第2話 ルリ

 霧沢亜久斗は、大学卒業後の八年間、海外を一人で渡り歩き仕事をしてきた。その生き様を格好付けて言えば、孤高な一匹狼。

 しかし、現実はそんな甘いものではなかった。当然のことながら、それは波瀾万丈。挫折も一杯経験した。

 そんな男の人生の途中、日本の四季ある暮らしが恋しくなり、三十歳の誕生日を迎えると同時に帰国した。幸いにも学生時代を過ごした京都で仕事が見つかり、勤務を始めた。


 そんな傷を負った男、霧沢亜久斗、三十歳はもう一度自分の原点に戻りたかったのだろう、学生時代によく歩いた京都東山の知恩院から南禅寺へ。そしてそこから哲学の小道へとふらっと散策した。その後銀閣寺を訪ね、銀閣寺道へと下りてきた。

 されど桜はもう時期外れ、すっかり散り終わっていた。そのためか春爛漫の華やかさはそこにはなかった。しかしその代わりに、新緑への勢いがどんどんと増してきているのが感じられる。初夏への準備が始まり出したのだろう。

 だけれども未だ春季の真っ只中、生命の息吹を感じさせる春風が霧沢の頬を柔らかく、そして心地良くさすっていく。


 霧沢、三十歳にとって、そんな久し振りの東山逍遙。それは八年間の空白を完全に埋め切ってくれるものではなかったが、それなりに満足な遊歩だった。

 卒業と同時に、日本を捨てるかのように、大きなビジネスの夢を追って海外へと飛び出してしまった霧沢。多くの傷を負い戻ってはきたが、外国での暮らしで愉快な思い出もたくさんできた。

 しかし、そんな風に今さら居直ってみても、霧沢にとってはやっぱりこの辺りは学生時代の想い出が一杯詰まった懐かしい地。

 今、その時代へとタイムスリップしたかのように、四月半ばの風に吹かれ、ふわりふわりと百万遍に向かって歩いている。


 無論霧沢は、帰国してこの三ヶ月、仕事にそしてプライベートに忙しかった。

 この京都の地で新しい生活を再開させるために奔走してきた。やっと一息を吐き、その多忙さから解放され、今はほっとした一時を楽しんでいる。そんな中で霧沢に蘇ってくるものがある。

「ああ、そうだなあ、あのジャズ喫茶店、今はどうなっているのかなあ?」

 顧みれば、あの学生当時ジャズ喫茶店によく出入りしていた。しかし、それは特にジャズが好きだったということではなかった。ただあり余っていた時間の始末に困り、入り浸っていただけなのだ。

 漠然とした時の移ろい、そんな中にただ身を委ねていただけだった。確かにそれは人生にとって、無駄な時間だったと言えるのかも知れない。

 しかし、それは青き青春の1ページ。それはそれで良かったのではないかと今では思ってる。

 とにかく懐かしい。


 銀閣寺道から百万遍まで長く緩やかな下り坂が続く。

 そんな坂の途中に――、そう、それはまさしく同じ場所に。霧沢はそのジャズ喫茶店を見付けたのだ。

 実に不思議だ。八年の時を越え、当時のたたずまいのままで、それはそこにある。霧沢は一種のスピリチュアルな驚きを持って立ち止まる。

 だが、今は春本番、光がより強く輝き始めているのを感じさせる時節。それだというのに、店内はほの暗くて憂鬱そう。

「へえ、こんなのだったのか?」

 学生時代の想い出は、この八年の歳月の経過とともに間違いなくセピア色にはなっていた。だがイメージとしてはもう少し明るい色のはず。しかしそれは、奥深い森の泉のほとりで、まるで眠るかのように幽暗にそこに存在していた。

 霧沢はそのジャズ喫茶店を目の前にして、一瞬戸惑った。さあれどもそれはすぐに消え去り、当時の仕草のままゆっくりとドアーを押し込んで店内へと入って行った。


 その薄暗い店内には二、三人の学生たちがいる。そして無気力に、重くて鈍いジャズの旋律を放心したように聴き入っている。

「ああ確かに、あの頃もそうだったなあ」

 ともすれば、学生時代の自分が今そこに座っているような錯覚に陥ってしまう。

 霧沢はそんな世界に戻ってしまったのか、何の迷いもなく、あの頃と同じ奥のテーブルへと進んだ。そして条件反射的に椅子を引きずり出して座った。

 その後、少しの間を取って、当時と同じ安いブレンドコーヒーを注文した。それからしばらくして、かってと変わらぬ絵柄のない白いカップに、コーヒーが八分目に注がれて出てきた。霧沢はブラックのまま、すぐさま一口味う。

「そう、これだった。昔と一緒の香りだよなあ」


 その仄かな香ばしさが学生時代へと、時空を越えてワープさせてくれる。そんなノスタルジックな癒しに浸っている時に、霧沢は鋭く突き刺さる視線を感じるのだった。

 疑いもなくカウンターの奥の方に一人の女性がいる。霧沢はその視線に反応し、ちらっと見る。

 薄暗い店内であり、はっきりとは確認できないが、どうも女性がじっとこちらを見ているようだ。「多分、同世代くらいかなあ」と霧沢は思った。その女性はまばたき一つせず、こちらをうかがってるかのようにも見て取れる。

 それからさほど時間の経過がなかった時のことだった。その女性が霧沢の席の方へとツカツカとやって来た。

「ひょっとしたら……、霧沢君……、じゃない?」

 霧沢は突然名前を呼ばれて訳がわからない。しかし女性は続けざまに言葉をほとばらせる。

「霧沢君よね。やっと来てくれたんだね」

 霧沢は目の動きを止めた。そして女性にきっちりと焦点を合わせ、凝然ぎょうぜんとして見つめる。


「えっ、ルリさん?」

 霧沢は思わず驚きの声を発してしまった。

「霧沢君、私のこと、憶えていてくれたんだね。嬉しいわ」

 女性は満面の笑みを浮かべ、言葉を強く溢れさせる。だがその笑いが消え、微笑みへと変わった時、そこには成熟した女の色香があった。


 ルリは学生の頃、実に若くて溌剌としていた。絵の中にいる竹久夢二の恋人、彦乃、その彼女をずっとモダンにして、さらに十倍元気にしたような東京出身の女子学生だった。

 春休みや夏休みになると、東京にも帰らず、なぜかこのジャズ喫茶店でアルバイトをしていた。


 霧沢はルリと格別な恋愛関係にあったわけではない。

 しかし、時々賀茂大橋を起点にして、二人で意味もなく彷徨さまよい歩いた。またこのジャズ喫茶店の窓際の席で、人生や恋愛について時の経つのを忘れて話し込んだりもした。

 そして夏になると、ルリはいつも短めのホットパンツを穿いていた。

 長くスラッとした足。そしてその付け根にある太股。その肉の白さが異常に目映まばゆく、霧沢の目に焼き付いている。

 そう言えば、ルリはそんな剥き出した足で、霧沢の前をスキップを踏むように跳ねて歩いていた。霧沢にとって、それはまるでルリが青春を一人占めしているかのようにも見えていた。


 そんなルリだが、霧沢には一つわからないことがあった。

 霧沢亜久斗の愛称は――、アクちゃん。

 同じ美術サークルに所属していて、互いに心をかなり開いていたはず。しかし、ルリは霧沢のことを愛称で呼ばず、なぜかいつも霧沢君と君付けで呼んでいた。

 そんなルリが今霧沢の前にいる。


「ルリさん、御無沙汰してました。それでこの八年間、どうしてたの?」

 霧沢はまずそう声を掛けた。

「いろいろあったわよ。辿たどり着いたら、やっぱりここだったわ」

 ルリは少し恥ずかしいのか、はにかんでる。

「そうか、それにしても、今でもベッピンさんだよね」

 そんな霧沢の突然の冷やかしに、ルリが意外に楽しそうに微笑む。

「霧沢君て、学生の頃と全然変わっていないわよね。入学して初めて逢った時、憶えてる? めっちゃベッピンさんやんかと、関西弁丸出しで言ってくれたわよね」

「ふうん、多分、そうだったかもな。だけど今の方がもっとベッピンさんだよ」

 霧沢は見え透いたお世辞のようなことをついつい口にしてしまい、一言多かったかなと反省する。

 それでもルリは「わあ、嬉しいわ。そんなことを霧沢君が言ってくれるのを、私、絵を描きながら、ここでずっと待っていたような気がするわ」と嬉しそう。

「そうなんだ、ルリさんの夢は画家になることだったんだよね。それでまだ描き続けてるんだ」と、霧沢は思い出した。


 ルリの絵は油絵だが、透明水彩画のような淡い色使いだった。霧沢はいつもそれに引き込まれ、本当に上手いなあと感心していた。

「そうなのよ、売れない画家を続けているのよ、霧沢君みたいなファンがいなくなってから、なぜか上手く描けなくなったわ。これからは昔のように応援してくれるわよね」

 霧沢はすぐさま気障きざに親指を立てて、「できるだけの事はさせてもらうよ」とまじめに答えた。


 だが、こんなルリとのやり取りが霧沢にとってたまらなく懐かしい。そして霧沢はこんな談笑を楽しみながら、暗い店内をもう一度見渡す。

 カウンターの奥の方にあるすす汚れた壁、そこにヤケに青い一枚の絵が掛けられていた。霧沢はそのしつこいほどの青さになんとなく興味が湧いた。そして椅子から立ち上がり、近くへと見に行く。


 そこには、青い月夜の茫洋とした海で、まるで行く当てもなく浮かぶヨットの絵があった。そして船上には、男女二人がその月光に照らされて、抱擁している姿が描かれていた。

「ルリさん、この絵、異常に青くって神秘的な絵だね。少し寂しそうなおもむきだけど、これルリさんの絵じゃないよね。誰が描いたの?」

「ああ、それね、〔青い月夜の二人〕って言うのよ。同じサークルにいた友達の桜子、霧沢君、彼女のこと憶えてるでしょ」

「ああ、もちろんだよ」と感情を表に出さずに軽く返事をした。

「その桜子のダンナさんが描いたのよ。その抱き合ってる二人は誰なのか、私知らないけど……、それをね、単に預かっているだけなの」


 何かの事情をルリが隠しているかのようにも聞こえてくる。

 しかし、霧沢は桜子のダンナと聞き、「ふうん、預かってるの、どうして?」と思わず聞き返してしまった。

「ちょっとね」とルリの歯切れが悪い。

「桜子って、京都の老舗しにせ料亭、先代が亡くなって、噂では、京藍きょうあい女将おかみさんになったと聞いているのだけど、そのダンナは同じサークルにいた花木宙蔵だったよな」

 霧沢は昔のことを思い出した。

 花木宙蔵はひょろっと背が高く、いつもひょうひょうとしていた。そして、そんなに悪いヤツではなかった。


 老舗料亭・京藍の長男で、一度東山の高台にある料亭に招待してくれたことがあった。その時、京会席料理なるものをご馳走になった。

 京都の街並みを林間から望みながらご相伴に預かったのだが、霧沢にはその味が初めてで、もう一つわからなかった。そして宙蔵は、それは当然だという風に冷めた目で霧沢を見ていた。

「そうだろ、アクちゃん、この味上品だろ。この味を出すには才能がいるんだよ、俺にはちょっとね。……、だけどなあ、俺は長男だから、ゆくゆくはここを継いでいかないとダメなんだよなあ。ホントは絵を描いてる方が好きなんだけど」

 宙蔵がこんなことを困り顔で話してきた。


「京藍は伝統のあるお店、宙さん、責任があるのだから、きちっと引き継いだ方が良いんじゃないか」

 霧沢は老舗料亭の仕来しきたりなんかさっぱりわからなかったが、とりあえずそう励ましてみた。

 それに対し、「アクちゃん、宿命ってね、不思議なものなんだよなあ。弟の龍二はやる気満々だし、料理のセンスも抜群なんだけど、将来家督が引き継げず、分家の小さな店になっちまうんだよ」と宙蔵がぼそぼそと呟いた。

 しかし霧沢は、宙蔵のこんな別世界の話しに「ふうん、そういうものなのかなあ」としか返せなかった。

 そして霧沢は「宙蔵のお嫁さんになる人って、将来女将さんになる人なんだろ。じゃあ美人でないとダメなんだ、それがメッチャいいじゃん」とちょっと茶化してみた。宙蔵はそんな冷やかしめいた話しにニヤッと笑い、「まあな」と一言だけ呟き、あとは口ごもってしまった。


 それから一週間後にキャンパス内で噂となった。ルリが花木宙蔵と付き合っていると言うのだ。

 霧沢はこれを耳にして、どことなくショックだった。今でもその噂話が霧沢の脳裏にほろ苦く残っている。

 そんな記憶が霧沢の言葉の後押しをしたのか、口をついつい滑らせてしまう。

「ルリさん、まだ宙蔵と付き合ってるんだ」

 これを耳にしたルリは、明らかにムッとした表情になる。

「霧沢君、何言ってるのよ、宙蔵さんと桜子は、今は御夫婦なのよ、私が付き合う余地なんかないわよ。それにねえ、学生時代から私は、その場その場でみんなの隠れみのにされてきただけなの。今もそうなんだから、――、わかってないわね!」

 ルリが噛み付いてきた。しかし、「今も隠れ蓑にされてるって、どういうこと?」と霧沢は小首を傾げる。

 するとルリは曖昧模糊な表現で、「私よく知らないわ。だけど世の中いつも複雑で、誰かさんと誰かさんとの親密交際なんでしょ」と吐き、あとは押し黙ってしまった。


 どうもルリ自身は真実とは異なることを突然言われ、気分を害してしまったようだ。

 霧沢はそれを敏感に感じ取った。そして素早く、不用意にも言葉にしてしまった「宙蔵と付き合ってるんだ」を打ち消すため、「誰が誰だかよくわからないけど、とにかく、ゴメンなさい」と殊勝に謝った。

 だが本当のところ、なぜ宙蔵の絵がここの壁に飾られてあるのかが、もう一つわからない。そんないぶかしがってる霧沢の胸の内を察したのか、ルリがさらに説明を加える。

「宙蔵さんと桜子はずっとね、あまり仲が良くなくってね、多分宙蔵さんが仲直りをしようと思って描いたのか、それとも他の誰かさんのために描いたものなのかは知らないけれど……、それで、この〔青い月夜の二人〕の絵を、日々生きてきた証に残しておきたいと言ってね、この思い出の喫茶店に飾って欲しいと宙蔵さんが持ってきたのよ」

「ふうん、ルリさんにね、どうしてなのかなあ?」

 霧沢は宙蔵とルリとの関係がまだ理解できない。

 するとルリはまるで他人事のように、「なぜなのでしょうね。私、昔から桜子と宙蔵さんの悩み事の一時預かり所みたいな役回りだったからね、また私にその役割を期待したのじゃないのかしら」と話す。


 とは言え霧沢は、これではすっきりとした合点がいかない。そこで奥歯に物が挟まったような言い草で吐いてしまう。

「ふうん、そうなのか、けれど、その絵はルリさんのためではなかったんだ」

 ルリはこれを聞いて、霧沢をぎゅっと睨み付ける。

「当たり前でしょ。だけど霧沢君、残念でした、私には他にちゃんと好きな人がいるわ、わかんないでしょ」

 ルリはすぐさま切り返した。

「えっ、ルリさんに好きな人が……?」

 確かに学生時代もそうだった。ルリの好きな男は誰なのかと、いろいろと詮索せんさくをしてみたがわからなかった。霧沢はそんなことを思い出す。

 そして霧沢は冗談ぽく、「そんな好きな人がいるのなら、俺に一言言ってくれりゃ良かったのに。俺、ルリさんのためだったら、一肌脱いであげたのになあ」と返した。


「霧沢君、アナタ何言ってるのよ、八年間もずっと行方不明になってたくせに。あの時だって、指一本触れてくれなかったじゃないの」

 ルリが不機嫌になる。

「えっ、そしたら、今からでも、指十本、どうお?」

 霧沢は少し言い過ぎたかなと反省し、ルリの機嫌を直そうとおどけてみせた。

「バーカ、そんなの、もう完全に、手遅れよ!」

 ルリはなぜか涙目になる。霧沢は折角久し振りにルリと再会したのに、実にまずいことを言ってしまったと後悔した。そしてルリと一緒に刻んだ想い出へと話題を振るのだった。


 あの頃、この薄暗いジャズ喫茶店の窓際の席で、二人でふざけ合いながらよく話し込んだものだ。その時代へと、まるで逆戻りしたかのように、二人の談笑は際限なく続いていく。

 二十歳前後の年代にワープしてしまった霧沢亜久斗とルリ。ジャズのメロディーがこんな再会を祝しているのか、二人を包み込むように哀愁を滲ませながら流れてくる。

 そしてそんな一時に、誰かが気を利かせてくれたのだろう、ヘレン・メリルの哀愁のある歌声が……。

[ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・トゥ(You'd Be So Nice To Come To)]が流れてきた。

 ルリはそのメロディーを全身に浴びるかのように上半身を仰け反らす。

「霧沢君、私、この歌詞のように思われてみたいと思っててね、この歌が……好きなのよ」

 霧沢もこの歌が好きだった。以前にどんな歌詞なのかと思い、自分で和訳してみたことがある。

 そして今、その歌詞が頭の中をよぎっていく。


 君が帰りを待っていてくれたら、それは最高

 暖炉のそばに君がいてくれたら、それは素晴らしい

 熱いおしゃべり、だけどそれは子守り歌のように

 ずっとそばにいてくれる、それが僕の望みのすべて


 冬の凍てつく星々の下であっても

 八月の燃え輝き上がる月の下であっても

 君がいてくれたら、それは最高

 まるで楽園のように


 きっと帰ろう

 そして君に愛を


 霧沢はそんな愁いあるメロディーを背に受けながら、ルリがいるジャズ喫茶店を後にしたのだった。



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