第1話 夏の夜の夢
第1話 夏の夜の夢 その一
初夏。
夢のような一夜が、その場所で始まる。
それは幻想のような景色だ。
失われた過去が、そのときだけ蘇る。
薔薇の香りの漂うベルサイユ宮殿を、まるで十八世紀の貴族のような豪華な衣装をまとった人々がねり歩く。
鏡の廊下では、ダンスが始まっていた。
舞踏会だ。
夏の初めにだけ開催される特別な宴。
事前予約で参加費を支払っていれば、誰でも参加できる。
ドレスコードはバロックスタイルの衣装に扮すること。男も女も、かつて宮殿を彩った貴族たちの再来のようにふるまい、一夜をすごす。
男も女も白いかつらをかぶり、昔風の化粧に、つけぼくろ。レースやリボンをたっぷりあしらったサテンやベルベットの衣服。ヒールの高い靴。女はかつらに帆船やダチョウの羽や生花を載せる。
この夜だけは、みんながギルモント侯爵であり、ポワソブル伯爵夫人であり、王の愛人の歌姫マリアンヌであったりする。
この夜、龍郎と青蘭も舞踏会に参加していた。ひとつき前に予約して、衣装も特注で頼んであった。
龍郎はアビ・ア・ラ・フランセーズ——つまり、コート、ウエストコースト、ブリーチズのセットだ。十八世紀貴族の男性用スーツだ。色は青。刺繍はなるべく抑えてもらった。
青蘭はもちろん、ローブ・ア・ラ・フランセーズ。華麗なドレスだ。いつもとふんいきを変えるために、淡いベビーピンクを基調にしている。
言ってみれば盛大なコスプレパーティーだ。二人での初の海外旅行がコスプレパーティーになったのには、もちろん、わけがある。
青蘭のなかにいる魔王アンドロマリウスが、使役のたびに青蘭から奪っていく体の一部。青蘭のすべての部分がアンドロマリウスのものになったとき、どうなるのか。
青蘭の肉体を青蘭自身でコントロールすることができなくなるのか?
それとも、青蘭の存在が消えてしまうのか?
何が起こるかわからない。
だから、それを止めるために、アンドロマリウスの遺した隠し財産を徹底的に調べようとは、以前から話しあっていた。
その矢先に、青蘭の祖父を見かけたという噂が耳に入ってきたのだ。
そんなはずはなかった。青蘭の祖父はアンドロマリウスが人間に化けた姿だが、すでに人間社会では死亡扱いになっている。そして、その魂は今、青蘭のなかだ。
その話を最初に持ちこんできたのは、リエルだった。以前から龍郎や青蘭を監視している組織のリーダーだ。
「じつは、先日、ヨーロッパのある都市で、青蘭、君の祖父を見たという報告があった」
龍郎はその話を聞いたとき、青蘭と顔を見あわせた。
たしかに、以前から青蘭の祖父を見たという噂はあった。だが、姿を見かけたというのが、さほど親しい人物ではなかったので、あまり本気にしていなかったのだ。
「あの噂、ほんとなのかな?」と、青蘭に聞いてみる。
青蘭は首をかしげた。
「僕は葬式に出たけど、柩のなかを見たわけじゃないんですよね。見たとしても、祖父の顔を知ってるわけでもなかったし。でも、龍郎さんがこの前、アンドロマリウスと話したときには、自分で死んだと言ってたんでしょ?」
「うん。言ってた。あの火事のときに。でも、そうなると、じっさいに世間で青蘭のおじいさんが死んだと言われてるときまで、十年くらいブランクがある。そのあいだ、誰かがおじいさんの身代わりをつとめてたってことかな?」
「秘書たちによれば、祖父とは電話で話してたそうです。電話なら、僕のなかにいるアンドロマリウスが指示してたのかもしれない」
「そうか」
アンドロマリウスは、たまに青蘭の意識をのっとって動くことがある。そのときなら、知りあいに電話をかけることはできる。声がとても特徴的だから、別人と怪しまれることはなかっただろう。
龍郎は断言した。
「きっと見間違いじゃないですか? アンドロマリウスが死んだのは事実だ。さすがに、あれは嘘じゃなかった」
だが、リエルは反論してくる。
「うちの情報員が見間違うはずはないですよ。いちおう、プロだ」
「そうかもしれないけど」
「じつは、これも噂なんだが、青蘭の祖父には愛人がいたって話です。その女性と、毎年、ベルサイユ宮殿の舞踏会で会っているという話ですね」
「ベルサイユ……舞踏会……なんですか? それ? 今、二十一世紀ですよ? そんなこと、いまだにやってるんですか?」
リエルは苦笑した。
「まあ、催し物ですね。ほんとの社交界の交流なわけじゃありません」
「そうですよね」
「彼女の名は、アリアドネ・ホイッスラー。会って話を聞いてみませんか?」
「そうですね。青蘭のおじいさんの隠し財産を集めないといけないし、その人が何か知ってるかもしれない。でも、舞踏会に行く必要はないのでは? ふつうにその人の家を訪ねていけば……」
「それが、彼女がどこに住んでるのか、我々にはわからないんです。世界中を旅していて、どうにもつかまらない。ただ、なぜか毎年、その舞踏会にだけは必ず姿を見せる」
「なるほど」
そんなわけで、パリくんだりまで行って、貴族のコスプレをするはめになった。
もしも、なんらかの形でアンドロマリウスが生きているのなら、ちょくせつ話が聞きたい。というより、なんの企みで死んだふりをしたのか、とても気になる。
舞踏会当日。
貸衣装を身にまとった龍郎と青蘭は、宮殿に乗りこんだ。
アリアドネという女の写真は見せられたが、それは三十年以上も以前の白黒のもので、現在の姿を想像することは、なかなか困難だ。
「見つかるかな?」
「どうかな。でも、おじいさまが、もしものときのために影武者を用意してた可能性はある」
「ただなぁ、おれには信じられないんだよな。アンドロマリウスはほんとにアスモデウスを心の底から愛しているんだ。愛人なんて作ると思えないんだけど」
「好きでも、相手は寝たきりの人形だよ。そっちの役に立たない」
青蘭の端的な言いぶんに、龍郎は絶句した。もしかしたら、龍郎が寝たきりになったら、青蘭は即行で浮気するのかもしれない。
「あいつは、そんなタイプじゃなさそうなんだけどなぁ……」
弱々しく抗議したが、青蘭は聞いているふうではなかった。
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