第1話 夏の夜の夢 その三



 龍郎の背後に女が立っていた。

 三十代くらいの美しい女だ。


 金の縁飾りのついた黒いドレスを着ている。ストマッカーという胸部を覆う三角形の飾り部分には白いレースがふんだんにあしらわれ、真珠が縫いつけられていた。喉元には、赤いリボンのチョーカーが目をひく。


 そして、髪はリボンと同じほど燃えるように赤い。カツラのようではない。


「あれほど美しいのですもの。さらわれてもしかたないわ。彼女は仮面で顔を隠しておくべきだった」


 変なことを言う女だ。

 彼女には、あれが見えているのだろうか?


「あの……?」


 そこへ、警備員がやってくる。

 しかし、女が手をあげて、「わたくしの知りあいよ。あっちへ行っていなさい」と言うと、男たちは黙ってひきさがった。


「あなたは?」

「マダム・グレモリー」

「マダム。おれの恋人がさらわれそうなんだ。どうしたらいいですか?」

「よくごらんなさい。彼らは庭に出たようよ」

「庭?」


 あわてて鏡を見なおすと、たしかにシャンデリアや彫像や多くの天井画などで装飾された鏡の廊下の景色の奥に、庭園が見える。小さく豆粒のように遠くなっていく青蘭と、青蘭を拉致した獣たちは、その庭園のなかへ入りこんでいった。


「庭園か!」


 龍郎は庭園をめざして走った。

 庭園は夏の週末、ライトアップされるらしいのだが、今夜は暗いままだ。


 迷路のように広い中庭を走っていると、オブジェのように刈りこまれた茂みのなかで、ちらりと青蘭のベビーピンクのドレスが見えた。

 だが、そこまで辿りつくと、すでに姿はない。さらにさきの薔薇のアーチの奥にその姿がある。


「青蘭!」


 いつのまにか、龍郎のかたわらに女がいた。仮面をつけた、あの男装の麗人だ。


「おい、あんた! 青蘭をどうする気だ!」


 龍郎がつかみかかると、女はふくよかな唇で笑みを刻んだ。


「あいつから強烈な匂いがする。胸狂おしくなるような甘い香り。あの子をちょうだいよ」

「冗談じゃない!」

「血だよ。わたしたちに足りないのは血なんだよ。かつては毎日、何百人もの人間が断頭台の餌食になった。あのころが懐かしいんだ」


 笑いながら、女は仮面を外した。

 仮面の下は獣の顔だ。

 獣毛に覆われ、狐の目が光っている。目元から下だけが人間の女だ。


今宵こよいは宴だ。あのころのように踊り狂おう!」


 女が哄笑こうしょうをあげる。

 それを合図にしたように、龍郎のまわりに熊や羊やウサギやイヌワシの顔をした貴族スタイルの獣が現れ、輪になって踊った。


「どけよ! おれは青蘭のところに行くんだ!」


 獣たちを押しのけると、ジュッと獣毛の焼ける匂いがする。龍郎の右手のなかにある苦痛の玉の威力だ。


(やっぱり、こいつら、悪魔だ。低級なヤツらだな)


 宮殿には、そこを生活の舞台として生きた人々の思いがしみついているようだった。栄光のなかで贅沢をきわめて人生を満喫した者もあれば、足元をすくわれ失脚した者もいるだろう。

 そんな過去の幻影が渦巻いている。


 幻の折り重なるその最奥に、青蘭の姿があった。両側から腕をつかまれて、断頭台のもとへいざなわれていく。


「青蘭! 青蘭ー!」


 龍郎は必死に走るが、青蘭までの距離が遠い。空間がニュルニュルと伸びて、龍郎が一歩進むたびに、青蘭は十歩も遠ざかっていくようだ。


 たくさんの獣を焼き払いながら、麗しの姫君のもとへ、懸命に駆ける。


 すると急に、パリンと空間に亀裂が入った。ガラスが砕ける音がして、龍郎はいっきに青蘭の目の前に迫った。


「青蘭!」


 急いで腕をつかむと、青蘭が目をあける。


「龍郎さん……」

「頼むよ。どこへも行かないでくれ」


 龍郎は青蘭の手をにぎり、右手をかかげる。

 まぶしい光があたり一帯を照らす。

 獣たちは笑いながら光のなかに消えた。


 庭園のなかには、龍郎と青蘭が二人だけで立っている。


「ごめんなさい。また、さらわれちゃった」

「ほんと、青蘭はおれに心配ばっかりさせるね」

「わざとじゃないんだよ?」

「わざとだったら怒るよ」


 木陰で、艶っぽいつけぼくろを描いた青蘭のおもてを見つめていると、安堵と愛しさで胸がいっぱいになった。

 夜気に花の香りが漂う。

 龍郎は青蘭の肩を抱き、そっと唇をかさねた。


 そのあと、宮殿の建物のなかに戻った。青蘭の祖父の愛人を見つけ、あわよくばアンドロマリウスの影武者に会う、という目的が、まだ達成されていない。


 でも、龍郎にはもうわかっていた。

 さっき、空間が裂け、青蘭のもとへ辿りつくことができたとき、誰かが魔法で助けてくれた。


 龍郎はその人の前に立った。


「あなたが、アリアドネ・ホイッスラーですね?」


 彼女は扇で口元をかくして笑う。


「それも、わたくしの名前の一つね」


 あの女だ。

 龍郎に青蘭の居場所を教えてくれた、黒いドレスの美女。


「マダム・グレモリー。あなたはいったい、何者ですか?」

「わたくし? わたくしはね——」

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