差し伸べる手
「リリーナ様!」
アンドリューの声が聞こえた次の瞬間には、バランスを失って大きくよろめいた身体が宙に投げ出されていた。何か捕まって身体を支えられるものを求めて右手を突き出したけれど、虚しく空気をかき混ぜただけだった。
反射的にエマの姿を探す。位置からして彼女が突き飛ばしたとしか考えられなかったからだ。
すぐにエマと目が合った。
踊り場の角、アンドリューの進路を塞ぐように立っている。リリーナを見下ろす目は冷ややかで、口元は凄絶な笑みに彩られていた。
まるで、ぶつかったのは偶然などではなく、意図と悪意とを持ってわざとやったのだと言わんばかりの表情だった。
――どうして、彼女が?
考えたところで、リリーナがその本意を知る術もない。
階段に身体を打ちつけ、激しい痛みと共に一瞬息が詰まった。
それでも落下する勢いは弱められることはなく、坂道を転がるリンゴさながらに落ちて行く。リリーナに出来ることは、せめてキースから初めて贈られたバラの髪飾りが壊れてしまわないように守ることだけだ。
うつ伏せの状態で、打ち捨てられたぼろ布のように投げ出される。身体中が激しく軋んで痛んだ。ああだけど、痛みがあるということは生きている。こんな状況でも、その事実に安堵した。
「リリーナ!」
荒く息を吐くリリーナの耳に、今いちばん聞きたかった声が届いた。リリーナは本能に近い感覚の
本来ならこの場にいるはずのないキースが駈け寄って来るのが見えた。縋るように手を伸ばし出しかけ、慌てて強く指を握りこむ。
巻き込んでは、いけない。
「キース、様」
それっきり、リリーナの視界は真っ黒に覆われた。
目を開けるとキースの顔がそこにあった。リリーナは驚きに目を見開き、身体を起こそうとする。けれど頭から背中にかけて鈍く痛んで叶わなかった。
「無理して起きなくていい」
「キース……様……?」
とても身体を起こせそうにはない。仕方なしに横たわったまま声をかけた。少しずつ状況を思い出す度、比例して心の痛みが増して行く。
「申し訳、ありません。夜会……終わってしまいましたよね」
視線だけを巡らせて室内の様子を窺えば、リリーナが寝かされているベッド――そう判断したのは、四隅からそれぞれ伸びた柱に支えられた立派な天蓋がついているからだ――以外には家具らしいものが一つも置かれてはいなかった。
窓と思しき場所にも、深いこげ茶のカーテンが閉ざされて外は見えない。その代わり、室内全体を照らす灯りが煌々と灯されていた。
リリーナに用意された部屋とは違う。ならば、ここは一体どこなのだろうか。ただ、しんと静まり返った気配からして夜が更けてしまっているのはあきらかだった。
「君は階段から突き落とされたんだ。何も気にしなくていい」
「ですが」
リリーナはなおも言い募ろうと言葉を探す。口答えをしているようで可愛げのない態度と思われてしまうかもしれない。
けれど失態などという生易しいレベルの行動ではなかった。下手をしたらキースはもちろんのこと、場合によっては国王並びに王妃の顔にすらも泥を塗ってしまった可能性だがある。
もし本当にそんなことになっていたら、リリーナ個人が謝ってどうにかなることでもない。それでも何か言わずにはいられないでいた。
「本当に私、何とお詫びを申し上げたら」
「君が気にすることは何もないと言っている」
苛立ったようなキースの声に遮られ、反射的に口を
気にしてない、じゃなかった。
気にしなくていい。キースは確かにそう言った。
その違いにリリーナが気づくと同時に、キースが奥底から絞り出すよう呟いた。
「君を守ると言ったのに守ってやれなくて、すまない」
「キース……様」
右頬にひんやりとした手が触れる。その手つきが愛おしむように優しいのは、守れなかった負い目なのだろうか。
けれど、それでもいい。
リリーナは目を伏せてキースの手に頬を擦り寄せた。
何度か触れ合ったことのある手は冷たく、なのに温かい。それはきっと、リリーナがキースに好意を抱いているからだ。
自分には温かな手であって欲しい。
温かな想いを分かち合いたい。
理由はそのどちらか、それとも両方なのか。あるいは全く違うことなのかもしれないけれど、心地良い温かさを持つキースの手に触れるのが好きだ。
「すでに身元を確認したからと、信用する護衛以外をつけた俺の判断ミスだ。怖い思いをさせて、本当にすまない」
リリーナはやんわりと首を振った。
怖くなかったと言えば嘘になる。でも怖かったと言い切ることも同じく嘘だった。
「キース様が駈け寄りながら、私に手を差し伸べて下さるのが見えましたから」
目を開けてキースに笑いかける。
最後に見えた光景はリリーナへの憎悪に歪んだエマの顔ではなく、リリーナを助けようと必死なキースの顔だった。突き落とした手ではなく、差し伸べられた手の優しさを、今こうしてリリーナは知ることが出来ている。
だから、怖くない。
そこでリリーナはキースのネクタイを留めるピンに気がついた。
何の飾り気もないそれは、白地に金色の糸で繊細な刺繍が施された見るも華やかな礼装とはあきらかに釣り合いが取れていない。
でも忘れようもなかった。忘れるはずもなかった。
リリーナがキースに初めて贈ったものだったからだ。
「――使わせてもらうと、言っただろう」
リリーナの視線に気がついたらしい。キースはばつが悪そうに顔を背け、小さな声で言った。どうやら照れているのだと、わずかに朱に染まった耳と、にわかに熱を帯びた手で分かる。
まさか本当に使ってもらえるなんて思ってもみなかった。ましてや婚約発表の場などという重大な席で。
リリーナの瞳に涙が潤んだ。
「キース様……キース様にはやっぱり、黒がいちばん良くお似合いです」
決して白が似合ってないわけじゃない。キースの黒い髪や目が映えて素敵だと思う。
でもやっぱり、黒を纏った姿がいちばん好きだ。
「――そうか」
「はい」
笑った拍子に涙が目尻を伝って耳へとこぼれる。それをさりげなく親指で拭われ、今度はリリーナが顔を合わせにくくて背けた。
そこでようやく、頭の頂上にあるはずの感触がないことに気づく。
「キース様が贈って下さった、バラが」
落下しながらでもしっかり守ったつもりだから、壊してはいないはずだ。けれど、いつまで自分の髪を飾っていたのかがまるで思い出せない。そうすると居ても経ってもいられなくなって、視線を戻し尋ねた。
「バラの髪飾りは、どちらに……?」
「寝かせるのに邪魔にならないよう外して置いてある」
「壊れて、ないですか?」
「ああ」
重ねた問いかけにもしっかりと頷かれ、ほっと息をつく。
初めて贈られたバラの髪飾りが無事で本当に良かった。
それはキースの想いを壊してしまわずに自分の手で守りきれたような、ただ心の奥底から沸き上がる達成感をリリーナに与えた。
この先、キースと心を通わせられることがなかったとしても、あの髪飾りが心の拠り所になってくれる。リリーナにとっては、それくらい大切なものだった。
「もし仮に壊れていたとしても、髪飾りなんていくらでも買ってやるから気にしなくていい」
キースの言葉に、そうじゃないと静かに首を振る。
高価で綺麗な髪飾りだから大切なんじゃない。
特別な想いと理由がそこに込められているから大切なのだ。
「違います。キース様が、私に初めて下さった髪飾りだから、大切なんです」
リリーナの想いは、ちゃんと届いただろうか。
黒い目をじっと見つめていると、ふいにまぶたの上をそっと撫でられた。
「疲れただろうから今日はもう眠っていい。また明日以降も、様子を見に来る」
――また明日以降。
キースとの間に未来があると分かる言葉は、いつもリリーナの胸をいっぱいにする。
幸せに、なりたい。
幸せになりたいと願ってもいいのだ。
「キース様……。お慕いして、おります。ずっと」
キースからの答えはない。けれど触れたままの手の温かさと、今度は穏やかな眠りの気配に目を閉じる寸前に見えた、リリーナを見つめる黒い目は優しい光を放っている。
今はこれが彼の伝えられる精一杯の気持ちなのだと思った。
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