第7話 アクちゃん

 季節はさらに巡り、霧沢亜久斗、三十歳の年も紅葉の秋となった。

 古都京都を囲む山々もすっかり彩りを増し、その色合いはさらに深くなる。そんな時節にもなった十月の半ば、ルリから霧沢に一本の電話が掛かってきた。

 電話口の向こうから、ぽつりぽつりと話してくる。

 あれは春陽の四月のことだった。ジャズ喫茶店に霧沢君がひょっこりと現れた。再会できてとても懐かしく、また嬉しかった。

 しかし、その後花木宙蔵の事故死があり、友人として悲しく、やるせない気持ちの中で時は過ぎ去っていった。そして、もう秋ともなってしまった。


 ルリからの話しはこんな取り留めもない内容だった。だが霧沢は、きっとなにか辛いことがあるのだろうと思い、ルリを食事に誘った。

 そして、碧い秋の空が茜色に変わりつつあるそんな夕暮れ時に、霧沢は四条大橋でルリと待ち合わせをし、ルリに半年振りに会った。

 そこから先斗ぽんと町にある京会席料理店に行き、二人でゆったりとした夕食を取った。それは味善し、酒善し、会話も楽しいものだった。


 二人は充分満足し、今鴨川の川沿いの道を並んで歩いている。

 霧沢は学生時代のことを思い出す。あれは随分と昔のことだった。そう、それは大学三回生の頃のことだったと記憶している。

 あの時も東山にポンと淡黄たんこうの丸い月が上がっていた。そしてぼんやりとした月光が川面を照らしていた。

 霧沢はルリと並んで、ただただ無言で、四条大橋から今出川の賀茂大橋まで歩き続けた。ただそれだけのことだった。しかし霧沢は、今でもあの時の情景をよく憶えている。


 今夜もあの夜と同じように、東山の上に淡黄の月球げっきゅうが仄かに輝いている。そして二人は、こんなロマンチックな宵の幽光ゆうこうに包まれ、秋の夜風に吹かれながら悠々と歩を進めている。

「ねえ、霧沢君、……、あの時も、同じような風景だったわ」

 ルリも思い出したのか、切なそうに霧沢に声を掛ける。

「うん、そうだったかもな」

 霧沢には特に理由はないが、気のない言葉で返してしまった。そんな愛想のない返事、そのためなのかルリは黙り込み、二人の間に沈黙の時間が流れる。そしてその暫時の後に、ルリが沈黙を破って唐突に訊く。

「霧沢君、……、なぜなの?」


 しかし、霧沢は寡黙のままだ。ルリの目からはいつの間にか大粒の涙が。

 それらの涙は仄かな月の光りをその一粒一粒に詰め込み、輝きながらハラハラと零れ落ちていく。そして川面からの淡い反射光の中へと、それらはまるで真珠となり、吸い込まれる。

 ルリはそんな涙の愁いを、声に一杯滲ませながら、もう一度言葉を絞り出す。

「アクちゃん、なぜなの?」


 霧沢亜久斗の愛称はアクちゃん。だがルリは、今まで一度も霧沢のことをアクちゃんと呼んだことがない。霧沢が理解に苦しんでいると、ゆるゆると口にする。

「私、霧沢君のことを、いつもずっと、心の中では――、アクちゃんと呼んでたのよ」


 ルリの目にはまた大粒の涙が溢れ出る。それらはルリの過ぎ去っていった過去の闇を、キラキラとした輝きに変えていくかのようでもある。そして今という時の水の流れの中へと、それらはしずくとなり吸い込まれ、消えていく。

 美しい。

 霧沢は純粋にそう思った。


 霧沢は本当のところはルリが好きだった。だがそれ以上に、世界に羽ばたきたかった。そんな青臭い夢を見てしまっていたのだ。

 そのためか、ルリが言う「心の中では、アクちゃんと呼んでいたのよ」、その哀切な思いに気付くこともなかった。今、霧沢の胸に後悔が走る。

 そんな時に、ルリが短い言葉をぽつりと。

「キスして」


 それは切な過ぎる女心の発露か。

 その響きは早瀬の水音に今にも消されてしまいそう。

 しかし、それは今までのどんな言葉よりも重く、霧沢の心の奥底に何度もこだまする。


 霧沢は確かにジャズ喫茶店でルリと再会した。その時ルリは「霧沢君、残念でした、私にはちゃんと他に好きな人がいるわ、わかんないでしょ」と粋がっていた。そんなルリが今夜はしおらしい。そして「キスして」とまで渇求してくる。

 霧沢がルリのことがどれだけ好きだとしても、ルリとの縁は薄い。二人の間で、決して愛は結実しない。霧沢は学生時代からそう思っていた。

 なぜルリは、そんな言葉を発してしまったのだろうか?

 一体ルリに何があったのだろうか?

 霧沢は訳がわからなかった。しかし、そんなルリが愛おしく、冷静であるはずのルリへの想いが熱くなる。


 ルリをそっと引き寄せた。そして優しくルリを抱き締める。

 こうなってしまった二人には、もう言葉はいらない。

 出逢ってから十年以上の歳月が経ってしまっていた二人。霧沢は自分の唇を恐る恐るルリの唇へと重ねていった。そしてルリの唇を初めて奪った。

 それはぎこちなく、胸がきゅっと締め付けられるようなルリとのファーストキス。

 されども二人はもう学生時代の若い二人ではない。このファーストキスは、より深い大人の世界への単なる入口だったのだ。


 二人に、これを切っ掛けとして、欲情の火が点いてしまった。霧沢とルリは心の縛りを全部解き放つ。

 そこから鴨川の水の旋律に合わせるように、何回も何回もキスを繰り返す。それはまるで八年の空白の時の流れを、一つ一つ今埋め戻すかのように。

 そんな二人を、東山の淡黄の丸い月がいつまでも仄かに照らし続けている。


 だが霧沢とルリにとって、その程度のものでは物足りない。

 二人はもっと乱れてみたい。男と女の濡れた闇へと落ちていきたい。

 そんな愛欲に取り憑かれてしまったのだろうか。霧沢とルリはぴたりと身体を寄り添わせて、秋の夜の静寂しじまの中へと、その二つの肉体を消滅させていくのだった。



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