第20話 宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死の推理

 家族として共に暮らしてきた養女の愛莉は、滝川大輝のもとへと嫁いで行ってしまった。

 そして霧沢は仕事へと戻り、相変わらず多忙を窮めていた。

 しかし、会社生活は残り半年を切ってしまった。立つ鳥跡を濁さず、仕事の整理にも入った。

 そして年が明け、霧沢亜久斗は還暦の歳となった。それからあっと言う間に三月となり、その末日をもって、長年勤めてきた会社を定年退職した。


 四月に入ってまだ一週間も経たない春風駘蕩しゅんぷうたいとうな春の日に、妻のルリとともに三千院と寂光院一円を散策した。

 今、叡山電鉄で出町柳まで戻ってきた。そして賀茂大橋を渡っている。

 霧沢はその橋の真ん中でふと立ち止まり、北山に連なる山々の風景を眺め入る。

 そんな時に、横に寄り添っていたルリが「ねえ、あなた、これからどうするつもりなのよ? 絵でも一緒に描きましょうよ」と声を掛けてきた。それに対し霧沢は「絵を描く前に、ちょっと調べておきたいことがあるんだよなあ」とよし有り気に返した。

 ルリは「調べておきたいことって、逝ってしまった宙蔵さんと、それと洋子、そして桜子、それに光樹さんと沙那、この五人のことなのね、知り過ぎない方が良いこともあるのよ。あなた、それでもいいの?」と囁き返した。

 霧沢は「だけど、やっぱり調べてみるよ」と自分の意志をはっきりと伝えた。


 第二の人生は一週間前からすでに始まってしまっている。

 確かに勤務していた頃は、退職すれば学生時代に戻り、ルリと一緒に好きな絵でも描こうかと思っていた。

 しかしその前に、自分の気持ちに決着を付けておきたい。そうしなければ霧沢にとっての第二の人生が始まらないのだ。

 そして、その決着を付けておきたいこととは、今まで忙しくて深く考えることができなかった、またあえてそうして来なかった四つの出来事。


 すなわち一つ目は、花木宙蔵の『密室・消化器二酸化炭素・中毒死』。

 二つ目は、洋子の『クラブ内首吊り自殺』。

 そして三つ目は、桜子の『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』。

 最後の四つ目の出来事は、光樹と沙那の『画廊経営夫妻の周山街道・自動車落下事故』。


 これらの四つの出来事を振り返り、それらはどのようにして、そしてなぜ起こったのか、それぞれの手段や原因を自分なりに解明する。

 そして仲間七人の内五人が亡くなってしまったという事実、その根底に流れるものは何だったのか、それらについて結論付けをしておきたいと霧沢は思うのだった。

 そうしなければ、たとえルリが第二の人生へと誘ってくれても、霧沢は最初の一歩が踏み出せないのだ。

 退職後の今、もう思考する時間はたっぷりとある。霧沢は大原三千院の里村散策から戻り、早速順を追って考え始めた。


 まず、すべての不幸の発端となった花木宙蔵の事故死。

 振り返れば、それはもう三十年前の出来事となってしまっていた。

 そしてすでに警察では解決済み。また人たちの記憶からはもうすっかり消え去ってしまっている。

 しかし霧沢は、あの事故は本当に事故だったのかと、ずっと疑いを持ち続けてきた。

 まず図書館を訪ね、当時の新聞記事をもう一度読み直してみる。とにかくそんなところから始めた。


 その記事の内容では、花木宙蔵がマンションの密室内で事故死したと書かれてあった。

 死亡推定時刻は、深夜の午前二時から三時。

 死因は、花木宙蔵が寝室内で、寝煙草により起こしたボヤを消そうとし、そのために使用した二酸化炭素消化器のガスによる急性中毒死。


 第一発見者は、京藍の女将の妻である桜子とマンション管理人。

 桜子は朝八時にマンションを訪ね、室内からのボヤの残った異臭に気付き、管理人とともにドアチェーンが掛けられていた玄関ドアを破り室内へと入った。

 そして寝室で死亡している故人を発見する。

 そこには故人がボヤを消そうとした痕跡があった。

 捜査当局は、この出来事は密室内で起こったこと。

 また、関係者には午前二時から三時の間のアリバイが成立したこと。

 これらをもって、消化器使用による二酸化炭素急性中毒の事故死と断定した。


 しかし霧沢は思い出すのだ。宙蔵が事故死する十日ほど前のことだった。紫陽花の咲く三室戸寺を訪ねた時、ばったりと宙蔵に逢った。それから宙蔵に誘われてマンションにお邪魔した。

 その時、ドアチェーンが緩みガタついているのに霧沢は気付いた。

「おーい宙さん、ここんとこ緩んでるよ。すぐに直しておいた方が良いんじゃないか」と声を掛けると、「ああそうか、そこに道具箱があるだろ、その中にドライバーがあるから。それでちょっと締めておいてくれないか」と宙蔵に頼まれた。

 それですぐに下駄箱の上の道具箱からドライバーを取り出し、そのネジを思い切り締め込んだ。

 それを今でもしっかりと憶えている。


 しかし、事故死のあった朝、桜子は管理人と一緒にドアチェーンを引きちぎったと言う。

 二人が力を込めたとしても、ドアチェーンはそう簡単に壊れるものなのだろうか?

 事故から一週間後、霧沢は腑に落ちずマンションを訪ねた。

 その時管理人は「奥様にロープを持ってきてと言われてね、倉庫から持ってくると、ドアノブに括り付けられ、アナタも一緒にと言われてね、せいので引っ張り込んだんですわ、たまたまなんでしょうなあ、チェーンの先をはめ込む台座ごと外れましてね」と言っていた。

 今考えれば、まったく不思議な話しだ。あれだけ締め付けておいた台座、それごと外れるなんてあり得ないことなのだ。


 その他にも理解に苦しむことがある。

 たとえば宙蔵は商売柄油絵のオイルの臭いを嫌い、エアコンを付けても換気扇を回し続けていた。室内で消化器を使用したとしても、換気は良いはずだ。

 さらに管理人は「画廊を経営してはる滝川光樹さんが、展覧会に出展する花木さんの絵を取りに来ゃはりましてね」と言っていた。

 そしてその後、管理人は「友達の死を確認しておきたいんでっしゃろ、秘密にしておきますがな」と恩着せがましく囁き、室内へと案内してくれた。


 その時、下駄箱の上にあるはずの道具箱はもうどこかへ片付けられてしまっていた。

 そしてリビングには、1メートル角の大きなキャンバスが十枚ほど新たに置かれていた。

 霧沢はその時、「宙さんは紫陽花を描くと話していたのに、なぜこんな大きなキャンバスがいるのだろう」と首を傾げた。

 これを見て取って管理人は話してくれた。

「警察からこそっと聞いた話しなんですが、事故前の夜に、仏様と奥様がここで食事しゃはったらしいですわ。それが終わって、その夜の十時頃ですわ、滝川さんがそのキャンバスを届けに来やはったらしいでっせ」と。

 そして管理人は言い捨てた、最後に。

「どっちにしろでっせ、仏はんは密室で亡くならはったんやし、それに、みんな真夜中の二時三時には、完璧なアリバイがありまんがな、そうでっしゃろ」と。

 まさにその通りだった。


 密室と完璧なアリバイ、警察はこの二点が決め手となり事故死と結論付けた。

 だが霧沢は、こんな状況証拠を検証してきて、宙蔵は事故死ではなかったのではないかと疑った。

 そんな思いに至る一つは、宙蔵の死後、霧沢が洋子に呼び出された時に、洋子は「密室の出来事やったけど、多分、宙蔵さんは誰かに殺されたんよ。だってあの人、煙草は吸うけど、ベッドなんかで、一度も吸ったことなんかあらへんわ」と、無感情ではあったがそんなことを漏らしていた。


 霧沢はこのように過去のことを順番に振り返り、残念なことではあったが、宙蔵は妻の桜子に殺されたのだと仮定を置いてみた。

 果たしてこの密室殺人事件を、桜子が実行することは可能だったのだろうか?

 霧沢はこんな推理を一歩一歩進めて行くこととした。そしてまずその前提として、桜子の動機は何だったのだろうか、それを考え始めた。

 当時、すでに夫の宙蔵とクラブママの洋子との間に愛莉が生まれていた。

 洋子は「私、シングルマザーなんよ。パパは認知してやろうと約束してくれてはったのに、嘘吐かれちゃったわ」とやり切れなさそうに嘆いていた。

 気の良い宙蔵のことだから、きっと愛莉を認知しようとしていたのだろう。しかし当然のことだが、妻の桜子はそれを許さなかった。


 学生時代からプライドの高かった桜子、夫に愛人がいて、しかもそれが知り合いの洋子。その上に子供まで作ってしまった。

 桜子は夫に裏切られ、恨み辛みをきっと募らせて行ったのだろう。

 しかし、それだけではなかった。桜子は夫の浮気に対抗するかのように、滝川光樹との不倫の愛に溺れて行った。そして光樹との愛を実らせるためにも、老舗料亭・京藍を宙蔵から完全に奪い取ってしまおうと企んだのではなかろうか?

 こうして桜子は宙蔵と洋子を殺害することを決意した。そんな殺意を抱くまでに至ってしまったのだ。


 桜子にはこんな充分な動機があった。

 もしそうであるならば、宙蔵はどのようにして桜子に殺害されたのだろうか?

 宙蔵は六畳の部屋で、二酸化炭素の急性中毒で死亡したと言う。

 霧沢はいろいろと調べてみた。そして次のような推理に至ったのだ。


 死因となった二酸化炭素、その致死量は7%。

 六畳間の部屋の体積を40立米と仮定すると、二酸化炭素の致死量は2800リッターに相当する。

 その気体密度が大気圧下で0.00197g/cm3であるため、それは約5.5キログラムの重量に相当する。


 報告では、二酸化炭素の発生源は消化器となっている。

 だが、家庭用消化器は小さく、一本普通2キログラム以下。

 もし消化器により二酸化炭素が放出され中毒死をしたとするならば、少なくとも3本以上は必要だろう。

 しかし現場で使われていた消化器は二本だけだった。

 これでは死に至らない。

 そうであるならば、他に二酸化炭素を発生させるものはないだろうか?

 そう、それはドライアイスがある。


 ここで霧沢は、ドライアイスから昇華したガスで、宙蔵は死に至ったと想定してみた。

 もしそうならば、どのようにして5.5キログラム以上のドライアイスがマンション内へと持ち込まれたのだろうか。

 事故後、管理人とリビングに入った時、以前にはなかった40号の油絵キャンバスが壁に十枚ほどたらかされてあった。

 霧沢がそれらを見ていた時に、管理人が横から話してくれた。

 前夜の十時頃に、光樹がそれらを届けに来たと。

 その情報から推測すると、ドライアイスはどうも油絵キャンバスの裏に貼り付けられて、光樹によって運び込まれたのだと考えられる。

 霧沢が計算をしてみると、1メートル角の一枚のキャンバスの裏スペースに、約8キロから9キログラムのドライアイスを填め込むことができる。

 この計算値からすれば、致死量に至る5.5キログラムのドライアイスは一枚のキャンバスで充分だ。


 しかし、事実管理人とリビングに立ち入った時、そこには十枚のキャンバスがあった。

 それは多分、固体のドライアイスが気体の二酸化炭素へと昇華する時間、それが計算されていたと思われる。

 なぜなら、ドライアイスが昇華して行くには時間がかかる。

 その速度は遅い。


 1キログラムのドライアイスが昇華し、ガスになるためには四時間も掛かってしまう。

 5.5キログラムの塊のドライアイスなら、完全に昇華するには一日を越える時間が必要。桜子はそこまで計算したのだろう。

 さらに桜子は、二酸化炭素が空気より重いことを考慮し、致死量より約二倍の10キログラムのドライアイスを用意した。

 そして、その四時間の昇華時間を見積もって、10キログラムのドライアイスを1キログラムずつに小分けした。

 それら一つずつを十枚のキャンバスの裏に貼り付けた。

 そして、桜子は光樹にマンション内へと持ち込ませたのだ。


 霧沢はここまで推理してきて、朧気ではあるが宙蔵の事故死が読めてきたような気もしてきた。

 そしてその帰結として、霧沢は『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』を、桜子による密室殺人事件として、一つのシナリオを頭に描いてみるのだった。


 宙蔵がマンションにいると、夜の八時頃に桜子が訪ねて来る。

 そして、珍しく夕食を作ってくれた。

 久し振りに夫婦で酒も酌み交わす。

 しかし、宙蔵に睡魔が襲ってくる。そのため夜の十時前にベッドに入る。

 それは桜子が酒に睡眠薬を注入しておいたからだ。

 それにより宙蔵は六畳間の寝室で高いびきで熟睡してしまう。

 桜子はそれを確認してから、外で待つ光樹に連絡する。

 ドライアイスが前もって貼り付けられた十枚の油絵キャンパスを、光樹に運び入れてもらう。


 桜子と光樹は、その1キログラムずつに小分けされたドライアイスを、宙蔵が寝るベッドルームに持ち込む。

 そして、その部屋を完璧に密閉し、二人は夜の十一時頃にマンションから出る。

 その後、外のそれぞれの場所で過ごし、アリバイを作る。


 室内に置かれたその小分けされたドライアイスは、徐々に二酸化炭素へと昇華する。

 約四時間が経過し、夜の三時。算段した通り寝室内の二酸化炭素は充分に致死量に達する。

 このようにして、宙蔵は部屋内に充満した二酸化炭素で中毒死をした。

 そして死亡時刻は、桜子が目論んだ深夜の二時から三時となった。

 当然この時間帯には桜子も光樹も現場にはいなかった。

 二人には完璧なアリバイがある。

 またマンションのドアは桜子が立ち去った時のままで、その状態が保たれている。

 つまり、宙蔵が眠り続けて死に至ったため、ドアチェーンは外されたままだった。


 そして一夜が明け、朝となる。

 まず光樹が桜子から渡された鍵で、ドアを開け、マンション内へと入る。

 そして寝室に充満した二酸化炭素を換気扇等で抜き、宙蔵の死を確認する。またキャンバスをリビングへと片付ける。

 その後、宙蔵の事故死を装うために、寝煙草で起こるボヤを想定して、ベッドに火を点ける。

 光樹は自分で起こしたボヤを二酸化炭素消化器で消す。

 その後に玄関へと行き、ドアチェーンの台座のネジを緩める。そしてここで――、ドアチェーンを掛けておく。

 光樹は外で待つ桜子に準備万端と窓から合図を送り、玄関横のバスルームに隠れる。

 それから桜子がドアチェーンを引きちぎって入って来るのを待つ。


 しばらくの時間経過後に、桜子は管理人とともにドアを引っ張り、破る。

 それはいかにもドアチェーンがしっかりと掛けられているかのように、大袈裟に。

 この事により中は密室状態であることを強調する。

 結果、管理人にこの事実を強烈にインンプットし、その後マンション内へと共に入る。


 桜子と管理人の二人は真っすぐに寝室へと進み、死亡している宙蔵を発見する。

 そんな慌ててパニックな状況下で、隠れていた光樹は管理人に見付からないようにバスルームから出て来る。

 約束通り展覧会に出品する絵を取りに来たと言いながら、二人の手助けをする。

 これにより宙蔵は、偽装された通り密室内でボヤを起こし、その消化のために使った消化器の二酸化炭素で、夜の二時から三時頃に中毒死したことに――、なったのだ。


 霧沢はここまで推理し、今まで持ち続けてきた疑問が少し氷解してきたような気にもなった。

 しかし、桜子は兎も角として、良き友人であった滝川光樹。さらに言えば愛莉の夫・大輝の父でもある光樹。その光樹が推理の中では殺人に直接的に絡んでいたことになってしまった。

 それがなんとも言い尽くし難い残念なことであり、かつ忸怩じくじたる思いにも至ってしまった。


 だが霧沢はここで立ち止まってしまう訳にはいかない。この三十年間に起こった四つの出来事。とにかくその全貌が知りたい。

 もしそれらの謎解きがすべて終えることができたならば、その後にきっと人生にとって、何かとてつもなく貴重なことに出逢えるかも知れない、……、かもと。

 霧沢にはそんな予感が不思議にしてくるのだった。



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