第3話 麗しき死体 その四



「青蘭——!」


 いつも、いつも、青蘭は龍郎の手の届かないところで危険にあう。

 いつも、そうだ。

 なぜなのだろう。

 守りたい。全力で、命を捧げてもと思っているのに、青蘭に助けが必要なとき、龍郎はそばにいられない。

 この、もどかしさ。


 今も目に見えているのに、二人のあいだにある数十メートルの空間が龍郎を阻む。


 せまい岩棚にアスモデウスと青蘭の二人の体が載せられているので、矢をさける余地がない。それから逃れるためには、五十メートル下方へ飛びおりるしかない。


 つまり、万事休すだ。

 アンドロマリウスは青ざめたおもてで硬直している。


「アンドロマリウス! 魔法を使え!」

「ムチャ言うな。エクソシストの力は青蘭でなければ発揮できない」


 龍郎はハッとした。

 いつも青蘭が悪魔を退治するとき、アンドロマリウスの力を借りる。彼の力で、さきほどのイポスやベリトのように、粉々の光の粒子に粉砕する。

 あれはアンドロマリウスの能力のはずだ。

 だが、それが今、使えないということは……。


「青蘭が命じないと魔法を使えないのか!」

「ご名答」


 魔法のトリガーは青蘭なのだ。

 青蘭の魂が迷子になっている今、肉体だけのアンドロマリウスには自身の力が使えない。

 おそらく、魔法じたいはアンドロマリウスのもの。だが、それを制御しているのは、青蘭のエクソシストの力なのだ。


 ヒュッと音を立て、矢が空を切る。

 かろうじて、第一矢はそれた。

 青蘭の頭のすぐよこの岩壁に食いこむ。きわどい。ほんの髪ひとすじの僅差。アンドロマリウスがわずかに顔をそらしたから、ギリギリ外れた。


 しかし、レラジェの矢は続けざまに数本、飛んでくる。扇のような形で横に広がりながら飛ぶ。

 今度こそ危ない。


 龍郎は冷や汗がジリジリと流れるのを感じた。

 見ていることしかできない自分が歯がゆい。


 すると、そのとき、奇跡が起こった。

 いや、龍郎には奇跡。

 アンドロマリウスにとっては悪夢の始まりだ。


 うっすらと目をあけたと思った、あれはやはり錯覚ではなかったのだ。

 さっきまで死体のように身動き一つしなかったアスモデウスが、ふいに青蘭の上に覆いかぶさった。

 こっちの空間に背中を見せ、自分の体を盾にして、青蘭をかばう。


 アンドロマリウスが悲痛な声で叫んだ。

「やめろッ! アスモデウス! 頼む。やめてくれ」


 だが、天使のほうが人より筋力が強い。

 むしろ青蘭の体を盾にしようとするアンドロマリウスをギュッと抱きしめて、アスモデウスは離さない。


 青蘭だ。

 一瞬見えた、あの瞳。

 アスモデウスのなかでその体を動かしているのは、青蘭なのだ。


「青蘭——!」


 龍郎が呼ぶと、アスモデウスのなかにいる青蘭が微笑んだ。

 そして、腕のなかのアンドロマリウスに、幼な子に言い聞かせるように優しくさとす。


「アンドロマリウス。この体は過去の幻影だ。もういいだろ?」

「青蘭! 恨むぞ!」


 そのときにはもう、矢じりはアスモデウスの背につきささっていた。

 プロチナブロンドの髪が焼けたように、矢じりの切っ先のふれたところから黒く変色し、ちぎれる。

 純白の背に、青い静脈が一瞬、花のように浮きあがった。

 次の瞬間、オパールのような肌が黒く朽ちる。


「アスモデウスーッ!」


 アンドロマリウスは正気を失ったように泣き叫ぶ。


 アンドロマリウスだけではない。

 ヘカトンケイルもだ。

 何が起こっているのか理解したのかどうかはわからない。


 大事な宝物が目の前で腐りはてていくのを見た巨人は、地団駄をふんで暴れだした。巨大な駄々っ子だ。百本もある腕で、そこらじゅうの壁を叩き、破壊し、天井も崩れだす。

 激しく地面が鳴動する。

 鍾乳石が根本から折れ、雨のように降りそそぐ。


 龍郎の立っている石筍も、時計の振り子のようにゆれた。

 やがて、ポキリと折れる。

 龍郎は鍾乳石や岩塊がとびちる虚空になげだされた。

 地面に穴があいている。

 ヘカトンケイルが全身の力でふみつけるので、床もくずれおちていく。

 視界のなかにあるすべてのものが崩壊し、奈落の底へ飲みこまれる。


 龍郎は落ちた。

 ヘカトンケイルも、襲撃者レラジェらしき姿も闇のなかへ沈む。


 その石つぶての雨のなか、龍郎は青蘭の姿を求めて視線をさまよわせた。

 青蘭のいた岩棚も原形をとどめていない。そこにいたはずの青蘭たちも、今まさに虚無のなかへなげだされようとしていた。


「青蘭ーッ!」

「龍郎さん!」


 アスモデウスが手をさしのべる。

 その体は肩からしだいに胸、首、比類ない美貌にも腐敗が進んでいく。

 半面はまだ秀麗さを保っていて、なかば骨の見えかけた半分でさえ、むしょうに悲しいまでに美しい。


 その体はアスモデウスだ。

 青蘭自身じゃない。

 それなのに、この胸の奥をかきむしられるような切なさは、なんだろう?

 愛し、愛されたものが朽ちていく。

 形を失っていく。

 この途方もない喪失感は?


(やっぱり、おまえもおれの愛した青蘭の一部なんだな。アスモデウス……)


 さよなら。

 でも、これは終わりじゃない。

 そうだろ?


 数百メートルの距離をへだてて、龍郎はアスモデウスの肉体の最期を見届けた。

 青蘭には悔いはないようだ。

 微笑みながら溶けていった。





 了

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