第4話 アスモデウスの唄 その二



 唄——


 龍郎は耳をすました。

 そう言われれば、聞こえる。

 なんだか胸がざわめく歌声だ。


「龍郎さん。行ってみよう?」

「う、うん……」


 青蘭に手をひかれ、深奥で歌う誰かのもとへ歩いていく。


 少しずつ視界が明るんできた。

 同時に体がフワフワする。宙に浮かんでいるかのような。


 そこは古代の神殿のようだ。

 陽刻の柱とレリーフの壁面。

 さっきまで奈落の底にいたはずなのに、この景色は地獄らしくない。


 パタパタと足音が近づいてきた。

 誰かが廊下の前方から駆けてくる。

 その顔を見て、龍郎はおどろいた。

 知っている人物だ。

 髪は長いが、まちがいなく、リエルだ。

 なぜ、こんなところにリエルがいるのだろう?


「……リエル?」

「こんなところにいたのか。大変だぞ。君はもう聞いたか?」

「えっ? 何を?」

「戦が決まった」

「戦? ついにか」

「ああ。指揮をとるのは、アスモデウスだそうだ」

「智天使のアスモデウスが? やつらと戦うのは能天使エクスシアの役目だろう? 智天使は楽園の守人だ。なんでまた、アスモデウスが……」


 言いながら、龍郎は妙な気分だ。

 意識は龍郎だが、別人の体のなかに入って、自分でもよくわからないことをパクパクと勝手に口がしゃべるのを聞いている。

 おそらく、これは龍郎ではない別の誰かだ。その人の目を通して見聞きしている。


 リエルが声を低くして続けた。


「例の諜報から帰ってきたのち、アスモデウスのようすがおかしかっただろう? それが関係しているのかもしれない」

「……あの隠密の、というやつか。けっきょく、あれはなんだったのだろう? 神のご勅命だったらしいが、その内容を知るのは、神とアスモデウスだけだ」

「アスモデウスは神のお気に入りだからね。ともかく戦と決まれば、我々も出陣の用意だ。今度は大きな戦になるらしい。大天使の我々も狩りだされる。君は力を発揮できるからいいかもしれないが」

「戦は好きじゃない」

「わかっている。だが、君はきっと今度の戦で能天使の位階を授けられるだろう。まもなく心臓が満たされる。それほどの敵を倒した大天使は君しかいない。君は英雄だ」


 そう言って、リエルはニコリと笑った。

 龍郎が知っているリエルとは別人のような親しげな笑顔だ。


 これはよく似ているが、リエルではないのだろうか?


 なんと言っても、背中に翼がある。

 ブロンドの髪にブルーとグリーンのオッドアイの瞳。

 翼を持つこの姿は、まさしく天使だ。


 さらに何事か話しこんだあと、龍郎はリエルの顔の天使と別れた。

 神殿を出ると日が暮れかけていた。

 日没の陽光が楽園を茜色に染めている。


 楽園に暮らすことをゆるされているのは、天使のなかでも上位三隊だけだ。すなわち、熾天使セラフィム智天使ケルビム座天使スローンズ


 楽園は神の御座所だから、ちょくせつ神と接することを認められた位階の天使しか、入ることができないのだ。

 下位三隊のまんなかの位にすぎない大天使の彼らは、本来、そこには入れない。


 だが、彼はまわりに見ている者がないことを確認すると、そっと門をくぐった。

 なかは海辺だ。

 楽園の中心は、それは美しい都だというが、門の周辺は無人の海岸が続いている。建物はいっさい見えない。

 もちろん、楽園というにふさわしい景色ではある。

 どこまでも澄んだアクアマリンの海水と白い砂浜。大輪の花を咲かせる木々の緑に包まれ、海岸線は静謐な美に満ちている。

 戦場になれた彼にとっては、まぶしいほどけがれなき世界だ。


 砂浜に足音を残し、彼はすばやく走っていく。入江をめざしていくと、その突端に、周囲のどこからも目隠しになった、岩場にかこまれた小さな浜辺があった。


 そこから歌声が聞こえる。

 これは合図だ。

 来ているよ、君に会いたいという。


 彼は心臓が激しく脈打つのを感じた。

 胸をおどらせて、岩場をとびこえる。

 一対ではあるが、彼にも翼はある。


 岩場をこえると、そこに歌声のぬしがいた。

 二対四枚の翼を持つ、麗しきケルビムが。

 天使は皆、美しい。

 でもそのケルビムの美しさには、何か胸の奥をかきむしるような哀切なものがあった。その美貌はあまりに完璧すぎて、破滅や魔を呼びこみそうなあやうさがある。


「アスモデウス」


 呼ぶと、アスモデウスはふりかえった。

 彼らは走りより、しばらく無言で抱きあった。

 心臓がかさなると、ぴったりと同じ音を奏でる。共鳴している。


 天使は心臓を一つにすることで、新たな命をはぐくむ。

 だから、共鳴する心臓を持つ相手は、ひとめでわかる。


 彼も、アスモデウスを見た瞬間にわかった。運命の相手だということが。

 彼を見るアスモデウスの目のなかにも、同じ想いが宿っていた。

 ひとめでたがいに恋をし、一瞬で心が結ばれた。

 これが、つがいかと彼はむずがゆいような感覚を味わう。


 これまでの彼の生のなかに愛は存在しなかった。友愛や仲間への親しみはあったが、それは愛ではなかった。

 この想いを得るために、天使は長い生を生き続けるのだと思う。


 そして、一つになった瞬間、どちらかがこの世から消える。

 それは天使の宿命だ。

 二つの心臓からできる卵は一つ。

 生まれてくる命も一つ。

 ごくまれに双子が誕生することもあるらしいが、それは天界始まって以来、数度しかなかったという。きわめて可能性の薄い賭けである。


 だから、もどかしい。

 一つになりたい。

 でも、愛する者を失いたくない。

 いつか、つがいになろうと約束しながら、ふみだせない理由……。


「アスモデウス。次の戦で指揮を任されたんだって?」

「うん」

「前の諜報のときもそうだったが、神は何をお考えなんだろう? 君にばかり危険な役目を与えるなんて、納得できない」

「…………」


 アスモデウスは答えない。

 神からその真意をもらすことを禁じられているのか。あるいは、リエルの言うとおり、諜報に行ったとき、なんらかの問題が生じたか。


 あの隠密の調査のあとから、アスモデウスのようすが変わったことは事実だ。つがいの相手である彼ですら知り得ない何かが、あのとき起こった。それは、たしかなのだろう。


「まあいいさ。戦になれば、おれが君を守る。必ず生きのびよう」

「そのときには、今度こそ、つがいになれる?」

「ああ。そうだね」

「君の心臓はもうすぐ満たされる。私も君にふさわしい心臓の持ちぬしにならなければ」


 彼は不安だった。

 なぜ、こんなにも心がざわつくのだろう?

 もちろん、戦争は危険だ。

 でも、ただそれだけじゃない。

 言葉にならない不安にむしょうに襲われる。


 この幸せができるだけ長く続けばいい。

 ただ、それだけのささやかな願いが、じきに絶たれるのではないか。

 そんな恐怖に……。

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