第7話 ロバは愚か者 その二
猛毒入りかもしれない。
あるいは睡眠薬のような。
しかし、彼女が自分を信用しろと試しているのなら、態度で示すしかない。この地獄の底からぬけだすためには、それしかないのだ。
愚かな行為だったかもしれないが、龍郎は賭けてみた。
真っ赤なスープを流しこんだとたんに、喉の奥が熱くなった。焼けるようだ。体じゅうがほてって、ゆだるように汗がふきだしてくる。
やっぱり毒だったのだろうか?
だまされたのか?
だとしたら、なんて単純な男だろうと、彼女はほくそ笑んでいるだろう。
老婆の姿をした彼女は、ニヤニヤと笑っている。
龍郎はカラになった器を老婆に手渡した。
「……グレモリー、あなたですね?」
問いただすと、老婆は笑いながらその姿を変化させていった。
ソーセージみたいに長い鼻が縮み、しわだらけの皮膚に張りができ、ぬけていた歯もキレイに生えそろう。まがっていた腰がまっすぐになり、身長が伸びた。ボサボサの白髪がツヤのある赤毛に変わる。
数分ののちには、薄汚い老醜のかげもない妖艶な美女になっていた。
マダム・グレモリーが黒いドレスをまとって立っている。
「安心なさい。そのスープはフォラスに教えてもらった滋養強壮剤よ。疲労が回復するわ」
たしかに体の熱がひくと、これまでの疲れが嘘みたいに薄らいだ。
「おれがあなたを信頼しなければ、おれたちを見捨てるつもりだった。違いますか?」
「さあ、どうかしら」
「レラジェに命じて、おれたちを殺そうとしたのは、あなたではありませんか?」
「わたくしはそんな無粋なことはしないわ」
「ほんとに?」
「やるなら自分の手でするもの」
まあ、マダムにはそれだけの力はあるだろう。
でも、それなら、レラジェを送りこんできたのは誰だというのか?
「だけど、あなたが我々にまったく害意がないわけじゃない。アスモデウスの体を魔界へ運んできて、タルタロスに放りこんだのは、あなたじゃありませんか?」
グレモリーは黙りこんだ。
くるりと背をむける。
「龍郎さん。退魔しちゃおうよ」と、ささやく青蘭を龍郎は手で制した。
「アスモデウスが憎かったんですか?」
背中をむけたまま、グレモリーは答える。
「そうね。リンボの底で溶けてしまえばいいと思ったわ。器でしかないものなのに、それでもまだ、あの人を惑わせる。きれいさっぱり消えてしまえば、清々するでしょ?」
「あなたは、アンドロマリウスのことを……」
龍郎の言葉をさえぎるように、グレモリーはふりかえる。
「そのさきは言わないで。あなたに優しさがあるのなら」
悪魔に優しさを求められるとは思わなかった。もちろん、龍郎は口をつぐんだが。
「じゃあ、おれたちをタルタロスに落としたのも、そのせいですか? 青蘭がアスモデウスの生まれ変わりだから?」
「…………」
グレモリーは暗い目つきで、龍郎と青蘭を等分に見つめる。
「あなたがたの知りたがっていたことを教えてあげただけよ」
「たしかに多くのことがわかりましたが……」
でも、何かが違う。
それだけのことなら、話して聞かせてくれたってよかったはずだ。
「あなたはアンドロマリウスの実験の内容を知っていたんだ。実験が完遂したとき、どうなるのか。だから——」
「だから?」
「おれと青蘭に、魔界にいるうちに、なるべく多くの魔王を倒させようとした。アンドロマリウスの実験を成功させるために。そうなんですね?」
今度は正解だったようだ。
グレモリーは華やいだ笑顔で応えてきた。
「だって、あの人が自分の存在を無にしてまで成しとげようとしたことよ? 実らせてあげたいじゃない」
女というのは、なんて愚かなんだと龍郎は思った。とくに恋する女は。
自分にはなんの得もないのに、むしろ、アンドロマリウスの実験が成功すれば自分がより悲しい思いをするだけだとわかっているのに、それを助勢しようとする。
いや、恋の前には男も女も関係ない。
みんな、愚かしい。
人間も、悪魔も同じ。
アンドロマリウスだって自分にとって得るものはないとわかっていて、天使のアスモデウスを復活させようとしている。
恋は盲目。
より愚かになれたほうが幸福なのかもしれない。
「……じゃあ、もう満足していただけましたか? ベリト、イポス、ブネを倒して飲みこんだ。魔王を三柱。なかなかの数でしょう?」
「あら、残念。レラジェは倒さなかったの? 追ってきたと言ったのに」
「レラジェはヘカトンケイルに食われた」
「あらあら、だらしないこと」
グレモリーはそう言って、手を叩いた。パンパンと、召使いを呼ぶ仕草だ。
すると部屋のかたすみの闇のなかから、何かが現れた。とても大きな獣だ。
室内のおもな光源は、ガブリエルの放つ後光だ。部屋のすみずみまで照らせるわけではない。獣の姿も闇のなかに溶けている。
獣が歩みよるたびに、金属の音がした。聞いたことのある音だ。それも、ついさっきまで……。
(えっ? まさか……?)
龍郎は闇を透かし見ようと、目をこらした。
獣の姿が、じょじょにあきらかになってくる。
勘違いではない。
それは、無限階段で置き去りになったはずの、あの翼のある狼だった。
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