第5話 事故死
それは霧沢亜久斗が宙蔵のマンションを訪ねた後、十日ほどが経過し、六月も終わろうとしている頃のことだった。
霧沢は午前の仕事を終え、外で昼食を取り、
濃いめのコーヒーを味わいながら、ざっと大まかに新聞に目を通していた。
こんな時間の費やし方ではあるが、それでも霧沢にとっては業務の合間にあるくつろぎの一時。朝の通勤時に読み切れなかった記事、特に地方版をパラパラと拾い読みしていた。そんな時に、霧沢は突然
「えっ、何だよ、これっ!」
驚きのあまりその後の言葉が続いてこない。
そこには、京都の老舗料亭・京藍の主人、花木宙蔵がアトリエとして使っていたマンションで事故死した、とそんな記事が載っていたのだ。
見出しは『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』とあった。そして記事の内容はおよそ次のようなものだった。
花木宙蔵はマンションの一室で二酸化炭素により急性中毒死をした。
死亡推定時刻は深夜の午前二時から三時頃。
原因は寝煙草で起こったボヤを消そうとし、二酸化炭素消化器を使用した。
そのガスが室内に充満し、それにより死亡。
第一発見者は京藍の女将でもある妻、花木桜子とマンションの管理人。
桜子は翌日の朝八時にマンションを訪ねた。
その時、部屋に残存していた異臭が漏れ出ていた。
桜子はこれによりマンション内の異常に気付いた。
その後、管理人とともに、ドアチェーンが掛けられた玄関ドアを打ち破り、室内へと入った。
そして寝室で死亡している故人を発見した。
そこには使用済みの空の消化器が二本あった。
捜査当局は、この花木宙蔵の死亡はドアチェーンが掛けられた密室内で起こったこと。
また花木宙蔵の関係者たちには午前二時から三時の間のアリバイがあり、それが成立したこと。
これらをもって、二酸化炭素による急性中毒死、つまり事故死だと断定した。
記事はこんな内容で簡潔に書かれてあった。
「おっおー、宙さんが死んでしまったって、この間再会した時、あんなに元気にしていたのに、なぜなんだよ? リビングに置いてあった消化器を使ったのかなあ? それにしても、換気扇を回していなかったのかなあ?」
霧沢には驚きとともにいくつかの疑問が湧いてくる。
「ドアチェーンて、あの時、俺、しっかりネジを締め付けておいたよなあ。なんで簡単にドアが破れたんだろうなあ?」
霧沢はもう一つ合点がいかない。
もしこれが密室殺人事件としたら、どのようにして宙蔵は殺害されたのだろうか?
霧沢はいろいろと推理もしてみた。しかし、捜査当局がすでに事故死という結論を出してしまっていること。霧沢が今さらどうのこうのと言う筋合いのものではない。
されど八年間の空白の後、再会を祝した友人があまりにも唐突に、そしてあっけなく亡くなってしまった。
霧沢は納得がいかなかった。そのためか、一週間ほどの時間をおいて管理人を訪ねてみた。
管理人に対しての種々の事情聴取はすでに完了し、一件落着していたのだろう。それとも女将の桜子から、このマンションを手放さない、また後始末で迷惑は掛けない、そんな約束でも取り付けていたのだろうか、割にあっけらかんと霧沢の相手をしてくれた。
「霧沢はん、あの朝、奥様が助けて欲しいと呼びに来やはったんですわ、それで私も一緒にね、玄関の所へ行ったんですよ。そしたら、ドアチェーンが掛かってましてね、奥様が私の目の前で、二度も三度も思いっ切り引っ張りはりましてね」
管理人はこんな口調で馴れ馴れしく語り、事故発見の朝の状況を話してくれる。
「へえ、奥さんがね、……、そんな女の力で、ドアって破れるんですかね?」
霧沢が理解に苦しんでいると、管理人は少し複雑な表情をしながら続ける。
「ロープを持ってきてと言われてね、倉庫から持ってくると、ドアノブに括り付けられ、アナタも一緒にと言われてね、せいので引っ張り込んだんですわ、するとチェーンの先っぽにチョボが付いてまっしゃろ、室内側にそれをはめ込む台座があって、それもろとも外れたんですわ」
「ほっほー、割に簡単に壊れるんですね」と霧沢が驚きで目を剥いているにも関わらず、管理人は続ける。
「これでヨッシャーとなりまっしゃろ、あとは奥様と二人で奥の部屋まで駆け込んで」
ここで管理人はゴクンと唾を飲み込んで、あとの本題を一気に。
「ホンマびっくりしましたで、旦さんが倒れられてて、息ありませんがね。奥様が電話で救急車を呼んではる間、一所懸命人工呼吸させてもらいましたがな。だけど……、残念なことでしたなあ」
霧沢はこんな管理人の話しを聞き、「そうですか、それは御苦労様でした」とだけ返した。しかしその後に、管理人が妙に引っ掛かる話しをしてくるのだ。
「だけど霧沢はん、奥様も私もめっちゃパニクッとりましてね。なんとか仰いましたなあ、そうそう、画廊を経営してはる滝川光樹さんと言うお方が、そのドタバタの時ですわ、ホンマ運良く、展覧会に出展する花木さんの絵を取りに来やはりましてね、随分と助けてもらいましたで、もちろんそれはそれはびっくりしてはりましたが、ホンマ滝川さんには感謝しとります」
霧沢はこの話しに目をパチクリとさせ、そして耳を疑った。
「なんで今ここで、突然に、滝川光樹が現れ出てくるんだよ」
霧沢は思わずそう叫びそうになった。と言うのも、滝川光樹は京都で有名な画廊の御曹司だった。そして彼も学生時代、霧沢と同じ美術サークルのメンバーだったのだ。
滝川は霧沢のような貧乏学生ではなく、その身だしなみはセンスが良く、なかなかのイケメンだった。そのせいか女子学生からの人気も高かった。とは言え、それを鼻にも掛けず、男としては割に純で気の良いヤツだった。
そんな男だっためか、どちらかと言うと何事にも拘らなかった霧沢と割に馬が合っていた方なのかも知れない。
されどもなぜ突然に、滝川と言う名前が管理人の口から飛び出してきたのだろうか。霧沢はその名前を聞いて黙り込んでしまった。
そんな様子を見ていた管理人、霧沢に心中複雑なものが何かあると感じ取ったのだろう、「霧沢はん、良かったら、ちょっと部屋を覗いて行きませんか?」と尋ねてくる。
「えっ、そんなことしていいのですか?」
霧沢はいきなりの話しで戸惑っていると、管理人が「この事故、なんとなく腑に落ちないんでっしゃろ。それで友達の死の現場を確認しておきたいと訪ねて来やはったんやね。秘密、……、秘密にしておきますがな」と恩着せがましく囁く。
霧沢は、管理人にここへ来た意図を図星で言い当てられてしまったと、この時思った。そして、もうこうなってしまえばその言葉に甘えて、宙蔵の最後の場所を確認しておこうと思い、「じゃあ、よろしくお願いします」と声を潜めて返事をした。
そしてその後、管理人に誘導されるままにマンション内部へと入って行った。
するとどうだろうか、まず玄関の下駄箱の上にあった道具箱はどこかへと片付けられてしまっていた。
さらにリビングへと進んでみると、ほんの半月ほど前に来た時と同じく、やっぱり散らかっていた。
だが、あの時にはなかったものがリビングの壁に
「宙さんは紫陽花を描くと言ってたよなあ、なんでこんな大きなキャンバスが十枚も要るんだよ」
霧沢がいかにも不思議そうにしていると、横から管理人が「ああ、それでっか、警察からこっそり聞いた話しなんですが、事故前の夜に、仏様と奥様がここで食事しゃはったらしいですわ。それが終わって、その夜の十時頃ですな、滝川さんが、以前から注文を受けてはったらしいんですけどね、それってキャンバスって言うんでっか、それらを届けに来やはったということらしいでっせ」と言う。
霧沢はこの話しはちょっと辻褄が合わないと思い、思わず聞き返した。
「じゃあ、展覧会に出品する作品、翌朝じゃなくって、その前夜に……、新たなキャンバスを夜の十時に届けに来た時に、なんで滝川さんは、その引き替えに出品作品を持ち帰らなかったんでしょうね?」
管理人は、友人としてそういう疑問を持つことはごもっともだという顔をして、ふんふんと聞いている。そしておもむろに、まるで霧沢を納得させるかのように、「これも警察の担当官から聞いた話でっせ。仏さん、その時はまだ出品作品が決まってなかったようですな、それで一晩待ってくれと言うことになったらしいんですよ。霧沢はん、なかなか難しいもんなんですなあ、どれを展覧会に出すかって」と話し、あとは大きく「ハハハハハ」と笑う。
そしてその笑いを無理に終わらせ、霧沢に意味ありげな視線を投げ付けてきて、ねちっと言い寄るのだ。
「霧沢はん、もうよろしんとちゃいまっか。霧沢はんの気持ちも、まあわからんこともないですが。どっちにしろでっせ、仏はんは、ロックの掛かった密室内で亡くならはったんやし、それに、みんな真夜中の二時や三時には完璧なアリバイがありまんがな、そうでっしゃろ。それにこっちもね、もうこれ以上の厄介はゴメンでっさかいな、頼んまっせ、霧沢はん」
そして管理人はしれっとして、「さっ、こちらへどうぞ」と霧沢を寝室の方へと誘導してくれた。
霧沢はまず部屋の前で手を合わせ、宙蔵の冥福を祈り、それから室内へと進み入った。そこはさすが事故死の現場だった。ベッドに焦げた跡があり、実に生々しい。
しかし事故の後、きっと桜子が片付けたのだろう、その部屋だけは整理整頓されている。
霧沢にとっての『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』、本当に宙蔵は事故で亡くなったのだろうか?
これがもし密室殺人事件なら、どういう手立てで?
霧沢はここへ来るまでに推理を一応してみたが、答はそう簡単に見付かるものではなかった。
この際だから、誰かに謎解きをしてもらいたいものだと思ったりもしたが、すでに捜査当局はこの出来事を密室内で宙蔵自身が引き起こした事故死と断定してしまっている。たとえ宙蔵が霧沢の友人であったとしても、もうこれ以上の仔細な追求をしていくことには無理があると改めて思った。
その結果、霧沢にとってすっきりしないところを残したままではあったが、花木宙蔵のアトリエ・マンションを後にするのだった。
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