第2話 魔界行 その五
「ところで、あなたの名前はなんですか?」
老人は厳かに告げた。
「わしか。わしの名は、ソロモン」
ソロモンと言えば、悪魔をあやつったことで有名なイスラエルの王の名だ。例のソロモン七十二柱の魔王たちである。
もちろん、ただの同名ということもある。日本人にはなじみの薄い名前だが、西洋ではまったくないわけではない。
たとえば、画家のシメオン・ソロモン。十九世紀、ラファエロ前派の画家であり、同性愛者として逮捕された。BLチックな甘く美しい絵画を残している。
「あなたはなんの罪で、ここに捕らえられているのですか?」
「戦だよ。その昔、天地を二分する大戦があってな。ここにいるヤツらのほとんどは、それで負けた敗将よ」
龍郎はゴクリと息を呑んだ。
もしかして、アレだろうか?
これまで何度か、夢や魔法媒体の記憶を通して、見たことがある。
天使と悪魔が争っていた、超古代の大戦。
アスモデウスもその戦いに参戦していた。アンドロマリウスがアスモデウスを見初めたのも、その戦のさなかだ。
ことによると、アスモデウスが堕天された理由も、そこにあるのかもしれない。ちょくせつの理由は賢者の石を盗んだ罪らしいが、そこに行きつく根本的な原因には大戦がからんでいるのではないか。
「天使と悪魔が争っていた戦のことですよね?」
「外なる神と内なる神の戦いだ」
「右の神と左の神」
「そう。それだ」
まちがいない。
やはり、あれはただの夢ではなかった。真実だったのだ。じっさいに起こったこと。あまりにも歳月を超越して古いことなので、人間にはそれを知る者は誰もいないが。
かつて地球の
その戦いの先陣を切って戦っていたのが天使だ。アスモデウスは天使たちの軍勢を率いていた。
なのに、なぜ、堕天させられたのだろう?
肉体と魂を分離され、肉体は器に、魂は人となって輪廻転生をくりかえす。そのたびに人並み以上に残酷な死を迎えながら。
これほどに無惨な罰を受けるほどのことを彼女がしたのだろうか?
「教えてください。その大戦は誰と誰が争っていたのですか?」
老人はあきれたようだ。
大きく息を吐きだし、首をふる。
「さきほど自身で言ったではないか。右の神と左の神だ」
「だから、それはほかに呼び名はないのですか?」
老人は考えこんだ。
「そなた、人間よな?」
「人間です」
「たしか、人間のなかには、かの神たちをこう呼ぶ者があった。右の神をアザトース、左の神をウボ=サスラと」
アザトース。ウボ=サスラ。
どちらもクトゥルフの邪神だ。
邪神のなかでも、ひじょうに重要な地位にある。
アザトースはクトゥルフの邪神たちの主神であり、邪神をふくめ、宇宙の万物を生みだしたとも言われるものだ。
全知全能でありながら白痴、盲目の王で、つねに夢を見ながら増殖と分裂をくりかえしている。蕃神たちは彼をなだめるために歌い、音楽を奏で続ける。宇宙を構成する原初であり、この宇宙はアザトースの見ている夢である、とも言われている。
ウボ=サスラはアザトースの双子であるとも、つがいであるとも言われる万物の造物主だ。洞窟によこたわる原生動物として描かれ、アザトースにくらべれば情報量が少ない。
これまでに何度か遭遇したことのあるナイアルラトホテップは、アザトースの使者だ。
あの大戦がクトゥルフのもっとも重要な二柱の神によって、ひきおこされたものだったとは。
「……でも、おかしくないですか? 外なる神と内なる神の争いだと、さきほど言われましたよね? アザトースとウボ=サスラはどちらも外なる神のはずですが?」
「内なる神が右と左にそれぞれついて争った」
「なるほど」
クトゥルフの邪神のなかでも、外なる神と呼ばれているのは、アザトース、ウボ=サスラのほか、ヨグ=ソトース、シュブ=ニグラス、ナイアルラトホテップ。
旧支配者と呼ばれるクトゥルフやツァトゥグアのように、地球を支配したことのある神々に対して、地球に飛来したことのない神という意味らしい。
そして地球には彼らのほかに、地球生まれの神々もいた。大地の神とか旧神とも呼ばれる。ノーデンス、クタニドと言った神がそれだ。
老人の言葉が真実ならば、かつてクトゥルフの邪神の主神二柱が相争い、地球の神々も両陣営のどちらかについて戦った。宇宙規模の関ヶ原の合戦のような大戦があった、というのだ。
(嘘じゃない。真実だ)
M市の団地から出てきた超古代の謎の武器。剣や矢じり、斧などの残骸が大量に出土した。
あのときに見た幻のなかで戦っていたのが、天使だった。
「おそらくは、旧支配者を地球から駆逐するために、内なる神は邪神たちのなかで彼らに敵対する勢力についた、ということですね?」
「さよう」
「その戦いはどちらが勝ったのですか?」
「痛みわけ、と言ったところか。旧支配者の多くはその存在を封じられたものの、内なる神の多くも傷ついた。死した者も多い」
「アザトースとウボ=サスラは?」
「彼らは今も争っておるのだろうよ。しょせん、相入れることのない存在ゆえ」
なんてことだと、龍郎は頭をかかえる。
これじゃ、ラブクラフトたちの書いた小説は、ほぼ事実だったということになる。
しかも、そんな大変な史実を見ず知らずの老人から、あっけなく聞かされるとは。
あまりにも重大な内容なので、龍郎は思考がついていかない。
「その大戦の敗将、ということは、あなたも内なる神なのですね?」
「うむ。まあ、そうなる」
老人だけじゃない。
あの戦で戦っていたアンドロマリウスも、アンドロマリウスの旧友であるマダム・グレモリーだってそうだ。
悪魔、魔王と呼ばれるようになったのは最近になってからだと、彼らが口をそろえて言うのは、そのことなのだ。
しかし、龍郎がもっとも気になるのは、そこじゃない。
大戦はあった。
クトゥルフ神話は真実だった。
だが、それではまだ、アスモデウスが堕天した根源にたどりつかない。
龍郎が知りたいのは、過去じゃない。
今、どうやったら、アスモデウスを——青蘭を救えるか、ということだ。
「その戦いで天使たちは、どうなりましたか?」
「天使は立派に戦った。うむ。戦死した者もあろうが、生きのびた者たちは彼らの結界にて次の戦に備えておるだろう」
「つまり、天使たちは勝者の側に立った、ということですね?」
「いちおうな」
老人の言うことは、どれもこれもあいまいで、もどかしい。
「アスモデウスという天使をご存じですか?」
「むろん」
「では、アスモデウスが堕天させられたわけは?」
「英雄の卵を盗んだからだろう? そう聞いておる」
「英雄の卵……」
そうだ。そこがよくわからない。
アスモデウスが盗んだのは、賢者の石のはずだ。だが、たしかに天使の羽が見せた幻のなかで、英雄の卵のことも言及していた。
賢者の石と英雄の卵は同一のものなのだろうか?
思案する龍郎の前で、老人は意外なことを言った。
「そう言えば、タルタロスの最奥に囚われの天使がいると聞いたことがある。それがアスモデウスかどうかは知らんがな」
囚われの天使。
なんだか、とても気になった。
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