第4話 花木宙蔵

 五月の黄金週間も終わり、三十歳の霧沢は心身ともリフレッシュさせ、いつもの仕事へと戻った。

 それから忙しい日々が続き、洋子の店を訪ねてからあっと言う間に六月中旬となってしまった。


 古都京都は梅雨の時節、むっと蒸す日が続く。そんな鬱陶しさを払拭ふっしょくするために、霧沢は一人宇治川近くにある三室戸寺みむろどじを訪ねてみた。


 夜もすがら 月をみむろと わけゆけば

 宇治の川瀬に たつは白波


 ここは千手観音を本尊とする西国十番札所の観音霊場であり、光仁天皇の精舎でもある。そしてまた京都の花寺の一つでもある。

 春の躑躅つつじ、初夏の紫陽花、夏の蓮、秋の紅葉と四季折々に庭園は美しく彩られる。特に六月の中旬ともなれば、花びらに雨のしずくを溜め、一万株の紫陽花がより淡淡あわあわと咲き乱れる。


 その日も雨だった。霧沢は傘を差しながらも、薄紫に染まる庭園をゆるゆると散策していた。

 傘を差せば、紫陽花に埋もれた通路は余計に狭くなる。そぼ降る六月の雨が、人をけると同時に傘からはみ出た肩を冷たく濡らす。霧沢はそれを特に気にすることもなく、ゆっくりと観て歩く。

 そんな途中で、一眼レフのカメラを手にしたひょろっと背の高い男とすれ違う。そしてその後、野郎がすぐさま声を掛けてきた。

「ひょっとしたら、霧沢……、霧沢亜久斗じゃないか?」

 霧沢は背後からの突然の呼び掛けに振り返る。そこにはじっと霧沢を睨むように、その野郎が突っ立っていた。霧沢は「どこかで会ったことがあるかなあ」と考えを巡らせる。

 そんなが男は辛抱できないのか、「俺だよ、花木宙蔵だよ。お前は俺たちから長年逃亡してたから、もう俺のこと、忘れてしまったんだろ」と声を上げながら近寄ってきた。それと同時に霧沢は思い出す。


 学生の頃も確かにひょろっと背が高かった。そして喉仏が出ていた。そのくせつぶらな目をしていて、いつもひょうひょうと振る舞っていた。もちろん宙蔵はそう悪いヤツではなかった。

 面影はかってのまま、だが少し歳を取った感じがする。

「おう、宙さんか、久し振りだなあ。それにしても、なんでこんな所にいるんだよ?」

 霧沢は懐かしくもあり、自分のことはさておいて、思わず問い返した。すると宙蔵は上機嫌な表情となり、「ああ、ちょっと目出度いことがあってね。記念に紫陽花の絵を描いてやろうかと、その題材探しだよ、ははははは」と笑う。


 そして今度は昔と変わらぬ「で」の多い話し口調で、霧沢の愛称を使い聞き返してくる。

「で、アクちゃんなあ、京都に戻ってきたとは聞いていたけどね。で、金髪女とでも、国際結婚してるんだろ?」

 霧沢は突然に身上調査をされているようで、「そんなの、結婚なんて……、全然まだだよ。いい女に巡り逢えなくってね」と返しながら、洋子のことを思い出した。そして思わず――お前が、洋子のパトロンなんだろ?――と突っ込みそうになった。


 しかし洋子との関係には直接触れず、「いつぞや祇園の洋子の店に行ったらね、宙さんが描いたという青い絵、そうそう〔青い月夜のファミリー〕と言ったかな、それが飾ってあったよ」と、絵の話しをして遠回しに探ってみた。

「ああ、あの絵、見てくれたんだね。で、ちょっと意味深だろ」

 宙蔵はそう答え、あとはニヤニヤと笑う。

 霧沢はそのニタついた笑いの方が意味深だと思いながら、いずれにしても訳がわからなかった。それでも「そりゃあ、良いことがあって良かったなあ」とさらりと返した。


「アクちゃん、ありがとう。で、時間を見付けては、今でもぼちぼちと絵を描き続けてるんだよ。そうだ、アクちゃん、俺のアトリエにちょっと寄っていかないか?」

 宙蔵が突然誘ってきた。霧沢はどうしたものかと迷ったが、京都の老舗料亭・京藍の主人となった花木宙蔵、そのアトリエがどのようなものかと興味もあった。「じゃあ遠慮なく、お邪魔しようかな」と応じた。

 宙蔵は笑い顔で、「それじゃ、アクちゃんの帰国祝いに、男二人で久し振りに酒でも飲むか」と言い、霧沢を誘導するかのように大股でさっさと前を歩き出した。霧沢はそれを追い掛けるようにして後を付いて行ったのだった。


 花木宙蔵のアトリエは賀茂川沿いの高級マンションにあった。

「まあ入ってくれ、片付いてないけど、気楽にな」

 宙蔵はドアを押し込みながら、そう言って招き入れてくれた。

「お邪魔しまーす」

 霧沢は中に誰もいないことはわかっている。だがとりあえずそう声を張り上げて、玄関へと入った。そして立ったまま靴を脱ごうとし、その身体を支えるために閉まったドアに手を差し伸べた。


 指の先がドアチェーンの台座に触れる。その時、霧沢はふと気付く。ドアチェーンの台座が緩み、ガタついているのだ。

 霧沢は大きな声で、すでに奥の部屋へと消えていった宙蔵に、「おーい宙さん、ここんとこのロック、緩んでるよ。すぐに直しておいた方が良いんじゃないか」と声を掛けた。

「ああそうか、そこに道具箱があるだろ、その中にドライバーがあるから、すまない、アクちゃん、それでちょっと締めておいてくれないか」

 宙蔵の姿は見えないが、大きな声で依頼してきた。

 霧沢は「はーい!」と二つ返事をし、下駄箱の上に放置されてある道具箱からドライバーを取り出し、その台座のネジを思い切り締め込んだ。そして「もうこれで大丈夫だろう」と確認し、部屋へと上がった。


 さすが老舗料亭の旦那のアトリエ・マンション、広さは八十平米はあろうかと思われる立派なものだった。

 玄関からの廊下に沿ってバスルームとトイレがある。そしてその突き当たりのドアを開くと、窓からの眺望が開けている広いリビングがあった。

 窓とは反対側にキッチンと寝室がある。そのベッドルームはリビングを広く取るように設計されているのか、あまり広いものではなく、六畳くらいのものだった。


 しかし宙蔵の使い方は乱雑そのもの。どこもかしこも描き上がった絵や、創作途中の絵が置かれ、絵の具やペインティング・オイルが転がっている。

 そのせいかリビングに入ると独特のオイルの臭いが鼻を突く。だが、霧沢はその臭いが懐かしかった。

「まあ、散らかしてるけど、辛抱してくれ。で、ちょっと蒸すから冷房を入れるよ」

 宙蔵はこう言いながら、エアコンのスイッチを入れた。それと同時にリビングの換気扇も回す。

 霧沢が「エアコン点けて、換気扇か?」と不思議そうにしていると、「商売柄、身体に臭いがつかないようにしないといけないんだよなあ。最近、油から水彩に変えようかとも思ったりしてるんだよ」と宙蔵が目で同意を求めてくる。

「なるほど」と霧沢は頷き、リビングを見回してみると、数本の消化器が置かれてある。首を傾げる霧沢に宙蔵は気付いたのか、「ああ、それらか、二酸化炭素の消化器だよ。ABC粉末消化器だと、もし使ったら、絵が全部汚れっちまうだろ」と答えた。これも霧沢はその通りだと納得した。

 そんなやりとりをしながら男二人だけの酒宴が始まった。それは学生時代に戻り、懐かしくかつ楽しいものだった。


 だが霧沢はなぜかルリの話題は避けた。宙蔵も何かに気付いているのか、ルリの話題へと特に踏み込んではこなかった。そして二時間ほどいろいろと話し込んだだろうか、霧沢は翌日からの仕事もあり、最後に再会した互いの縁を祝し、ワインで乾杯した。

 こうして、雨はまだ止むことはなくそぼ降ってはいたが、花木宙蔵のアトリエ・マンションを後にしたのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る