第2話 魔界行 その八
鍾乳石?
それとも天井の岩がくずれたのか?
いや、違うぞ。
これは、こぶしだ。
とても大きいが、にぎりしめられた人の手だ。
龍郎はビックリしながらも、無意識に体を地面スレスレまで水平にさげた。
頭のすぐ上をこぶしがつきぬけていった。
「我はイポス。未来を告げる。おまえは一つ数えるのちに裏切りを知る!」
「ウルサイぞ。イポス!」
怒鳴りかえしたのは、ソロモン老人だ。
いや、もう老人ではない。その姿はじょじょに変化し、真紅の甲冑をまとう黒髪の青年になっていた。瞳も燃えるように赤い。血の赤だ。
「ベリト! 思いだした。ウソつきの騎士で拷問と虐殺をつかさどる悪魔!」
それだけではない。
たしか……たしか、そう。
ベリトは堕天使だと言われることもある。堕天する前は智天使の君主だったと……。
「惜しい。惜しい。もう少しで苦痛の玉と快楽の玉が手に入るところだったのに」
「おれをだましたかのか?」
「だます? おれは待っていたんだ。ずっと。まさか本当に現れるとは思わなかった。アスモデウスのしでかしたことの責任をとらされる形で、おれは奈落の底に追放された。長かった。この年月。気が遠くなるほど待ち続けた。ヤツが現れるなんていうのは、おれに一筋の希望をいだかせ、それが打ちくだかれたときに、よりいっそうの苦しみを与えるためだけの妄言ではないかとすら考えた。だが、じっさいに言われたとおりだった。ここで待ち続ければ、いつの日にか必ず、苦痛の玉と快楽の玉を持つ者が現れると。それを奪取し得れば、おれはまた智天使として返り咲くことができる」
わめきながら、ベリトはつかみかかってくる。
こっちは青蘭をかかえたままだ。
テーブルを利用して円を描くようにあとずさり、なんとかかわすが反撃できない。
(要するに、こいつ、アスモデウスの直属の上司か。天界にも上下関係があるんだな)
ベリトは怒り狂っている。
とうに正気ではないのかもしれない。
整った顔だが、目は焦点が定まらず、変な薬でもやっているように泡をふいてヨダレをたらしている。
「教えてくれ! ベリト。じゃあ、アスモデウスが天界から快楽の玉を盗んだのは真実なんだな?」
「彼が盗んだのは英雄の卵だ」
「英雄の卵? それは快楽の玉や苦痛の玉とは別のものなのか?」
「二つの玉が一つになるとき、天使の卵になる」
それは最初に出会ったころから、青蘭が言っていた。苦痛の玉と快楽の玉が一つになると、命の玉になると。
そして、二つの玉の本来の力を発揮する、と。
また、青蘭はこうも言っていた。
天使はつがいになると、たがいの心臓を重ねる。それが天使の卵だ、と。
(苦痛の玉と快楽の玉が一つになると、新たな天使の命を生む卵になるってことか? 苦痛の玉と快楽の玉は、天使の心臓だったもの……? アスモデウスはそれを盗んだ?)
ベリトは天井の鍾乳石をへし折り、それを槍のようにして、龍郎をつき殺そうとする。
後退してよけながら、龍郎の頭はフル回転だ。
「英雄の卵とはなんだ? 天使の卵とは違うのか?」
だが、もうベリトは答えない。
ゆがんだ表情で襲いかかってくる。
身長差があるから、上からふりおろされる一撃の破壊力が高い。ベリトがにぎった鍾乳石を叩きつけると、床にボコボコ穴があき、鍾乳石じたいも粉砕された。岩石がとびちり、石つぶての雨が降る。そのたびに新しい鍾乳石を折りとり、ベリトは襲撃の手をゆるめない。
もう逃げきれない。
このまま逃げ続けていても、いつかは、やられる。それも早い段階で。
ベリトからは過去に起きた真相について、もっと聞きだしたかった。が、もはや彼の狂気は止められない。
龍郎は意をかためた。
つかのま、青蘭を地面によこたえる。
その前に立ち、右手に意思をこめた。青い刀身が浮かびあがる。
いつもの大上段からふりかぶる薬丸自顕流では、龍郎より遥かに背の高い巨人を打ちおろすことはできない。
だが、これまでも何度も魔を滅してきた退魔の剣をにぎりしめた瞬間、体が勝手に動いた。
地面スレスレにスライディングし、勢いに乗せて剣をつきだす。手ごたえとともに、ウゲェと悲鳴があがる。そのまま、よこになぎはらった。噴水のように真っ黒な血が舞いあがる。
ベリトの体はななめにかしいだ。片足の足首からさきがなくなっている。
ヒイヒイとあえぎながら、地面に倒れるベリトをのぞきこみ、龍郎は剣をふりあげた。
ベリトは懇願してきた。
「……頼む。心臓だけは壊さないでくれ。お願いだ。心臓だけは」
「なぜ?」
「体が朽ちても、心臓さえ残っていれば、天使は蘇ることができる」
龍郎はベリト自身が地面にあけた穴のなかに、ドクドクと流れこむ彼の血をながめた。
「答えろ。天使の血は何色だ?」
「赤だよ。当然だろう?」
「ではもう、おまえは天使ではない」
ベリトの心臓の位置が外から見ただけでわかった。人間は左胸だが、天使は胸の中心にある。かつては澄んだ光を放っていたのだろう楕円形の物体が、濁って淀んだ沼のような色で鈍く脈打っている。
「我はイポス。
イポスが叫んだときには、龍郎の手は止まらなくなっていた。
刀身がまっすぐ、ベリトの胸のまんなかに吸いこまれる——
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