第2話 魔界行 その三



 轟音ごうおんとともに流れおちる大量の水。

 奔流に飲まれ、くるくると体が回転する。流されているのか、落下しているのかわからない。

 しっかりつないでいたはずの青蘭の手も、いつのまにか離れている。


(青蘭。青蘭。無事か? 青蘭……)


 いつしか意識が半濁になった。

 かなり長いあいだ水流に翻弄されたのち、どこかに体が打ちつけられた。

 いったん、龍郎は気を失った。


 ハッと覚醒したのは、どこからか大きな音が聞こえたからだ。


 あたりを見まわすと、ひじょうに巨大な洞窟のようだ。獣の牙のようにギザギザの鍾乳石が頭上から無数にたれさがっている。


(滝は? あれだけの水量の滝が流れおちたのに、なんで川も滝つぼもないんだろう?)


 滝など幻だったかのように、なんの痕跡もない。

 人間の世界でなら、滝の下は必ず川になっているはずなのだが、そんなところも法則が異なるのだろう。


「青蘭? 青蘭、どこだ?」


 あたりは暗いが、ぼんやりと青い光に包まれていた。洞窟の岩壁じたいが発光している。よく見るとヒカリゴケのようなものがひっついていた。


 キョロキョロと周囲を探すと、ようやく、数メートルさきに求めていた姿があった。


「青蘭!」


 よかった。いつもちょっとのあいだでも離れると、そのすきにさらわれてしまうから、今度もそうじゃないかと心配した。


 かけよると、水びたしになった青蘭が倒れていた。ヒカリゴケの淡い光に顔色がひどく青ざめて見える。見たところ骨折などの大きなケガをしているふうではない。


「青蘭。青蘭。しっかりしろ。青蘭」


 かるく頰をたたいてみたが、反応がなかった。まさか、溺死してしまったのだろうか?

 あわてて、龍郎は青蘭の胸に耳を押しあてる。大丈夫。心臓は脈打っているし、ゆっくりと息もしている。

 死んではいない。


「青蘭。どうしたんだ?」


 水を大量に飲んだせいだろうかと思い、人工呼吸をしてみたが、青蘭は目をさまさなかった。


 困った。ここがどこだかもわからないし、青蘭をこのままにもしておけない。


 ずぶぬれのドレスを着ているから低体温症になっているのかもしれない。早くあっためてあげないと。

 しかたなく、水をふくみ、そうとうの重量になったドレスをぬがせた。スカートをひろげるための傘の骨みたいなものも外した。カツラも重いので、すておくことにした。


 ロココ調の下着姿の青蘭ができあがりだ。

 ドレス姿のお姫様もオペラ座の舞台の上にしか存在しないように華麗だったが、これはこれで、恐ろしく艶麗だ。妖しく、美しい。


「青蘭……」


 抱きよせると、肌が冷たい。

 体温がほとんど感じられない。

 どこかで火を起こせないだろうか。

 それとも、毛布のようなものでもあれば……。


 考えていたときだ。

 ガツンと地面を叩くような音がとどろいた。同時に振動が大地をゆらす。


 そうだ。さっき龍郎が目をさましたのも、この音のせいだった。

 ここには何かがいるに違いない。それも、とてつもなく巨大な何かが。

 しだいに近づいてくる。


 龍郎はあわてて青蘭を抱きあげた。

 とりあえず、大きな石筍のかげに入りこむ。龍郎の身長より高い石筍がたくさんあったから、身を隠す場所には困らない。


 しかし、青蘭のドレスを隠しておくだけの時間はなかった。

 まもなく、洞窟の奥からドシン、ドシンと地面をゆらしながら近づいてくる人影があった。


 いや、あれは人……なのだろうか?

 異様なものだ。

 身長は四十メートル以上。

 簡素なよろいを身につけ、頭にはかぶとをかぶっている。

 全体的な特徴をひとことで表せば“巨人”になる。が、ただの巨人ではない。真っ赤な肌をした巨人には頭が三つ、さらにはその背に翼のようなものがある。ではあるが、翼ではないことは遠目にもわかった。

 シルエットがおかしいのだ。

 翼のように両側にひろがっているわけではない。巨人の肩や背中や上半身の部分に、やたらとモコモコとがとびだして、まるで歩く巨大なイソギンチャクのような形をしている。


 近づいてきたソレを見て、異様に見えるのものがなんなのかわかった。腕だ。巨人には数えきれないほどたくさんの腕があった。仏教的に言えば千手観音像のようだが、あんなに美しいものではない。体のあちこちから向きもバラバラに無造作につきだした腕のかたまり。化け物だ。文句なく醜い。


 ヘカトンケイルだ——と、龍郎は思った。

 ギリシャ神話に登場する五十の頭と百腕を持つ巨人。

 なんで魔界に、神話のなかの化け物によく似た造形の生き物がいるのだろうか?


 巨人はたくさんある腕のなかで、もっとも大きな一対に槍と盾を持ち、龍郎たちのほうへ歩いてくる。


 問題なのは、あの巨人に敵意があるかどうかだ。

 人間を見つければ、すぐに危害をくわえてくるのか、問答無用でエサなのか、それとも多少は意思の疎通がとれるのか、だ。

 たとえ、なんらかのコミュニケーションが図れたとしても、さっきのように『悪魔殺し』と罵られて襲ってこられたのではたまらない。


 ここは相手を刺激せずに、やりすごすにかぎる。


(行ってくれ。早く。おれたちには気づかずに)


 龍郎は願いながら、目前に迫ってくる巨人をそっと、うかがった。

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