第4話 アスモデウスの唄

第4話 アスモデウスの唄 その一



 ふと気づくと、恐ろしいまでの深暗に倒れていた。

 周囲に青蘭やアンドロマリウスの姿はない。

 いや、正確に言えば、見えない。

 闇の密度が濃すぎる。

 視力がまったくきかない。


 龍郎は起きあがった。

 全身がしびれるような感覚はあったが、とりあえず、どこも怪我は負っていないようだ。


「……青蘭? 青蘭、いるのか?」


 落ちているとき、少なくとも七、八十メートルの距離があった。

 発光するように青蘭の……アスモデウスの体だけが闇のなかで浮きあがって見えたから、距離感があいまいだったが、かなり離れていたことだけは確実だ。着地点もそれだけ離れた場所になるだろう。


(みんな、バラバラになったのか? ヘカトンケイルは? レラジェは? おれはケガしてる感じないけど、青蘭は大丈夫だったのかな?)


 それどころか、青蘭の魂の入っていたアスモデウスの体は、落下の途中で完全にくずれおちていた。

 そのあと、青蘭の魂はどうなったのだろう?


「青蘭? 青蘭、どこだ?」


 いつもこうして、ずっと暗闇のなかで大切な人を探し続けていたような気がする。

 たしかに手をにぎったはずなのに、いつのまにか、その人はいなくなっている。


 なんだろうか。

 この胸のちぎれるような、うらがなしさは?


 どこからか泣き声が聞こえた。

 視覚を完全に奪ってしまう深い闇のなかを、その声だけを頼りに歩いていった。


 龍郎は自分の右手を誰かに強くひっぱられるような感覚を味わった。

 苦痛の玉が呼ばれている。

 快楽の玉が龍郎を求めている。


 しばらく進むと、暗闇のなかで、誰かが泣いていた。

 ひざまずくように片ひざをつき、白いものをひろい集めようとしている。

 でも、それも手につかんだ瞬間、もろくも崩れる。


 骨だ。

 火葬場の焼却場から出てきたばかりのように、真っ白な骨。


 青蘭だ。

 姿形は青蘭。

 でも、泣き声はアンドロマリウスだ。

 腐りおち、くずれさったアスモデウスの骨を前に号泣している。


 悪魔も泣くのだ。

 愛しい人を失ったときには。


「……アンドロマリウス」


 声をかけると、龍郎に背をむけたまま、彼はピタリと泣きやんだ。

 ゆっくりとかえりみるそのおもては、まちがいなく青蘭なのだが。


「形骸だけでもよかった。だけで。おまえなら、わかるだろう? 龍郎」

「ああ……」


 もし、この青蘭のなかに、永遠に魂が戻ってこないのだとしたら……それでも、龍郎はやはり、今のこの目の前に青蘭の体を守り続けるだろう。

 いつの日にか、そこに青蘭の魂が帰ってきてくれるように。

 永遠とわに願い続ける。


「でも、アンドロマリウス。青蘭の意思はアスモデウスの意思だ」

「ああ。ちっとも、おれの思いどおりにならない。憎いヤツだ。だが、いずれ思い知るさ……」


 アンドロマリウスは立ちあがった。

 ゆがんだ笑みを見せるので、龍郎は彼につめよった。


「アンドロマリウス。言え。おまえは青蘭をどうするつもりなんだ? 快楽の玉が魔王の魔力を吸い続けると、どうなるんだ?」

「快楽の玉は……アスモデウスの心臓だ。実験で造った青蘭の体に、アスモデウスの心臓をぬきだし、埋めこんだ」

「心臓? アスモデウスの? 天界から盗んだものじゃないのか?」


 アンドロマリウスはこの上なく邪悪な笑みを見せた。

 アスモデウスの肉体が失われたことで、彼のなかにあったわずかな人間性のようなものも、いっしょに溶解してしまったようだ。


「アンドロマリウス……」

「待っていろ。まもなくだ」


 つぶやくと、青蘭の体はグラリと傾いた。あわてて、龍郎が抱きとめる。

 アンドロマリウスが去ったのだ。


 次に目をあけたとき、それは青蘭に戻っていた。いつもの愛情に満ちた眼差しが、龍郎を包みこむように見つめる。


「よかった。青蘭。魂が戻ったんだね」

「龍郎さん」


 抱きしめあうと、安堵とやすらぎで涙が出そうだ。


「いつも言ってるだろ? どこにも行かないでくれって」

「だって、目がさめたら、アスモデウスの体のなかだったから」

「…………」


 やっぱり、もともとの体と魂だから、ひきあったのだろう。

 この場所が魔界だということも関係したのかもしれない。精神的なものが形をとりやすいのではないだろうかと、龍郎は考える。


「なんで、こんなところにアスモデウスの体があったんだろう? あれは海に沈んだはずだった」

「わからない。けど、あれは人間の世界の理から外れたものだ。海底に沈んだだけでは損壊するような代物じゃない。だから、誰かが見つけて、ここに運んできたのかも」

「誰かって?」

「異界を飛ぶことができる者だね」

「ルリムは自分のことを“空間を飛ぶ者”だと言ってたな。だから門番をしてたんだって。そういう者ってことか」

「天使とかね」

「天使……」


 たしかに、そうかもしれない。

 天使の翼が飾りじゃないとしたら、きっと異次元も飛ぶことができる。


「ここ、どこだろう? 龍郎さん」

「たぶん、リンボだ。タルタロスのさらに底にあるのが辺土リンボなんだそうだ」


 あれっと、とつぜん青蘭が言った。


「何か聞こえない?」

「えっ? 何が?」


 もしや、レラジェかヘカトンケイルだろうか?

 龍郎たちが無事だったということは、やつらも無傷で近くにいるかもしれない。


 しかし、青蘭は意外なことを言う。


「唄だよ。誰かが歌ってる」

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