第6話 桜子

 一千年の古都京都は七月十七日の祇園祭・山鉾巡行で梅雨の時節が明ける。

 そして夏本番がその「後の祭り」から始まる。

 さらに時は八月へと進み、盆地は蒸し風呂のようなだる暑さとなる。町中の古い寺の境内からは、蝉の声がやかましく聞こえてくる。

 そんな暑い夏をしのぎいくために、陽の落ちた鴨川の床で京料理を味わい、伏見の冷酒で一献二献と杯を重ねる。そんな涼を取る内に、僅かずつながらも渡りくる涼風に古都の人たちは気付き、秋がくることを予感する。


 盛夏は残暑に、そして残暑から初秋へと時は移ろっていく。

 そんな時の流れに任せたまま、花木宙蔵の事故死から二ヶ月余りの月日が過ぎ去った。宙蔵の四十九日もうに終わったようだ。

 だが霧沢は、宙蔵の事故死の背景や、そしてその原因が未だ理解できず、なにか割り切れない日々を送っていた。

 そんな思いで過ごす夏から秋への季節の変わり目に、霧沢は意を決して桜子を訪ねて行った。


 挨拶に出て来た桜子に、霧沢は「宙蔵さんに、線香だけでも上げさせてもらいたいと思いまして」と訪問の意を述べると、桜子は「わざわざとお参りに来て頂き、まことにありがとうございます」と丁重に返してきた。そしてあとは無言で、霧沢の前に立ち仏壇の間へと案内してくれた。

 そこは書院造り風の十二畳の大きな和室。正面に立派な仏壇がある。

 霧沢はそこへとおもむろに進み行き、まずは一礼して線香を上げた。そして数珠に手を通し、仏壇にある慰霊の写真に向かって手を合わせた。

 それが終わり、霧沢は振り返り、仏壇を背にしてまずは出されたお茶をゆっくりとすする。その古風な柄の茶わんをゆっくりと茶托に下ろし、無念の気持ちを込めて桜子に悔やみを申し述べる。

「桜子さん、今回は突然で、大変なことだったと思いますが、どうかお力落としのないように」

 これを受けて桜子は「御心配頂き、まことにありがとうございます」と淡々と返す。

 こんな通り一遍の弔意ちょういと作法の後、桜子は「霧沢さん、ここではちょっとくつろげないでしょ、部屋を変えましょ。さっ、こちらへ来て頂けませんか、どうぞ」と告げ、さっさと立ち上がり霧沢を案内してくれる。そして霧沢は奥の座敷へと通された。


 今、高価そうな黒檀こくたんのテーブルを挟み桜子と向き合ってる。

 美術サークルではルリの友達でもあった桜子。いつも真っ白なブラウスにブルージーンズを穿いていた。そんな爽やかさが似合う京都育ちの女子学生だった。

 常に長い黒髪をなびかせ、颯爽さっそうと風を切ってキャンパスを闊歩していた。だがこんな純一蕪雑じゅんいつむざつな雰囲気ながらも、年上の女性のようにセクシーで、どことなく妖しかった。そのためかとにかく男子学生たちの憧れの的だった。

 そんなことを霧沢はふと思い出している時に、桜子が唐突に訊く。

「霧沢さん、八年間もどこを放浪しておいやしたん?」

 桜子は確かに霧沢と同い年でまだ若い。しかし、主人の宙蔵が他界した後、その悲しみを乗り越えて料亭を一人で切り盛りしている。

 そんな女将としての自覚と自信、そしてその風格が京言葉から滲み出る。

 霧沢はどことなくその威風さを感じながら、それに応えて、「彷徨うろついていたのはアメリカに東南アジアかな、まあいろいろなことがあったよ。だけど桜子さん、思ってた以上に元気そうだね、安心したよ」とできるだけ気軽に返した。桜子はこんな霧沢の親しげな口調に乗せられたのか、それを切っ掛けとしてまるで学生時代に戻ったかのように語り始める。


「そうお? 私元気そうに見える? そうなんかもね、主人はっとと逝ってしもうたけど、私にはお仕事があるしね。これでも結構忙しいんよ、いつまでも悲しんでられないわ。知ってはるでしょ、私の性格――、欲張りなのよ、何でも独り占めしたいの」

 桜子はもう悲しみを吹っ切ってしまっているかのようだ。そんな様子を見て、霧沢はひとまず安心した。

 しかし、そこには何か秘密がありそうだ。そして、それに執着した桜子の歪んだ意志をどことなく霧沢は感じ取った。

「桜子さんはまだまだ若くって綺麗だし、心機一転、これからも愛ある人生になっていけば良いのにね」

 霧沢は愛という言葉を使い、扇動的にもこう突っ込んでみた。すると桜子は「そやねえ、もちろんそうなって欲しいわ」と素直に微笑む。


 そして、こんな会話を交わしている時に、霧沢は見付ける。床の間の隅っこに、無造作に置かれてある二枚の絵を。

 それらはなんとあの青い絵。

 一枚はルリがジャズ喫茶店に飾っていた〔青い月夜の二人〕の絵。

 青い月夜の茫洋とした海で、まるで行く当てもなく浮かぶヨット。その船上には、男女二人が月光に照らされて抱擁している姿がある。

 そしてもう一枚は、ママ洋子がクラブに飾っていた〔青い月夜のファミリー〕の絵。

 一艘のヨットがブルーな海に、帆に夜風を一杯に受けて、水平線の向こうにあるであろう目的地へと、まるで希望を膨らませて快走しているように見える。そして乗船しているのは三人。男女の間に幼子が描かれてある。


「桜子さん、あれらの青い絵、どうしたの?」

 霧沢は何気ない風を装って訊いてみた。

 桜子はそれに対して大きな反応を示さず、「ああ、あれらね、宙蔵の絵よ。人手に渡ってしもうてたんだけど、この際だから買い戻させてもらったんよ。ちょっとお値段は高うおしたけどね」と澄ましてる。

 霧沢は「買い戻した? へえ、そうなんだ」と頷いてみたが、何がどうなってしまっているのかがわからない。

「霧沢さん、あの青い絵、もしお気に入らはったんやったら、宙蔵の形見分けで、持って帰ってくれはっても、ええんよ」

 桜子はそんなことまで言い始めた。霧沢はこれには言葉を詰まらせて、「いやいや、そんなの、桜子さんにとって思い出の絵なんでしょう、結構ですよ」と応答するのが精一杯だった。

 しかし、「やっぱり霧沢さん、あれらの絵に、宙蔵の気持ちが込められ過ぎててね、私、もう耐え切れないところもあるんよ。だからお願い、もろうて帰ってちょうだい」と、桜子が意外にも涙声で懇願する。


 花木宙蔵と桜子の夫婦、そしてクラブママの洋子、さらに加えればルリ。

 霧沢は、これらの四人たちの間に多分複雑な関係があったのだろう、そう想像を巡らし、「わかった、じゃあ、遠慮なく頂いて帰るよ」と答えた。その後霧沢は少し気を落ち着かせ、あらためて室内を眺める。

 すると違い棚の奥に、大事そうに飾られてあるもう一枚の絵、霧沢はそれを見付けた。

 その絵はなんと、この和風の奥座敷にはまったく不釣り合いな男と女の情交の絵。

 目を凝らすと、その背景には濃紺の大空へと龍が飛翔し、それを桜吹雪きで大きく包み込んでいる。そしてその下で、男女が激しく絡み合っているのだ。

 筆使いは直線と曲線を駆使し、肉体が熱いタッチで描かれている。そこから受ける印象としては、男女の愛欲は美しい、されど重い。そんな表現の形で描かれた絵、これまで見た憶えがない。

 霧沢は急に興味が湧き、それが抑えられず、「あれ、立派な絵だね、ちょっと見せて下さい」と言い、桜子が「どうぞ」と返してくると同時に、腰を上げ歩み寄っていった。


 絵の左下には〔桜龍の契り〕と書き込まれてある。

「桜子さん、この絵、この座敷の雰囲気とはちょっと違うようだけど、おうりゅうと読むの、それともさくらりゅうと言うの、どっちなの? こんな立派な絵、誰が描いたの?」

 霧沢は不思議に思い、思い切って立て続けに訊いてみた。桜子は霧沢に突然見付けられ、かつ質問され、少し戸惑っているようだ。

 しかし、しばらくしてあっさりと、小声で囁く。

「どう読んでくれてもいいんよ。だけど、私なにかほっとするんよね、その絵、好きなんよ。実はね、光樹が描いてくれたの」 

 霧沢は光樹と聞いて、思わず「うっ」と言葉を詰まらせた。あとはぐうの音も出ない。まるで乱気流の中へと巻き込まれてしまったかのように、乱れた思考で脳が攪乱されていく。


「光樹、光樹、……、滝川光樹。画廊の御曹司で、学生時代は女の子に人気があった。だけど割に純なヤツで、しかし宙蔵の事故死の前夜、大きなキャンバスを十枚マンションに届け、翌朝、宙蔵の出品作品を取りに来た。そしてその現場に立ち会った。そんな光樹の絵が、どうしてここにあるんだよ?」

 霧沢の脳細胞がこんな疑問で埋め尽くされていく。その上に、もう一つ奇異だった。「光樹って、こんな絵を描いてたかなあ? あいつの絵は、いつも細かい写実だったよなあ」と思い出す。

 霧沢は止めどもなく湧き出てくるこれらの疑問が脳内を巡り、放心したかのようにきょとんとしている。

 さりとて桜子は、霧沢がそこにいることを忘れてしまったのだろうか、独りぼそぼそと呟く。

「私の人生だもの、好きなようにするわ。……、支えてくれそうだし」


 それは今までの強気の女将には似使わない消え入るような声だった。しかし、しっかりとした意思を含んでいるかのようにも思われた。

 霧沢は、波瀾万丈の海外で、八年間も苦労を重ねてきた三十歳の一端いっぱしの大人。これを聞いて、それはあまりにも桜子の心の奥底に眠る本音のような気がした。

 そしてそれを耳にしてしまった以上、もう後の言葉が出て来ない。その後は、当たり障りのない世間話しに終始させるしかなかったのだ。

 このような流れの最後に、「桜子さん、これからも、京藍を頑張って盛り立てていって下さいね」と霧沢はいとまの挨拶をし、京藍を早々と後にしたのだった。


 今、霧沢は街の雑踏の中を歩いている。

 桜子は悲しみを吹っ切り、まるで居直るかのように、「いつまでも悲しんでられないわ。知ってはるでしょ、私の性格、欲張りなのよ、何でも独り占めしたいの」とうそぶいた。

 そして消え入るような声で、されどしっかりと呟いた。「私の人生だもの、好きなようにするわ。支えてくれそうだし」と。

 これらの言葉が霧沢の耳にこびり付いていて離れない。霧沢は、なぜ桜子がそんな台詞せりふを吐いたのかがわからない。

 そのせいか、あるやるせなさ感を覚えながら、行き交う人混みの中で、「欲張りなの」、「独り占めしたいの」、「支えてくれそうだし」、これらの言葉を二度三度繰り返してみる。

 さらに漠然とだが、「卒業以来、俺が消えていた八年間、一体みんなに何があったのだろうか?」と疑問を自分自身に投げ付けるのだった。


 八年振りにジャズ喫茶店で再会したルリ。

 不幸にも二酸化炭素の急性中毒で事故死してしまった京藍の花木宙蔵。

 そしてその後を、老舗料亭を女手一つで切り盛りする女将の桜子。

 さらに、その桜子の背後に見え隠れする光樹。

 他に、宙蔵の愛人でもあった苦労の絶えないクラブママの洋子。


 この五人たちは、霧沢が海外へと姿を消していた間、多分それぞれが繋がりながら生きてきたのだろう。されど霧沢にはまだ全貌が見えてこない。


 学生時代に知り合った美術サークルメンバーの宙蔵/光樹/桜子/ルリ。

 また下宿近くのスナックで出逢った洋子。

 激化する学生運動で、キャンパスが揺れる中、青春という時を共に過ごした。

 そして卒業後、霧沢のいない空白の八年の月日の中で、友人たちを結ぶ縁は複雑に絡まり合っていってしまったということなのだろうか?

 霧沢はそんなことをぼんやりと考える。

 だけれどもその最後に、これだけは確信するのだった。

 霧沢自身も、こんな友人たちの渦の中へ、――、どんどんと巻き込まれつつあるのだと。



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