たった一言の重さ
西の空が少しずつオレンジ色に染め上げられ、日没のはじまりを告げている。そろそろ家に帰る時間だ。ということは、キースの手を離さなければいけない。
遊び足りない子供のような名残り惜しさを感じつつ、リリーナは身体ごと静かに手を引いた。わずかに残ったキースの温もりを逃がさぬよう握りしめ、今日いちばん気を重くするであろう本題を切り出す。
「先日はバラの花束をありがとうございました」
「花束? ――ああ」
深々と頭を下げながら礼を言うとキースは一瞬だけ
その反応は照れ隠しに知らない振りをしているのではなく、本当に知らない感じのものだった。やっぱり……と、それだけでリリーナは花束に込められた事情を察してしまう。
キースに尋ねれば真偽が分かることだ。だからクレフが勝手にキースの名を騙ったわけではないのだろう。でも少なくとも、キースが指示をして届けられた花束ではないことはこれで確かなことになった。
いや、リリーナだってクレフに花束を差し出された時、疑っていたではないか。
それが疑惑ではなく真実だった。そう答え合わせがされただけだ。
(最初から分かっていたことでしょう)
リリーナが異性から花束をもらえるのは、婚約の申し込みの時だけ。好意のこもった贈り物ではもらえない。
分かっていた。
けれど、それでも嬉しかった。たとえ謝罪の気持ちも込められていたのだとしても、クレフは”親愛の証”と言ってくれたのだ。ほんの少し冷静になれば、キースがリリーナに親愛の情を抱いてくれるはずがないことくらい分かるのに、冷静に考えようと思うことすら忘れてしまうくらい嬉しかった。
せっかく上手くやれる気がしていたのに挫けそうになってしまい、リリーナは左手にずっと大切に持っているポーチを胸にかき抱いた。
バラの花束をもらったことが嬉しくて、そのお礼にキースの色だと浮かれて黒曜石のタイピンを買った。
でも、これじゃ渡せない。――やはり最初から、渡せるはずがなかったのだ。
「せっかくキースの為に用意したのに?」
「お礼の品を渡さなくて本当にいいの?」
ふいに声が聞こえ、リリーナは思わず顔を上げて辺りを見回した。
あの時の、植木鉢が落ちて来る寸前に聞こえて来た子供の声と同じ声が聞こえた気がする。
けれど街中ならいざ知らず、今は目の前に訝しげな顔をしたキースがいて、後は護衛を務める数人の衛兵が視界の邪魔にならないよう、離れた場所で遠巻きに様子を窺うだけだ。王城の庭園に子供の姿なんてそれこそあるはずがない。
「リリーナは幸せになりたいんでしょう?」
「リリーナは今度こそ幸せにならないとだめだよ!」
今度こそ?
それは散々、破談を繰り返したことを言っているのだろうか。
でも、そうだとして声の主の子供たちはどうして知っているのだろう。
そもそも、子供たちはどこに?
「きゃ……っ!」
山積みになった疑問を吹き飛ばすように強い風が庭園を吹き抜けた。
突風は見えない手となってリリーナの手からポーチを奪い、地面に転がした。ちゃんと合わせていたはずの留め具がその拍子に外れ、わずかに開いた口から中身がこぼれる。
中身と言ってもほとんど物は入ってない。
綺麗にアイロンがけされたレースのハンカチとお気に入りの香水の瓶、それから。
少ない持ち物のうちの一つ――それこそがポーチを持ち歩く理由だ――が、キースの足元に転がって行った。
「あっ」
淑女らしい振る舞いをすることも忘れ、慌ててしゃがみ込むリリーナの前でキースがそれを拾い上げる。掌サイズの小さな、厚みもさほどない箱だ。外装には黒いベルベットが貼られており、被せた蓋が開かないように濃紺のリボンがしっかりと結ばれている。
箱が遠ざかるのを視線で追うリリーナの眼前へ手が差し伸べられた。
「あ……ありがとう、ございます」
キースの助けを受けて立ち上がると、リリーナは所在なさげな面持ちで視線を彷徨わせる。
完全な不可抗力とは言えキースの手に渡ったその箱を返して欲しいとは言いにくかった。
受け取ってもらえないとしても、キースの為に用意したものだ。それが偶然のなりゆきであろうと持っていて欲しい。
リリーナは大きく深呼吸すると口を開いた。
「先日いただいたバラの花束のお礼に、ご用意したのですが……」
「バラの花束を贈ったのは俺じゃないし、見返りの品を用意して欲しいとも言ってない」
ある意味、思っていた通りの答えが返って来る。
想像のついていた反応だったから落胆はしなかった。
期待なんかしていない。そもそも、期待出来るような間柄ですらないのだ。
それでも突き返されるのは嫌で、ポーチを固く握りしめながら続ける。
「必要ないのであれば処分して下さって構いません」
「わざわざ用意してくれた品を受け取らないとは言ってない」
リリーナは真っすぐにキースを見つめた。
受け取ってくれるということだろうか。
それならそれで、もっと分かりやすいように言って欲しい。
「受け取って下さるのなら、余計なことは仰らず素直に受け取って下さい」
思わず不満が言葉の形を取り、表に出ていた。
バーバラの誕生パーティーでの平手打ちと言い、今の言葉と言い、そんなことをするつもりは全くないのに突っかかるような可愛げのないことを口にしてしまう。
リリーナだってキースの為だけに選んだのだから受け取って欲しいと素直に言えばいいのだ。
でも、言えなくなる。
「十分素直に接している」
どこがですか。
リリーナはそう反論しかけ、口を
素っ気なく接してリリーナを突き放したいのかと思えば、段差があるからと手を差し出してくれる。
今だっていらないのならいらないと言える立場なのに、リリーナの用意したお返しを受け取った。
優しくないのか優しいのか、よく分からない。
けれどリリーナが優しいと称したら、キースはやはり素っ気なく否定するのだろう。
「中を改めても?」
「ど、どうぞ。……あっ、待って下さい」
リリーナは頷き、けれどキースが自ら包みを開封しようとしていることに気がついた。リボンを解いた手を咄嗟に包み込み、それ以上は動かないよう押し留める。
もちろん中にはタイピンしか入っていない。リリーナが家からずっと、肌身離さず大切に持ち歩いてもいた。だから中身をすり替えられる機会などなかった。胸を張って断言も出来る。
それでもキースに開けさせるのは問題があるのではないだろうか。
「私がお開け致します。中に、危険なものが入っていてはいけませんし」
「危険も何も君がポーチに入れて持っていたんじゃないのか」
「私を……信用、して下さっていらっしゃる、のですか」
嬉しくて声が震えそうになる。
キースはリリーナのことをほとんど知らなくても、贈り物を開けようとしてくれた。無関心ではあっても、マイナスの悪感情を持つには至っていないと自惚れてもいいだろうか。
「君を疑う要素がない。それだけの話だ」
「受け取って下さるだけで、十分ですので」
リリーナは胸の前で両手を組み、力なく笑ってみせる。たとえ引き出しの奥底にしまい込まれるのだとしても、キースの手元にあるだけで充分だと本当に思ったのだ。
包みを開かれた中から黒いタイピンが現れる。
また、黒だ。
買った時はそんな乏しいイメージしかなかったのだから仕方ない。でも今日一日を過ごして、キースは黒だと改めて思った。キース本人がどう思っていたって、リリーナは黒以外に考えられない。
「……ありがとう。使わせてもらう」
リリーナは目を見開いた。
乾いた砂地に水が染み込むように、心がゆっくりとキースの言葉の意味を理解して行く。同時に何故だか涙がこぼれそうになって俯いた。
失敗したと思ったのは俯いてからだった。これでは余計、涙がこぼれやすくなってしまう。
「お、お礼だなんて、とんでもありません。先に私が花束をいただいたのですし……本当に、綺麗な花束で嬉しいと思いました」
それから家に帰るまで、リリーナは一言も喋らなかった。
正確には喋れなかったと言った方が正しい。けれど以前よりもほんの少し、沈黙が優しいものに思えた。
翌日、再びリリーナの元にバラの花束が届けられた。
メイドの話によると王家の使いを名乗りはしたが、クレフではなかったという。
クレフに会えなくて残念がるメイドを横目に、色々な角度から花束を眺めているとカードが添えられていることに気がついた。
リリーナの心臓が跳ねる。震える指でカードを改めたけれど、メッセージらしき言葉は何一つ書かれてはいない。
何故わざわざカードなんて添えたのだろう。訝しみながらカードを裏返すと、右下にキースの署名があった。
キースが書いたと思われる文字は、使いを寄越すという封書のたった一回しか見たことはない。
それでもあの時に見た筆跡と同じな気がして、同じであったらいいと願いを込めて、リリーナの指先はその署名を無意識に何度もなぞっていた。
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