第1話 夏の夜の夢 その四



 マダム・グレモリーは謎めいた微笑を浮かべ、龍郎を見つめる。

 それにしても、この婦人はいったい何歳なのだろうか?

 三十年前の写真のとき、すでに三十代だった。今は舞踏会用の派手な化粧をしているとは言え、三十七、八より上には見えない。年齢不詳の美人だ。いっそ、ほんとは千年も生きてきたのよと言われても信じられる。


「わたくしはね。悪魔。魔王と言ったほうがいいかしら?」


 彼女は扇で口元をかくし、くすくすと笑った。


 これまでにも魔王に遭遇したことはある。以前、馬の姿をしたガミジンという魔王を倒した。そもそも、アンドロマリウスじたいが魔王だ。


 しかし、マダムからは邪悪な気配が感じられない。精霊の女王のような高貴で澄んだ空気をまとっていた。もちろん、怒りにふれれば何が起こるかわからないが、存在じたいが邪悪というふうには思えない。


「とうぜんよ」と、マダムは言った。

「もうわかっているはずよ。龍郎。魔王だとか魔神だとか言われているのは、人間が勝手にそう呼んでいるだけなのだと。わたくしたちは人間が生まれるより遥か以前から、地球ここに生まれ、生きてきた。わたくしたちの持つ力を恐れる人間が、時代によって、わたくしたちを神と呼んだり、悪魔と呼んだりしたの。ただ、それだけ」


 龍郎は意を決して尋ねる。


「あなたが青蘭の祖父、アーサー・マスコーヴィルの愛人だったという噂を聞きました。青蘭の祖父は、おそらく、あなたもご存知のように、アンドロマリウスだ。あなたが魔王だというなら、その噂も信憑性しんぴょうせいが増してくる。噂は真実ですか?」


 さっきまで大勢の人間がさんざめき、楽しげに踊っていたはずの宮殿のなかが、急に無人のように静まりかえった。バロックスタイルの人々の姿は目に映るものの、どこか遠い。薄皮一枚へだてた違う世界のことのように思える。マダムの結界のなかに入ったのかもしれない。


「アンドロマリウスとわたくしは、ただの昔なじみよ。戦友でもあるのかしら。懐かしい時代をともに生きてきたのだもの。ときには昔話もしたくなるでしょ?」


「愛人ではないが親しかった、ということですね?」

「そう。親しかった」

「彼に最後に会ったのは、いつですか?」

「どうして?」

「彼はアスモデウスを復活させようとして、怪しい実験をしていた。それについて、何か聞いたことがあるのではないかと思ったんですが」


 ふふふ、と笑いながら、マダムは鏡に映る龍郎たちの……青蘭の姿をながめた。かなり長いあいだ見分していた。


「やっぱり美しいわね。アンドロマリウスが夢中になるのもわかるわ」

「アンドロマリウスから話を聞いているんですね?」

「いいえ。わたくしは知らない」


 龍郎はため息をついた。

 マダムが真実を語っているのか、判断する材料がない。一見、禍々しくは見えないが、彼女が魔神であることにはかわりがない。人とは感性が異なるのだ。


「青蘭の祖父が生きているという噂があるんです。あなたはここで彼と会うつもりだという話ですが」

「それは違うわ。ここへ来たのは別の昔なじみと会うためよ」

「誰に?」


 マダムの口から、思いがけない名前が洩れる。


「フォラス」


 フォラス——つい最近、聞いたことがある。龍郎は記憶をひっくりかえし、その答えに行きついた。


「フォラスはアンドロマリウスの実験に協力していた。でも、彼もまた死んだはずだ。彼は柿谷という名前で人間に化けて、青蘭の主治医をしていた。おれと青蘭で、やつを滅ぼした」


「それは本当に本物のフォラスだったのかしら?」

「というと?」

「フォラスはよく自分の部下に実験の手伝いをさせていたわ。フォラスは昔から知的な研究が大好きだった。錬金術とか、天文学とかね」

「じゃあ、おれたちが倒した柿谷山羊は、フォラス自身ではなかったってことですか?」

「ほら、ごらんなさい。フォラスは山羊じゃないわ」

「そうなんですか」


 アンドロマリウスの本性は海蛇だ。

 悪魔は人に化けたり、人以外の生き物に化けたりするが、それが彼らの生まれたままの姿ではないらしい。

 本性の姿だけは偽ることができない。

 山羊の男が彼の手下にすぎなかったのなら、フォラスはまだ生きている。


「もしかして、このごろ見かけられている青蘭の祖父は、フォラスが化けているんですか?」

「それはフォラス自身に聞いて。わたくしは知らない」

「では、フォラスに会わせてください。ここへ来ているんでしょう?」


 マダムは深遠な瞳で黙りこむ。

 しばらくして、ようやく口をひらいたときには、

「フォラスの気配は消えたわ。あなたがたがいるので、去ったようね」と言った。


 せっかく、パリくんだりまで来たのに残念だ。


「フォラスに会うことはできませんか? 彼ならアンドロマリウスの実験のことも詳しく知っている」


 マダムは急に悪魔らしい危険な目つきをなげてきた。


「フォラスに会いたいのなら、魔界へ行くしかないわね」

「魔界……」


 以前、ルリム・シャイコースというクトゥルフの邪神が魔術で作った世界へ行ったことがある。現実の世界とは異なる宇宙に存在する巨大な結界みたいなものだった。

 きっと、悪魔たちの巣食う魔界もそういうものなのだろう。


 マダムは龍郎の思考を読んだように、うなずく。


「そうよ。地球上には人間がウヨウヨいて、わたくしたちには住みづらくなってしまった。だから、同胞の作る結界をつなぎあわせて、大きな一つの世界を築いたの。それが、魔界。たくさんのシャボン玉が真珠の首飾りのようにつながっている。どう? 行ってみる? ただし、危険よ。どのシャボン玉のなかにも、そこを統べる魔王がいる。それに、彼女の匂いは上級下級問わず、つねに悪魔たちを惹きつける」


 それは、そうだろう。

 人間界にいてさえ、こんなにもしょっちゅう、さらわれるのに、その世界の住人すべてが敵にまわる、ということだ。


 龍郎は迷って、青蘭を見た。

 青蘭は断言した。


「行こうよ。龍郎さん。このまま、アンドロマリウスと契約をかわし続けていれば、いつか僕が僕でなくなる。そのとき、僕はあなたのことを忘れてしまうかもしれない。そんなのはイヤだ」


 青蘭が青蘭でなくなる。

 それは龍郎だって、イヤだ。


「魔界へ行く。マダム。案内を頼めるだろうか?」


 マダムはチェシャ猫のように微笑んだ。




 了

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