第4話 アスモデウスの唄 その四



 海岸線で泣く天使の歌声が聞こえる。

 それは亡くした片翼をしのぶ歌。


 そうか。

 それでだったのか。

 アスモデウスの歌声にひそむ狂気にも似た哀しみは。


 愛する者へ捧げる哀歌だったのだ。

 つがいの片割れを亡くしてから、ずっと思い出の場所で泣き続けていた。


 それほどに深い。

 天使の愛は。


 幻影が去ったとき、龍郎は悟った。

 これまで、龍郎にその幻を見せていたのが誰なのか。

 天使の羽や、天使たちの使っていた武器を通して、その記憶の断片を見せていた者。


 苦痛の玉の持ちぬしだ。

 快楽の玉がアスモデウスの心臓だというのなら、苦痛の玉もかつては天使の心臓だったことになる。


 あの戦の合間の宴の夜、闇討ちによって殺された天使こそが、この記憶のぬしであり、苦痛の玉はあのとき、えぐりだされた彼の心臓だ。


(青蘭は前に言ったっけ。アスモデウスの記憶をとりもどしたときに。僕らはつがいの鳥。君のもとへ飛んできたよ、と)


 そう。アスモデウスは……青蘭は、恋人の心臓を追ってきたのだ。

 あるいは青蘭が龍郎を愛したのも、苦痛の玉を体内に宿しているからに他ならないのかもしれない。

 龍郎自身を愛しているわけではなく、遠い過去の記憶のなかの恋人への想いを投影しているだけなのかも……。


「青蘭……」


 さっきまで、となりにいたはずの青蘭の姿がない。

 かわりに歌声が聞こえた。

 この哀切な歌は、まさしく——


 迷宮のような暗闇のなかを、龍郎は歌声のもとへと走っていった。


 あの入江の岩陰で、泣きながら歌っていた。四枚の翼を持つ天使。


「アスモデウス」


 ふりかえったアスモデウスは信じられないような顔で、龍郎をながめている。

 ケルビムのアスモデウスだ。

 まだ狂う前の、たしかな神性をそなえたアスモデウス。


「……生きていたの?」

「違う。おれはただの人間だ。おまえの恋人の心臓を右手に持っている」

「ああ、何も言わないで」


 アスモデウスはかけより、龍郎の右手をとった。涙にぬれた頰に、そっとその手をかさねる。

 歓喜とも苦痛ともとれる表情で、つかのま、龍郎の手に頰をすりよせていた。


 するするとこぼれおちる澄んだ涙を、龍郎は不思議な気分でながめた。


 これは……やはり、青蘭なのだろうか?

 青蘭がアスモデウスの魂だというのなら、姿形は異なるが、これも青蘭の表現体の一つでしかないのか?

 このこみあげる愛しさは、そのせいなのか?


 アスモデウスはややハスキーな声でささやく。


「……たとえ、どんな罰を受けても。わたしはあなたのもとへ飛んでいく。待っていて」


 アスモデウスの瞳を見て、龍郎は気づいた。

 今、過去とつながっている。

 過去のアスモデウスと、未来にいる龍郎が時空を超えて、一瞬、ふれあった。

 そして、アスモデウスに決心させたのは、今のこの幻影の自分なのだと。


(こいつ、堕天する気だ)


 止めなければ。

 堕天さえしなければ、彼は智天使のままでいられる。

 肉体と魂を別々に切り離されて、幾度も人として生まれ変わりながら、地獄のような生を送ることもない。

 青蘭の苦しみをとどめることができる。


「そんなことをするな。長く苦しむことになるぞ。も、それを望んでいない」

「わたしたちは一つになると誓った」

「おまえの愛した相手は、もういないんだ」

「心臓があるかぎり、わたしたちは

「アスモデウス——」

「あなたのために歌い続ける。どんなに遠く離れていても、きっと見つける」


 急速にアスモデウスの姿が遠くなる。

 次元が離れていく。

 龍郎は一人で暗闇に立っていた。


 なんてことだ。

 この邂逅かいこうはあってはならなかった。

 アスモデウスに堕天の原因となる盗みを決意させたのは、龍郎だった。恋人の心臓がまだこの世に残っていると知ったからだ。


 青蘭の快楽の玉は悪魔の魔力を吸うのに、龍郎の苦痛の玉は吸わない。

 なぜなら、すでに満杯だからだ。

 この玉は持ちぬしが死ぬ前に、いっぱいになっていた。


 英雄と呼ばれていた大天使。

 魔力ではちきれそうになったその心臓。


 つまり、英雄の卵とは、アスモデウスの恋人の心臓のことだった。

 アスモデウスはどこからか、その心臓を盗みだし、逃亡をはかった。


 だが、失敗したのだろう。

 捕らえられ、罰として堕天させられたのだ。


 覚悟の上だったのだろうが、それにしても想像以上の厳しい罰だった。

 人としてさ迷ううちに、アスモデウスの心は壊れてしまった。

 それが、今、青蘭のなかに不完全な形で残っているアスモデウスのだ。


(アスモデウス。すまない。おれが、おまえを苦しめた)


 それでも、惹きあう。

 二つの心臓が……。


「龍郎さん!」


 とつぜん、暗闇からとびだしてきた青蘭に抱きつかれた。


「青蘭」

「急にいなくなったから心配したよ」

「急に?」

「うん。すうっと消えるように」

「そうなんだ」


 アスモデウスの次元とつながったのが、龍郎の苦痛の玉だったからだろう。

 あれを青蘭は見なかったわけだ。

 無邪気に抱きついてくる青蘭を見ると、心苦しい。


 青蘭のこの想いは、はたして龍郎へのもの?

 それとも、あの天使に向けられたものなのだろうか?




 了

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