第2話 魔界行 その七
てっきり、老人と自分のほかは無人だと思っていた。
だが、よく見れば、洞窟の岩壁ぞいに、たくさんの牢がある。石筍のかたまりにすぎないと思っていたものが、なかは空洞になっていて、ごく小さな鳥みたいな悪魔がクチバシを出していた。天井からつりさげられたカゴのような牢屋もある。
「敗戦の将って、こんなにいるのか」
「大戦だったからな。負け戦を喫した者も多い」
以前、幻視のなかで見た大戦。
あのときの幻には、ひじょうに重要なヒントが隠されていた。
それがなんだったのか思いだせない。
しかし今はそれどころじゃない。
とにかく、逃げださなければ、ヘカトンケイルがやってくる。
「全部、牢から出すってわけには——」
「愚かなことを言うでない。やつらは旧支配者側に寝返った者どもぞ。戒めを解けば、人の世をかきまわそう」
それもそうだ。
人間が悪魔と認識している者たちは、どちらかと言えば精霊と呼んだほうがいいようだ。大地の力が凝縮して生まれた、なかば霊的なもの。
とは言え、そのすべてが人間から見て善であるとは言いがたい。
とにかくこの場から遠ざかろうと走りだしたとき、天井からつるされた牛の面をかぶった魔神が声高に叫んだ。
「そいつを信用するのか? そいつはベリトだぞ」
ベリト?
どこかで聞いたことがある。
龍郎の持つ悪魔や天使やクトゥルフの邪神たちの知識は、ほとんどがネットで調べたものだ。
青蘭と出会って、そういうものと戦うようになったあと、急遽つめこんだ、まにあわせの知識でしかない。
全部はとても覚えきれていないし、その情報源じたいが間違っていることだってある。
ベリト……たしか、魔王の名前だったろうか?
しかし、当人はソロモンだと名乗った。
龍郎は迷ったが、とりあえず逃げだすことを先決にした。
それにしても、これだけ騒げば番人が来ると、なぜ、彼らは考えないのだろう。冷静なら、ひっそりと逃げだすために声をひそめ、チャンスを確実にする。
それができないほど、精神性を破壊されているのかもしれない。
人間だって真っ白な何もない一室に一人で監禁されれば、すぐに変調をきたすという。彼らはそれより遥かに長い歳月、幽閉されているのだ。魔物とは言え、この静かな拷問はキツイのだろう。
「こっちだ。ここから別の穴に行ける」と、老人は手招きした。
石筍に隠れて見えにくいが、岩壁に穴がある。その奥にもトンネルが続いている。龍郎が通るには腰をかがめれば充分だが、老人がくぐりぬけるには四つんばいにならなければならない。
よく見つけたなと龍郎は思った。
ずっと前から逃亡するときのために目をつけていたのだろうか。
ドシン、ドシンとあの足音が近づいてきていた。
龍郎は考えるいとまもなく、その穴に入っていった。
青蘭をかかえているから全速力というわけにはいかないが、どうにかヘカトンケイルがやってくるまでに、七、八メートルは離れることができた。
ここもヒカリゴケのようなもので青く発光している。
しかし、進むうちに龍郎は気づいてしまった。
妙にザワザワうねると思えば、それは虫だ。体長一センチほどの糸みたいな虫が無数に岩に張りつき、あわく光っている。大量の虫の巣だ。
そこそこ気味悪い。が、魔界だから、こんなものかと龍郎はあきらめた。
枝道はだんだん先細りになってくる。
ほんとに別の洞窟に通じているのだろうか?
龍郎が心配になっていると、とうとつに目の前がひらけた。
丸いテーブルのような岩が中央にある空間。天井が高く、広さは十二畳ていど。岩窟であることに変わりはないが、小さな窓のような切りこみが多数あり、部屋のように見えなくもない。
テーブルの上にライオンが寝ころんでいた。異形の獅子だ。頭部と足はガチョウのそれで、尻尾が丸いウサギ。背中に小さな羽もある。よこたわっていても、頭が天井につかえそうだ。
ライオンは龍郎を見ると、人語を話した。
「予言しよう。おまえはおまえの時間で五つ数えるうちに死ぬ」
五つ……五秒ということだろうか? あるいは五分? いや、五分を認識するには三百も数えなければならない。やはり、五秒だろう。
それはつまり、このライオンに五秒後、襲われるということか?
わけのわからないヤツが次々と出てくるなぁ、さすが地獄の底だと、龍郎はため息をついた。
「我はイポス。過去と未来を告げる者。いや、しかし、おまえの未来は……」
ライオンはブツブツ言いながら目をとじて瞑想を始める。
五秒はとっくに経過している気がするが、とくに何も起こらない。
ライオンにも龍郎をどうにかするつもりはないようだ。
安心して、そこから進む道を探した。
そのときだ。
急に背後からブンッと風を切る音が聞こえた。風圧が背中をなでる。
ふりむくと、すぐそばに岩石のようなものが迫っていた。
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