第25話 誰か一人

 三つ目の事件、二十八年の春秋を経て突然起こった桜子の『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』。

 霧沢は次にそれへと思考を巡らせていく。


 この事件の真実は一体何だったのだろうか?

 桜子は京都駅午後二時〇五分発のこだま六六二号に乗り、熱海温泉へと一人向かっていた。

 一方沙那とルリは東京駅十二時五十六分発のこだま六五七号に乗り、京都へと帰る途にあった。事件はそんな状況下で起こった。


 東京へと向かう上り・六六二号、そして京都へと向かう下り・六五七号、それらは途中で行き違う。

 しかし、下りの乗客が上りのこだまに乗り移り、そしてその後に再び元の下りのこだまに戻る、そんなことは不可能なこと、あり得ないことだと霧沢は思っていた。

 だが霧沢の息子、遼太はミステリー小説で、そのからくりを組み立てていた。


 東京駅でこだま六五七号に乗る。そして新横浜駅で、後続ののぞみに乗り移り、名古屋駅へと先に行き着く。

 そこで西より入ってくる東京行きのこだま六六二号に乗り換える。

 これにより、次の三河安城駅までの一駅間だけだが、上りのこだま内にいることができる。

 その後三河安城駅で降り、そこで待てば、東京駅で乗車したこだま六五七号が入ってくるのだ。

 驚くことに、このようにして下りのこだまから上りのこだまへと乗り移り、そして元の下りのこだま車輌に戻ることは可能だったのだ。


 霧沢はひとまず次のように推理してみた。

 ルリの友人の沙那は、自分の息子の妻となる愛莉、その父母の不幸、つまり宙蔵と洋子が花木桜子によって殺害されたことに気付いていたのだろう。その上に、愛する夫の光樹は桜子に長年道具のようにもてあそばれてきた。

 そんな中で、沙那は桜子への憎しみを募らせていったのではなかろうか。

 その結果、桜子を絶対に許せなかった。

 そしてこの上りと下りのこだまの僅かな接点の中で、桜子を抹殺し、それによってすべての歪んだ過去を消し去ってしまった。

 それでも桜子が苦しまないようにと考え、安楽死ができる塩化カリウムを静脈注射する方法を選んだ。


 しかし、霧沢はルリから聞いた。「沙那は、京都駅で別れる時に、涙ぐみながら言ったわ。私にはやっぱり人を殺めることはできなかったわ」と。

 霧沢はこれは真実だと、今は確信している。

 学生時代、修学院離宮を見学した後に、「霧沢さん、ルリと仲良くしてやってね」とそっと囁き、そして深くお辞儀をし、沙那は小走りに走り去っていった。

 そんな優しさと気遣いを持つ彼女が、たとえ恨みが募ったとしても、人を殺すなんてことはできないだろう。


 だが事件からはもうすでに一年半の歳月が流れ去ってしまっている。霧沢は当時の新聞をもう一度読み直してみると、センセーショナルに報じられていた。

 事実として、三河安城駅の次駅の豊橋駅辺りで、桜子がグリーン車の化粧ブース内もしくはその付近で殺害されたとなっている。

 そしてその化粧ブース内に、西洋で安楽死に使用される塩化カリウム、その薬品の入った注射器が落ちていた。また首には、絞殺しようとした痕跡も見られた。

 不確定であるが、捜査当局は犯人が桜子に塩化カリウムを静脈注射し殺害した、その確度が高いと見做みなしていた。

 このように報道はなされ、その後通り魔の観点からも捜査は行われたようだが、今も解決していない。


 一体誰がこの犯行に及んだのだろうか?

 それは沙那よりも、そして誰よりも桜子に憎しみを持って生きてきた者のはず。

 龍二もあり得るが、龍二と桜子は過去に犯行を共謀し、そして長年の男女の仲。したがって、霧沢は龍二を差し当たって外した。

 それ以外の人物、その一人は一体誰なのだろうか?

 霧沢は、今まで自分なりに推理してきた中で、〈誰か一人〉を忘れてしまっているのではないだろうか。

 霧沢はそんな思いに至ったのだ。

 だが、何度となくその〈誰か一人〉の見当を付けてみたが、なかなか思い浮かばない。


 そんな〈誰か一人〉を煎じ詰めている時に、霧沢はふと思い出した。

 それは随分と前のこと、霧沢は遅くまでオフィスに残って仕事をして、疲れて帰宅した。そしてルリが用意してくれた夕食を、ビールを飲みながら取っていた。

 そんな時に、ルリが神妙な顔付きで、「あなた、今日ちょっとね、奇妙なことがあったのよ」と話してきた。

 それは遼太の小説サークルに純一郎と言う友人がいて、その子は桜子の息子だと言う。年を数えれば、夫の宙蔵の死後に生まれた子だ。


 老舗料亭を女手一つで切り盛りしてきた桜子に息子がいたのかと、その時驚いた。そして、その子の父は誰なのかがわからなった。

 それを聞いた時、霧沢は光樹の顔をふと思い浮かべた。だが光樹は、単に桜子と龍二の仲のカムフラージュ役で、利用されてきただけ。

 現在それがわかった以上、純一郎の父は光樹ではない。その父親は宙蔵の弟の龍二でしかないのだ。

「そうだったのか、桜子はシングルマザーだが、その龍二の息子、純一郎を跡継ぎとして、一所懸命育ててきたのか」


 霧沢は少し目の前のもやが晴れていくような感じを覚えた。

 そして、「龍二は、桜子との間に、子供を作っていたのか」と思い、はっと気付くのだった。

 桜子を最も恨み、憎悪している者を。

 それは、もし龍二に……、妻がいたとしたら……。

 きっと、その妻が一番桜子に憎しみを持っていたことになるだろう。


 霧沢は早速調べてみる。そしてわかったのだ。

 龍二には、真由美という配偶者がいた。

 どうもこの真由美こそがすべてのキーを握っているようだ。

 そして、霧沢が探し求めてきた〈誰か一人〉だと手応えを感じるのだった。


 霧沢は推理がここまで展開してくると、三十年の歳月の流れの中で起こってきた四つの出来事の全貌をもっと知りたくなってくる。もうじっとしていられない。

 ルリは以前に、「知り過ぎない方が良いこともあるのよ」と言っていた。だが霧沢は、もう龍二の妻、真由美に会ってみたくて、その気持ちが抑えられない。


 それは街に祇園祭のお囃子が聞こえてくる初夏の頃だった。

 霧沢、六十歳は、ルリには内緒だったが、暮れなずみゆく夕暮れ時に、先斗町ぽんとちょうの路地裏にある花木龍二の小料理店を訪ねて行くのだった。



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