠片へ懸命に意識を凝らす。

 かろうじて掴めたものは、三つしかなかった。


 音のない森。

 ガラスの棺。


 離れたくなくて、きつく抱き締めた温かな身体。


 胸を押さえると新たな涙が潤んだ。一体どうしてしまったのだろう。どこか知らないところで何かのスイッチが入ってしまったかのように、漠然とした不安が広がって行くのを抑えられない。


 涙を堪え切ることが出来ず、リリーナは両手で顔を覆った。


「――助けて、キース様……」


 無意識のうちにキースの名を呼んでいた。

 キースに会いたいけれど、今日はまだ木曜日だ。登城する日曜日にはまだ日がある。

 約束を違えてまで会いに行ける立場なら良かった。

 そう思う一方で、今はどんな顔をして会えば良いのか分からないでいる。


 別に、優しく慰めて欲しいわけじゃない。


 キースならリリーナの知りたいことを知っているだろう。

 でもそれをどうやって聞けば良いか分からない。聞いたとして、答えてくれるのかも分からない。


 何より、リリーナが見た夢のことで頼っても良いのだろうか。悲しい夢だったから心に引っかかっているだけで、キースは何の関係もない可能性も十分ある。


 誰を頼れば良いのか、どうしたら良いのか、リリーナは何一つ分からなかった。


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