第3話 洋子

 京都は風光る四月から風薫る五月へと季節が移ろいつつあった。

 そして八年間の空白の後、京都に戻ってきてからの初めての黄金週間が始まろうとしていた。

 そんな時に、霧沢はたまには息抜きをしようかと、オフィスの仲間たちと夜の祇園へと繰り出した。

 久し振りだったのか盛り上がり、さんざん飲み歩いた。そして最後にたった一人だけで辿り着いた所、それは祇園花見小路にあるクラブ・ブルームーンだった。

 そこのママは洋子。霧沢は彼女のことを知っていた。

 かっての学生時代に、洋子は下宿近くのスナックでアルバイトをしていた。

 貧乏学生ではあったが、年に三、四回だけは大人の気分を味わってみたくなり、トリスハイボールを飲みに行った。

 その時代から気っ風の良い洋子と馬が合い、霧沢の女友達だった。そんな洋子は、霧沢の卒業と同時にこの祇園のクラブに勤め出し、まずチーママへと昇格した。そして激しい女の競争を勝ち抜いて、若くしてついにママにまで昇りつめていたのだ。


 店の様相はオオママ時代からはすっかり変わってしまったと馴染み客は言う。多分、今のママ洋子の性格が表れているのだろう。

 その店が醸し出すムードにはセクシアルなしつこさはなく、しっとりとした落ち着きがある。そうかと言って、素っ気ないかと言うとそうではない。

 霧沢は京都へ戻ってきてから、クラブ・ブルームーンを一度訪ねたことがある。そして今宵は洋子のことをふと思い出し、ふらっと立ち寄ってみたのだ。

「あっらぁー、霧沢はん、お久し振り。この一ヶ月、どこで浮気しておいやしたん?」

 店に入るなりママ洋子からのきつい一発が飛んできた。

「オレ、浮気なんかようせえへんで、昔から洋子さん一筋だよ。だけど、ちょっと仕事の手が遅うてね、よう逢いに来れへんねん」

 霧沢は関西弁丸出しで、つまらない言い訳をする。

「まっ、おなごはんには、お手々がお早いくせに……、このイケズ!」

 洋子はまったくのクラブ営業モードでまくし立てながら、霧沢の横腹辺りをぐいっとつねってくる。

「そんなんやったら、もうとっくにママのパンツ洗わせてもらってますわ。それでここに住み込んで、チーパパ張らせてもらってまっせ」

 こんなアホな会話、これが互いの無事を確認し合う昔からの挨拶なのだ。


 そしてそれが終わった時に、洋子が「じゃあ、チーパパの向こうを張って、チーママさんを紹介させてもらうわ。マミちゃん、ちょっとこっちへおいない、オモロイ系若ダンはんを紹介して上げるわよ」と言って、一人の女の子を手招きする。

「は~い、ママ」と明るい返事があり、霧沢の前にそのお嬢が進み出てきた。だが霧沢はこのマミを見て、ごくりと唾を飲み込んでしまった。

「えらいベッピンさんやなあ」

 こう感嘆するばかりで、後の言葉が続いてこない。

「そうでっしゃろ、今度マミちゃんに、チーママになってもらったんえ」

 ママからそう紹介されたマミは少し大柄だが、細い身体に淡いピンクのロングドレスをしなやかに身に纏っている。そしてブロンズ色掛かった長い髪が柔らかくカールされ、ふわりふわりと揺れている。

 肌は透き通るように白く、胸元のパールのネックレスが見栄え良く似合っている。その上に、瞳はくりっとし、大人の雰囲気の中にも純な乙女の香りがする。まるでシネマに登場した新人女優の雰囲気がある。


 霧沢はこんな美人を前にして、照れ隠しなのか「ほーお、新任係長さんか、よろしゅうね」と挨拶をした。それを聞いたチーママは「マミで~す、これからも御贔屓ごひいきに」と言い、あとは普段の関西系娘さんに戻り、「うふふふふ」と笑う。

 霧沢はその様子を見て、「アンタは、ほんとはコメディアン系なんだろ」と突っ込んでみた。それを受けてか、その美人マミはその大柄な身体の胸を思い切り前へと張り出させ、「アッタリ前田のクラッカー!」と古典的オヤジギャグで返してきた。

 そんな様子をじっと見ていたママ洋子が「この子、顔は可愛いし、スタイルも抜群だし、ヅカ系美人なんだけど、おつむはナカモト新喜劇さんなんえ。引き抜かれそうなんだから」と囁いてきた。

 それにマミが「イヤダー! ママ、ばらさないでよ」と叫ぶ。こんな会話を切っ掛けとして、場はより盛り上がっていく。

 そして席へと着き、スコッチの水割りを友にして、ケタケタ、ゲラゲラと笑い合う一時が流れゆく。


 そんなくつろぎの中で、霧沢は見付けるのだ。それは華やかな店の奥に、前回にはなかった一枚の絵を。

 しかし、まったくの仰天だ。

 それはついこの間ジャズ喫茶店で見た絵、そう、〔青い月夜の二人〕、それと同じようにそれもひどく青い。

 絵はブルーな海に一艘のヨットが描かれている。だが喫茶店で見た絵とは違っていた。

 ヨットは帆に夜風を一杯に受けて、水平線の向こうにあるであろう目的地へと、まるで希望を膨らませて快走しているようにも見える。そして最も〔青い月夜の二人〕から異なっている点、それはその人数。そこには三人が乗船していた。しかも大人の男女の間に、なぜか幼子が描かれているのだ。


 要は、煌びやかでまた妖しさもある夜のクラブには似使わない家族揃ってのセーリングの絵だ。霧沢の興味が急に湧き出した。

「ママ、あの絵、どうしたの?」

「霧沢はん、目ざとおすな、あれ〔青い月夜のファミリー〕って言うお題なんどすえ。えげつのう青おっしゃろ、アテのお客はんがくれはったんえ。あないにきばった青色、ほんによろしおまっしゃろ」

 ママは営業を続けているのか、祇園花街言葉を駆使して実にねちっこく答える。されどこれを受けて、霧沢はすかさず突っ込んだ。

「そのお客さんて、京都の老舗料亭、京藍の主人、花木宙蔵だろ」と。


「まっ!」

 いきなり具体的な名前が飛び出してきたことに、ママは驚いたのかった。

「霧沢はん、なんで知っておいやすん?」

 今度は声が低い。

「俺の勘だよ。それで、宙蔵さんて、ママのパトロンなの?」

 ママは話しの核心を突いてこられたのか、しばらく沈黙してしまった。そして一呼吸をおいて、霧沢の方にじわりとにじり寄ってくる。その後、霧沢の耳元でそっとささやくのだ。

「そうどすえ、世間様では、そうとも言うておいやすわ」


 霧沢はそんな言い訳を聞きながら、ルリのジャズ喫茶店に飾ってあった〔青い月夜の二人〕の絵の残像が脳内に蘇る。そして言葉を選びながら、昔からの女友達の関係に戻り尋ねてみる。

「洋子さんも、苦労が多そうだね。それで、女将さんはそのことを知ってるの?」

 洋子はいつの間にか少し泣き顔になっている。そして営業モードを一旦横に置いたのか、普段の標準語に戻り、まるで絞り出すかのように呟く。

「桜子さんは今のところ知らないと思うわ。だけど、いいのよ私は、多分、添い遂げられないと思うけど……、宝ものを頂いたから」

「ふうん、宝ものをね、――、じゃあ、いいじゃん」

 霧沢はその宝ものが何なのかおよその見当はつく。ここではそれを追求するのも失礼かと思い、意味不明のままにした。


 そんな霧沢の気遣いを洋子は理解している。そして洋子はそれに甘えて、「霧沢さん、実はね、私の友達からもう一枚の青い絵を預かってるのよ。大事な絵だから、汚れたらダメだと思ってね、ここには飾っていないのだけど、見せて上げましょうか?」と話題を変えてきた。

 これで霧沢は、洋子が〔青い月夜のファミリー〕の絵の話題を、これ以上は避けたがっていると感じた。また同時に、もう一枚の青い絵と聞いて急に興味が湧いてきた。

「その絵、どんな絵なのか、良ければ見てみたいなあ」


 ママ洋子が霧沢の要望を受けて、早速席を立った。そしてしばらくして一枚の絵を抱えて戻ってきた。

「どう霧沢さん、これ、ちょっとミステリアスで、情感があるでしょ」

 洋子がそう口にして、自慢げに見せる。

 その絵には二輪の青薔薇が描かれていた。

「ほう、綺麗なブルーだね、素晴らしいよ」と霧沢は思わず声を上げた。

「こういう色のことを、紺青と言うらしいんよ。だから、この絵の画題は〔紺青こんじょうえにし〕と名付けられてるのよ」


 霧沢はママからの説明を受けて、「ふうん、青薔薇二輪か、それでその画題がね、〔紺青の縁〕ってね。確かにそういうことなのかもな」とぼそぼそと漏らし、その後はただただ「なるほどね」と頷くだけだった。そんな霧沢に、洋子は神妙な顔付きとなり、疑問をぶつけてくる。

「だけど霧沢さん、青薔薇って、世の中にはないんでしょ。私の友達は、この絵で何を訴えたいのでしょうね?」

 霧沢にはその絵の意味がなんとなく飲み込める。

「洋子さんね、青薔薇の花言葉はエターナル・ラブ(Eternal Love)、つまり永遠の愛なんだよ。それでその青薔薇が二輪並んで描かれているのだから、二人の永遠の愛って言うことかな」

 霧沢のこんなもっともらしい講釈に、洋子はじっと耳を傾けている。そして、「へえ、そういうことだったのね。それでわかったわ、友達が漏らしてたのよ、好きな人と、このように寄り添い合えれば、いいわってね」と思い巡らせているようだ。


「じゃあ洋子さん、なぜ、この絵がここにあるの?」

 霧沢は興味津津となり、思わず聞き返した。

「それはね、友達が言うのよ、現在落ちてしまっている渦巻きの底から這い上がるためには、一つの方法しかないんですって」

「ふうん、一つの方法ね、それって何なの?」と霧沢はもう止まらない。

「それはね、今霧沢さんが教えてくれて初めてわかったのだけど、つまりその人との永遠の愛、その紺青の縁とやらで強く結ばれてね、それで救い出してもらわないと抜け出せない。多分、そういうことだったんだよね」と洋子は一人頷く。

 一方霧沢は訳がわからず、首を傾げるだけだった。


「だけど、友達のその、最近もっともっと深い渦の底へ落ちて行きそうって言うんだよ。もうその渦が深くなり過ぎて、たとえ手を差し伸べてもらっても、もうそこから抜け出せるかどうか自信がなくなってきた。だから、この絵を持ち続けていてももう意味がない、だから堪らなく辛くなってきたんだって」

 洋子はここまでを続けて喋り、そして一拍おいて、「それでね、しばらくそれを目の届かない所に置いておきたいと言ってね、私に預けてきたのよ」と、やっと霧沢の質問の「なぜここにこの絵があるの?」の答を終わらせたのだ。


 霧沢はそんな洋子の熱弁に、「ふんふん」と面白がって聞いてはいたが、「その友達の渦巻きって、どんな渦巻きのことなんだろうなあ?」と、特にそれ以上気にすることではなかったが、洋子の反応を窺った。


「霧沢さん、そりゃあ私たちはまだ若いわよ。だけどね、それはそれなりに一応ここまでは生きてきたのだから、いろいろな人間関係があるのよ。そんなしがらみの渦巻き、そのドロドロした中に私たちはいるのよ」

 洋子はこう言って、一人納得している。

 それに反し霧沢は話しが少し鬱陶うっとうしくなってきたと思い、「そりゃそうだね」と他人事のように返した。あとは「友達からの大変な預かり物だね、それは洋子さんが信頼されているということだよ」と持ち上げた。

 洋子はその友達のことを心配しているのか、「そうなのかもね」とぽつりと呟き、しばらく何かを考えているような面持ちとなっている。


 しかしその後は、小さいクラブながら祇園でママを張る洋子、営業スマイルを取り戻し、いつもの明るいママに見事に変身し直すのだった。

「さっ、若ダンはん、ちょっと悩ましい話しはそこまでにして、飲み直しまひょっ。霧沢はんが、もしアテのパトロンでおいやしたら、アテ、最高どーす、かんぱ~い!」

「ほうお、それはそれは……。だけど、オレには金と暇がな~い、かんぱ~い!」

 そんなレスポンスをした霧沢に、ママがきょとんとした目で見つめ返す。そして真顔となり、「ということは、霧沢さん、それって、自分は色男だということを言いたいわけ、――、ウッソー!」と叫んでしまう。

「おいおいおい、洋子さん、今営業中だろ、そう簡単に標準語に戻るなよ!」

 霧沢はこうさらに突っ込んだ。

「あ~ら、若ダンはん、そうどしたな、カンニンえ」

 ママ洋子は笑顔で謝り、グラスを高々と上げる。それにつられて霧沢もグラスをより高く掲げるのだった。


 霧沢にとっての久し振りの祇園、それはこんな弾けた一時だった。そして霧沢は、洋子の店、クラブ・ブルームーンを後にした。

 外はケバケバしい夜の蝶たちが群舞している。しかし、なぜか霧沢はとぼとぼと歩いているのだ。


 八年振りに再会したルリ。

 苦労してそうなママ洋子。

 そして話題となった老舗料亭・京藍の女将の桜子。

 さらに桜子の旦那であり、洋子のパトロンとなっている花木宙蔵。


 多分霧沢が京都に戻ってくるまでのこの八年間、この四人たちにはいろんなことが一杯あったのだろう。そして、そこには宙蔵が描いたいう青い二枚の絵。さらに洋子が先ほど見せてくれた、洋子の友達が描いたという絵があった。

 そして、それらはまるでそれぞれの作者の宿命を嘆いているかのように、その青い輝きを霧沢に放ってきていた。


 特に洋子が預かっていた青薔薇二輪の絵。それは〔紺青の縁〕と名付けられていた。霧沢はその深い青さが気に掛かる。

 その絵が暗示する永遠の愛。霧沢にとって、それがどういうものなのかを知る術はない。だが、その絵の作者は、その永遠の愛で想う人と結ばれたい、そうきつく訴えてきているようにも思える。

 そして霧沢は「俺も誰かと、絵にあったような紺青の縁で、いつか結ばれることってあるのかなあ」としみじみと思うのだった。

 だが一方で、そんなこととは裏腹に強く予感するのだ。

「その内に、そう、洋子が話していた渦巻きに、きっといつか、俺も絡まっていくことになるのかも知れないなあ」と。



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