第10話 毒公女 その四
魔界の三強。
もとはオリエント一帯で崇められた女神。
だからこそ、その存在はとてつもなく極大なのだ。
人の前にその姿の全容を現すことなど、土台、不可能。
あばれまわる大蛇の攻撃をかわしつつ、地面に刃を立て続ける。大きく切り裂くと血が噴水のように湧きあがり、血の柱を作った。強い毒の匂いが立ちこめる。
あのめまいが強くなる。
意識がとんでしまいそうだ。
地面を刺す攻撃は効いているが、すぐに致命傷には結びついていない。
これでは毒ガスを吸って、龍郎たちの倒れるほうが早い。
青蘭の声が響いた。
「アンドロマリウス。契約だ!」
アンドロマリウスの力で戦うつもりだ。たしかに、アンドロマリウスの力を借りれば、この巨大な魔王の肉体でも、いっきに粉砕できるかもしれない。
しかし、それをすれば、青蘭はまた身体の一部を失ってしまう。
青蘭が青蘭でなくなる日が、いっそう近づいてしまう。
「ダメだ! 青蘭——」
青蘭が龍郎をかえりみる。
そのおもてには、龍郎がこれまで見たことがないような笑みが刻まれていた。
天使の微笑だ。
青蘭はアスモデウスとしての記憶をとりもどしつつある。
そんな予感がした。
「アンドロマリウス。契約だ。魔王アスタロトを倒せ」
だが、そのときだ。
肉壁が鳴動した。
龍郎のせいではない。
外から激しく叩かれているかのように振動がつきあげてくる。
「なんだ? いったい……」
「龍郎さん。誰かがこの結界をやぶろうとしている」
「結界をやぶるって? そんなことできるやつがいるのか?」
「天使ならできる」
そうだった。
天使などの翼を持つ者だ。
次元を飛翔し、異界から異界へ飛ぶことが可能な者。
(天使? ガブリエルかな? 途中でいなくなったけど)
ドン! ドン! ドン!
肉壁が揺れる。
龍郎たちが立っていられないほどだ。
この感じ、ガブリエルが無限階段をやぶって侵入してきたときに似ている。
まちがいなく、すぐそばまで飛翔できる何者かが来ている。
大蛇が苦しみ悶え、攻撃がやんでいる。そのすきに、龍郎は脈打つ壁を退魔の剣で切りつけた。
結界の向こうとこっちで、同時に次元の壁を裂く。その波長が重なった瞬間、肉壁がつきやぶられた。無限階段のときのように空間が崩れ、別の世界とつながる。
てっきりガブリエルの仕業だと思っていたのに、違っていた。
そこにいたのは、マルコシアスだ。
翼のある狼が、一直線に魔王に向かって飛んでいく。勢いをつけて、アスタロトの顔面に体当たりした。
ガラガラと音を立て、石像のように魔王の顔が崩れる。美しい青蘭のおもてが、醜い怪物の体から消え、ただヒビ割れ、顔をえぐりとられた穴だけが残る。
「見るな! 見るなァーッ!」
アスタロトは蛇になった両腕で無貌の顔を隠そうとする。致命傷ではないはずなのに、戦うことより隠すことを優先した。彼女にとって、“顔のない顔”を見られることは死よりも恥ずかしいことなのかもしれない。
「そう言えば、まだ一度もアスタロトのほんとの顔を見てないな。ずっと青蘭の顔をマネしていた」
青蘭は哀れむような目で、魔界の大公爵をながめる。
「顔はないんだよ。彼女は異教徒によって神性を奪われた。異教徒が神殿を破壊するとき、必ず、神の像の顔をけずる。そうすることで、神は名を失い、忘れ去られる」
顔をなくした女神。
失われた神性。
きっと美しい女神だったのだろうに、女であれば何よりも残酷な仕打ちだ。
青蘭はささやくような声で告げた。
「女神イシュタル。もう一度、美貌が欲しいんだな? それなら、僕と一つになれ。快楽の玉のなかで。そうすれば、艶麗なおもての天使に生まれ変われる」
アスタロトの答えはなかった。
だが、蛇の腕で覆った下から、ひとすじ涙がすべりおちた。
アスタロトは自らの存在を終わらせたのだろう。光の粒となり、青蘭の口中に飲みこまれていく。
大地を作っていた存在がいなくなったのだ。空間が消滅し、世界が失われる。瓦解の時だ。
「君たちのやることは、いつもめちゃくちゃだな」
ガブリエルだ。マルコシアスを追ってきたのだ。どうやら、ずっと追いかけっこを続けていたらしい。
ガブリエルは龍郎の腕をつかみ、崩落から助けてくれた。青蘭はマルコシアスが背中に乗せる。
「どこへ行くんだ?」
「ここからもっとも近い結界に避難する」
「フォラスの実験室かな?」
「こっちだ」
ガブリエルが道先案内人となり、暗い無の空間を飛んでいく。
宇宙のような、そうでもないような、海の底のようでもあり……。
嵐のごとき時間流のなかを、ガブリエルは力強く飛翔する。
はるか彼方に光が見えた。
あれが次の結界か?
「ゲートを渡る。龍郎、しっかりつかまって。マルコシアス、おまえもあやまたず、ついてこい」
光の輪が大きくなる。
ぐんぐん、ぐんぐん、近づいてくる。
結界をくぐる——
フォラスの実験室から来たので、そこがもっとも近いのだろうと考えたのだが、そうではなかったのだろうか?
ドサドサっと一同で倒れこんだとき、そこはあまりにも場違いなところだった。
「あれ? ここは……」
「ねえ、龍郎さん。もしかして現実に帰ったのかな?」
「うーん……」
ガブリエルが人間の姿に戻っている。自分の姿を見おろして、ガブリエルがうなずいた。
「どうやら、勢いあまって、フォラスの結界をつきぬけてきたようだ」
しかし、でもそれなら、なぜ、ここに出たのか?
せまい六畳間の和室。
龍郎が以前、借りていたワンルームのアパートだ。引っ越したあと、ある人物が入れかわりで、そこに住むようになった。
その人物が、ゴチャッとひとかたまりに畳の上に落ちた龍郎たちをながめている。
「君たち、なんだね? 困るじゃないか。入るんなら玄関から来なさい。天井から降ってくるなんて、他人に見られたらどうするんだ?」
あぜんとして、龍郎は返事もできない。
なにしろ、目の前にいたのは、知人の考古学者、穂村だったから……。
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