第26話 真由美

 祇園祭のお囃子、その練習なのだろう、遠くからコンチキチン、コンチキチンという音が聞こえてくる。

 霧沢は四条通りから細い路地の先斗町へと歩き進んだ。

 時は逢魔おうまが折、はんなりと着物を着こなした芸者たちとすれ違う。身に纏ったふわりと香るお香、その残り香がお茶屋の軒先に漂う。

 まだすっかりと夜のとばりは下りてはいないが、両側の京料理店の灯りが一つ一つ灯り出す。

 霧沢は先斗町から木屋町へと抜ける細い路地へと入って行った。石畳に打ち水がされてある。そのためかその局所だけ、ひんやりとした涼風を感じる。

 そんな所に龍二の小料理店・鴨川青龍があった。


 遡ること約一千年前のこと、桓武天皇はこの地に平安京を開いた。

 それは四神相応しじんそうおう。つまり山城国は、青龍/白虎/朱雀/玄武の四神の方角に良い地勢であり、都として最適であった。

 その四神の中で、東を司る神が青龍。

 先斗町に沿って北から南へと流れる鴨川は、その青龍に見立てられた。

 龍二の小料理店の屋号は鴨川青龍。それは龍二の龍と重ね合わせて、きっと名付けられたのだろう。霧沢はそんなことを思いしながら料理店の前までやって来た。

 そして引き戸を引き、中へ入ろうとした。

 しかし開かない。店が閉まっているのだ。

 霧沢は夜の営業のためにもう開店する時間だと思ったが、入口辺りをよく見てみると、「勝手ながら、暫く休業させてもらいます」との張り紙がされてある。

「休業って、どういうことなんだよ」と霧沢は不思議に思いながら、ドアの隙間から中をそっと覗いてみた。店内は薄暗い。だが電灯が仄かに点き、誰かがいるようだ。


 霧沢はいろいろな推理の果てに、折角ここまで辿り着いたためか、諦め切れず思い切って戸を叩いてみる。すると中から少し大柄だが、顔立ちのスッキリとした容姿端麗な御婦人が現れ出てきた。

「あのう、ここの女将さんですよね。すいません、鴨川青龍さんの味の評判を聞き付けて訪ねて来たのですけど……、暑くってね、ビールだけでも一杯飲ませてもらえませんか、ダメですか?」

 霧沢はできるだけざっくばらんに尋ねてみた。

 するとその御婦人は、しばらく霧沢の顔をじっと覗き込んでいる。その後あっさりと、「ああ、よろしおすえ。さっ、ダンさん、中へお入りやす」と、自分が女将なのかどうかは答えずに、招き入れてくれた。


 店内は小綺麗に片付けられていて、清潔感がある。そしてクーラーがよく効かされているためなのか、冷風がひやりと肌に気持ちが良い。

 霧沢はその御婦人から言われるままにカウンターに座った。そしてビールが出てくるのを少し待った。

 しばらくして、その御婦人は大瓶のビールと小皿三枚を盆に乗せて運んできた。そしてそれらを霧沢の前に丁寧に並べてくれた。

 ビールのあてにと、にわか作りではあるが、山椒の香がする長岡京のたけのこに京の千枚漬け、そしてふわりと炙った沖ギスの干物が目の前に並んだ。いずれも霧沢の好物だ。

「この店は休業をしていると言うのに、突然訪ねて来た客を、これほどまでにもてなしてくれるとは」と、霧沢は嬉しくなってきた。


 そして意外だ、その御婦人は別段の気構えをすることもなく、霧沢の横にさっさと座った。そして霧沢が持ち上げた上品なグラスに、泡が零れないように手際よくビールを注いでくれる。霧沢はこれのお返しにと、無言のままで御婦人が持つビール瓶を掴み取り、丁重に注ぎ返した。

 それが終わると、御婦人はなぜか自分のグラスを霧沢のグラスにいきなりカチンと合わせた。そして「乾杯!」と声を上げ、それを気っ風良く一気に飲み干した。

 霧沢は、なぜ今ためらいもなく、御婦人がこんな振る舞いをするのかがわからない。しかし、それにつられて霧沢もぐいぐいと飲み干し、グラスを空けた。そして一息吐いて、霧沢はまずはそろりと尋ねてみる。

「あのう失礼ですけど、鴨川青龍の女将さんですよね。と言うことは、花木龍二さんの奥さんの真由美さんでしょ?」


「まあ、そういうことに、――、しときまひょ」

 女将の返事が随分と曖昧だ。そして客と一緒だというのに遠慮することもなく、たけのこを一つ摘む。

 そんな女将の仕草に少し驚きながら、霧沢は背筋を伸ばし、改めて折目高に挨拶をする。

「どうも初めまして、私、霧沢亜久斗と申す者です。実はちょっと女将さんにお伺いしたいことがありまして、今日、訪ねさせてもらいました」

 そんな口上をじっと聞いていた女将は「うふふふふ」と笑い、そして一拍置いて小さな声で返す。

「私たち、初めてとちゃいますんえ、……、霧沢はん」

 霧沢は女将のこんな言葉に、狐につままれたかのようになる。一方女将はそんな霧沢を悪戯っぽく睨んでくる。

「えっ、初めてでないって、一体どういうこと?」

 霧沢は不可解で聞き返した。


「霧沢はん、もう忘れてしまいはったんやね。私たち、三十年前にお逢いしてんのよ」

 女将はこうさらりと言ってのけ、霧沢のグラスにビールを注いでくる。

 霧沢はそのグラスを持ちながら、独り言のように、「三十年前に、俺たち逢ってるって、うーん、どこでかなあ?」と呟き、もう一度目をそらさずに女将の顔をまじまじと見てみる。

「えっえっえっ、えー!」

 霧沢は今、女将が誰なのかがわかったのだ。その驚きは尋常なものではなく、そのためかそんな単純な呻き声しか出なかった。

 しかし、その後は、記憶の糸を手繰り寄せるかのようにあの時の場面が霧沢には蘇ってくるのだ。


 そう、あれは八年間の海外遍歴から日本へ戻って来た三十歳の時のことだった。京都で仕事も見付かり、新たに生活をスタートさせた。そして、季節は風光る四月から風薫る五月へと移ろいつつあり、黄金週間が始まろうとしていた。

 そんな頃に、霧沢はたまには息抜きをと、オフィスの仲間たちと祇園界隈を飲み歩いた。そして最後にたった一人となり、辿り着いた所、それはママ洋子が仕切るクラブ・ブルームーンだった。その時に、ママ洋子が新任の美人チーママを紹介してくれた。

「マミで~す、これからも御贔屓に」

 確かそう自己紹介してくれた。あとは普段の関西系娘さんに戻り、「うふふふふ」と笑っていた。その当時のマミは今と変わらず少し大柄だった。

 だが細い身体に、肌は透き通るように白く、胸元のパールのネックレスが良く似合っていた。そして瞳はくりっとし、大人の雰囲気の中にも純な乙女の香りがしていた。まるでシネマに登場した新人女優の雰囲気があった。


 だが中身は「この子、顔は可愛いし、スタイルも抜群だし、ヅカ系美人だけど、おつむは中本新喜劇さんなんえ」と洋子が評していた。

 そんなことを霧沢は昨日のように思い出した。

 そしてその若いマミの面影が三十年経った今の真由美に充分見て取れる。歳を重ねてもやっぱり美人なのだ。

「ほう、あの時のマミさんか、今でもベッピンさんだね」

 霧沢は思わずそう唸ってしまった。

 すると真由美は「霧沢はん、三十年前もそう言ってくれはったわよ、えらいベッピンさんやなあと。ホントいつまで経っても面白い人ね。だってルリ姉さんがぼやいてはったんよ、アクちゃんの殺し文句は、いつもたった一つだけ。ベッピンさんだけなんよってね」と話し、あとは昔と変わらずまた「うふふふふ」と笑う。


 しかし、霧沢はぎょっと驚いた。

「えっ、真由美さん、うちのルリを知ってるの?」

 真由美は今さら何を言ってるのというような面もちをしている。

「もちろんよ、ルリ姉さんのことはよく知ってるわ。それで私、そろそろ霧沢はんがここへおいやすやろなあと予感してたんよ。だからね、今日ここへ来やはった目的は何なんか、およそ見当が付くんえ」


 霧沢は訪ねて来た意図を見抜かれているようで、これがどういうことなのかわからない。

 だがそれを問い詰めず、「ほう、知ってるんだね、俺の今日の目的を……。真由美さんが考えられてる通りかもな」と漠然と返事をした。

 それを受けてか、真由美は三杯目のビールをゆっくりと霧沢のグラスに注ぎながら続ける。

「三十年前に、初めて霧沢さんにお逢いしたでしょ、その頃から今日まで、みんなにいろんなことがあったわ。それらの真実を全部知りたくならはったんやね、それで、やっと私の所に辿り着いてくれはったんやわ」

「三十年経っての再会か、うーん、そういうことになるかなあ」と霧沢も感慨深い。


 真由美は「いろいろな出来事のことを聞きとうおますやろ、だから今日は、最初から包み隠さずお話しさせてもらいますわ」と覚悟を決めているようだ。

 一方霧沢は心の内を図星で言い当てられ、ただコクリとだけ頷いた。

 そして、あとは何も答えずにビールに口を付けていると、真由美はしみじみと、「洋子ママからチーママとして、霧沢さんに紹介してもらったのが、私が二十五歳の時なんよ」と語り始める。

 同時に霧沢が話しを聞いているかどうかを確認し、一拍置いて「その五年前の二十歳の頃、そやねえ、霧沢さんがルリ姉さんの前から消えてしまはった後のことよ」と続ける。

 霧沢は、早速日本にいなかった頃の話しになったかと耳をそばだてる。


「私、田舎からぽっと出て来てね、何も知らない女の子だったんよ。そりゃあ危なっかしかったでしょうね、それを見かねはったんやろね、洋子さんとルリ姉さんが縁あって拾ってくれはったんよ。その後はまるで実の妹のように可愛がってくれはってね」

 真由美には特に気負った様子はない。

 しかし霧沢は、それが霧沢の知らないルリと洋子の話題であり、興味が湧き、「可愛がってもらったって、どんな風に? それ、教えて欲しいなあ」とさらに説明を催促した。

 すると真由美はいきなり話題をダイレクトに。

「洋子さんは、宙蔵さんの愛人になってはったしね」と。

 霧沢はそれに応えて、「その様だったみたいね」とたださらりと相槌を打った。

 真由美はそれを聞き取り、霧沢が一応そこまでは知っているということを確認したようだ。

 そしてやおら「ルリ姉さんの方は、京藍の女将さんから、絵の援助をたんと受けてはってね」と話す。


「やっぱりルリはそうだったんだ。それで身動きの取れない渦の中に落ちてしまっていたんだ」

 霧沢はそう確信し、「で、真由美さんはどうしてたの?」と真由美の次の言葉を待った。

「だから私は、そのお裾分けをしてもらってたんよ。元の出所は宙蔵さんと桜子さんだったんだけど、ルリ姉さんと洋子さんから随分とおこぼれを頂いて、助けてもらったわ。それ以外にルリ姉さんのお友達の沙那さんまでもが親切にしてくれはってね」

 真由美はこう打ち明け、当時のことを思い出しているのか、しばし物思いに耽っている。


 しかし、霧沢はここまでの真由美の話しで、一つ理解できないことがある。それをズバリ訊いてみる。

「もう亡くなっってしまった桜子さんは、少なくとも真由美さんの義理のお姉さんなんだろ。なぜお姉さんと呼ばないの?」

 すると真由美が語気を強めて返してきたのだ。

「もうとっくにお姉さんじゃないのよ、だって龍二とは三年前に離婚してしまったわ。桜子さんが亡くならはる一年前よ、その時京藍とは縁が切れてしもたんよ。龍二とは辛いことが一杯あってね、随分と辛抱してきたんやけど、やっぱりこんな結末になってしもうたわ」


 霧沢は、真由美から突然言い放たれた言葉、離婚に驚いたが、「そうか、真由美さんは京藍とは離縁してしまってたんだ。だけどそれも新しい門出で、一つの区切りだったんだろ」と慰めた。

 真由美はその言葉に対し、「おおきに、もう吹っ切れてるから、それにここの屋号もそろそろ変えるつもりなんよ」と答え、話題を次へと移していく。

「それで、宙蔵さんの話しなんやけど、三十年前の六月に、宙蔵さんがマンション内で一応事故死しやはったでしょ」

 霧沢は真由美のこんな物言いに小首を傾げる。

「一応ということは……、宙蔵さんは事故死じゃなかったということ?」


 真由美の瞳がいつの間にか潤んできている。

 しかし、その涙を拭こうともせずに当時の実情をさらけ出してくる。

「あれは宙蔵さんの不幸があって、一ヶ月ほど経ってからのことやったわ。洋子さんが大事にしてはったヨット三人の絵を、買い戻したいと言うてね、龍二がクラブ・ブルームーンにやってきたんよ。それで洋子さんがイヤどすと断らはったら、法外な金額の小切手を渡してきて……、その時、龍二がポロリと漏らしたんよ、これは兄貴を天国へと追い出した、その罪滅ぼしだよってね。――、それがどういう意味なのか、随分後からになって、私気付いたの。それは洋子さんへの謝罪でもあり口止めだったのよ、ほんまアテ、アホだったわ」


 霧沢はそんな真由美の話しを一つ一つ噛み締めながら聞いているが、真由美はお構いなしにどんどんと暴露する。

「それからその年が明けて、四月中旬に洋子さんが後を追うように首吊り自殺をしやはったでしょ、これも龍二の仕業よ。だってあの時、そう、私検診で病院へ行く時、五時過ぎことだったわ、四条駅で龍二に似た男を見掛けたのよ。今から思うとあれは、口止めが利かなくなってきた洋子さんの首を絞めて、逃げて行く龍二だったんよ」


 霧沢はこれを聞いて、「やっぱりそうだったのか」と思い、「じゃあ、なぜ今までそれを黙ってたの?」と少し責めたことを訊いてみた。

 そんな質問に真由美はしばらく俯いていたが、その後霧沢を涙目で何か助けを乞うように凝視する。

「実は私も、罪を犯してしまってたの。その洋子さんが逝ってしまわはる一ヶ月ほど前の三月に、私に娘ができたの。洋子さんと同じように、私、シングルマザーになってしまってたんよ」


 そこには余程の事情があったのだろう。真由美の目からポロポロと涙が零れ落ちた。

 霧沢は「そうなのか」と頷きながら真由美が落ち着くのを待ってやる。

 そしてややあって、真由美がいきなり、「洋子さんが亡くなった年の六月に、ルリ姉さんは、愛莉ちゃんを連れて霧沢さんとこへお嫁に行かはったでしょ、私、ホント羨ましかったわ。だけど霧沢さんて、陰ながらえらいなあと思ってたの」と褒めてきた。

 だがこんな賞賛に、霧沢は何とも答えられない。


「そんな頃だったわ、桜子さんが龍二と結婚するようにと薦めてきたんよね。ただルリ姉さんは、桜子さんから恩を受けると身動きが利かなくなるからと、反対してくれはったんやけど……」

 真由美が今度は無念そうに唇を噛み締める。そして投げやりに、「当時、私は幼い娘を抱えて路頭に迷っているような状態だったでしょ、だから、その秋に龍二と結婚してしもうたわ」と話し、涙を拭く。

 霧沢はこんな真由美からの告白を受け、洋子の娘、愛莉を養子縁組で迎えることを決め、そして三人の暮らしをスタートさせた頃、その横ではこんなことが起こっていたのかと驚いた。


 だが霧沢にはもう一つ不確かで、確認しておきたいことがある。

「ちょっと話し難いのだけど、その頃、すでに龍二さんと女将の桜子さんとの男女関係はあったんだろ?」

 霧沢は思い切ってその道ならぬ恋について訊いてみた。

「その通りよ。桜子さんは一旦は宙蔵さんと一緒にならはったんやけど、結局は、若い時からのボーイフレンド、龍二と一緒に京藍をやっていきたかったんやろね」

 真由美があっさりとそう返してきた。

 さらに、「だけど宙蔵さんには愛莉ちゃんができてしもうたから、それで余計に宙蔵さんが邪魔になってしもうたんやわ、それで殺してしもうて。それからほぼ一年後に洋子さんまでも、龍二を焚き付けて殺めてしまったんやから……、ホンマ、鬼ばばだわ」と熾烈な言葉で語る。

 そこには今までの苦しい思いが込められている。


「やっぱりそうだったのか」と霧沢は一人頷くしかない。

 そしてその横で、真由美はいかにも口惜しそうな面差しをしてじっと座っている。

「だけど私も馬鹿やったわ、ルリ姉さんの言う通りやったんよ。桜子は私が娘を育てるのをそれなりにサポートしてくれたんだけど、それは見掛けだけだったわ。結局娘を人質に取られてしもうたようなもので……、はっきりとは言わはらなかったけど、それらの悪事の口止めを、私にしてきてはったということなんやろね」


 霧沢は「ふうん、そういうことなのか」と合点がいった。

 真由美は手にしたグラスのビールを一口ゴクリと飲み、今度は特に感情を表に出す風でもなく告白を続ける。

「もっと不幸なことにね、龍二の方なんやけど、根本的に桜子とは真っ向から人生全部というか、目的がぶつかり合ってたんよね。それは京藍を全部自分のものにすることだったんよ。――、その野心を果たすために、光樹さんも私も、それに桜子までもが、結局はみんな龍二の道具として使われただけだったんえ。ホンマ、えげつない男だったわ」


 真由美の語り口調は一応淡々とはしていたが、内容は辛辣なものだった。

 しかし霧沢はそういうことも覚悟をして、この小料理店・鴨川青龍へ真実を教えてもらいにきた。したがって、もう心の動揺はない。そこで霧沢はもう一つ訊いてみる。

「それで、今、龍二さんはどこにいるの?」

 真由美はこの質問を受けて、しばらく沈黙する。

 しかし余程忌み嫌っているのか、唇をぐっと噛みしめ、憎悪に満ちた目に涙を滲ませながら重く話す。

「京藍よ。だって女将はもうこの世にはいてはらへんさかい。純一郎さんを柱において、自分の好きなようにやってるんでしょ」

「へえ、純一郎君をね……」と霧沢が訝っていると、真由美は吐き捨てるように、「だって自分の息子なんえ。これで龍二は、光樹さんや私を利用するだけ利用して、自分の野望を果たしたことになったんよ」と言い切った。


 その後、真由美はやにわに霧沢にしなだれ掛かってくる。そして霧沢の肩を借りて、エンエンと泣き始めるのだった。

「真由美さん、もう良いんじゃないの、再出発したんだろ。これからもルリがサポートするだろうし」

 霧沢はそんな励ましをしてみた。


「霧沢さん、おおきに。宙蔵さんと洋子さんの三十年前の死は……、どのようにして犯行が行われたのかは、多分霧沢さんが推理してはる通りよ。桜子と龍二の二人が共謀して、密室状態を偽装して宙蔵さんをまず殺害し、次に洋子さんの場合、二台の車を使って、龍二はアリバイ工作をして、洋子さんの首を絞めたんよ。それで光樹さんはそれらの協力者のように見せ掛けられ、単に利用されてはっただけなんよ」

 霧沢は真由美から言い放たれたこんな結論に、「やっぱりそうだったのか」と納得し、「うんうん」と首を縦に振った。


 真由美は霧沢のそんな頷きに付け足し、「だけどね、ルリ姉さんは賢かったわ、私たちの今あるこんな状態、こうなっていくことをきっと早くから予感してはったんかもね。それでこんな渦巻の中から抜け出させてくれはるのは霧沢さんしかいないとね、――、八年間もジャズ喫茶店で、辛抱強く待ってはったんやもね」と言い、そばにあったティッシュで涙を拭いている。

 一方霧沢はこんな話しを真由美から聞きながら、京の千枚漬けを摘んでみた。さっぱりとした味が口の中に広がる。

 しかし、話しはここまでではまだ終わっていない。霧沢は何気ない風に訊く。

「それで、京藍の女将の桜子は、どんな風に新幹線こだま内で殺されてしまったの?」


「そやね、私、これだけは霧沢さんに直接お話しさせてもらっとかないとね。そう思って、ここでずっと店に来られるのを待ってたんやから……」

 真由美がここまでこう喋り、口籠もる。そして一拍置いて、遠くを見つめながら口にするのだ。

「だから、私……、明日警察に出頭するわ」

 霧沢はこれを聞いて、目をパチクリとさせた。

「そうか、真由美さんが出頭するのか……」

 霧沢はやっぱり桜子殺人の犯人は龍二の妻の真由美だったのかと、自分の推理がぴたりと当たり、溜息混じりでこう呟いた。

 しかしその後、意外な言葉が真由美から返ってきた。

「けどね、私、沙那さんのお陰で思い留まれたのよ」


 霧沢は自分の推理とは異なる真由美のこんな話しに、またぞろに目をしばたたかせた。しかしここは必死に気を落ち着かせ、「へえ、そうなんだ、それは良かった」と胸を撫で下ろした。

 それを待ってか、真由美は声を落として続ける。

「上りのこだまから下りのこだまに乗り移る方法は、霧沢さんが推理してはる通りよ。それで、そのこだまに行ったらね、多分鈍器のようなもので背後から叩かれはったんやろね、女将は化粧室の所ですでに気絶してはったわ。それで私、刺そうと思ってね、近付いたら、後から突然声が掛かってきたんよ。――、真由美さん、止めておきましょうよってね」


 これは霧沢が推理してきた筋書きからはかなり違ってきた。

「それって、誰が声を掛けてきたの?」

「さっきも言ったでしょ、沙那さんが後ろから、私を止めてくれはったんよ」

 真由美にはそんな犯行に及んだことへの自責の念と、そして留まることができた幸運、それらを同時に感じ入る複雑な心情がうかがわれる。

 そして霧沢は、「私にはやっぱり人を殺めることはできなかったわ」と、沙那がルリに漏らしていたというその言葉を明確に思い出した。

 その横では化粧が崩れないようにと、真由美がティッシュで溢れ出る涙を拭き取っている。


「それで私がオドオドしてると、桜子さんが目を醒ましてしもうたんよ。そして沙那さんが手にしてはった注射器を、突然取り上げてね……」

 真由美はこう明かしながら、手の中にあるティッシュを無意識のまま丸め込んでいるが、話しの方は止めない。

「桜子さんは元々勘が良かったから、多分誰かにいつかこんな目に合わされると、それとはなしに気付いてはったんやろね。それで桜子さんにも少しの良心は残っていたのか、最後に、私たちが加害者にならないように、早く行ってしまいなさいと言うてくれはってね。それで私たちもう恐くなってしもうて、さっさと三河安城駅で下りてしまったんよ」


 霧沢は事実はそういうことだったのかと改めて思った。

 だが現実には、桜子は三河安城駅を出てから殺害されてしまった。

 となると、一体誰が?

 霧沢はその犯人が思い当たらない。そんな時に、真由美が顔を青白くさせ、一言だけぽつりと漏らすのだった。

「私、見たの」

 霧沢はそれが理解できず、「何を見たの?」と短く聞き返した。

「沙那さんと私が、三河安城駅を降りる時なんやけど……、もうとっくに別れてしもうてた元夫がね、そう、龍二がね、その車輌に乗っていたのよ」

 真由美はその後じっと押し黙ってしまった。霧沢にも言葉がない。二人の沈黙が続いていく。


 そんな沈黙を破るかのように、店のドアが突然開いた。そして一人の若い女性が入ってきた。

「お母さん、大丈夫かしら?」

 そう言いながら霧沢たちの前までやってきた。霧沢はその女性を見て、すぐに真由美の娘だとわかった。かってチーママだと紹介された頃の真由美にそっくりなのだ。

 透き通るような白い肌に、くりっとした瞳が愛らしい。まるでシネマに登場した新人女優のようでもある。

 真由美はそんな娘に、「優菜ちゃん、こちらに来てちょうだい、遼太さんのお父さんえ、御挨拶しなさい」と声を掛ける。


 これを聞いた娘は少し後ろへとたじろいた。

 そんな娘の緊張を感じ取ったのか、真由美は一拍の間を取って、目を細めて霧沢に話してくる。

「霧沢さん、カンニンしてね。これからもまだまだ心配を掛けてしまいそうだわ」

 この母、真由美の言葉で、霧沢はおよそのところの推察がついた。だが「そういうことになっていたのか」と、もちろん仰天。

 だが、ここは真由美の話しに驚愕続きで、ここは案外冷静に「遼太の父の霧沢です、よろしくお願いします」と優菜に頭を下げた。

「初めまして、私、優菜です、遼太さんにはいつもお世話になってます。私の方こそ、これからもよろしくお願いします」

 娘の優菜はしっかりとした口調で挨拶を返してきた。

 霧沢は「いつの間に遼太のヤツ、こんな綺麗なお嬢さんと知り合ったんだよ」と自分の息子でありながら少し羨ましくもなった。


 それでも霧沢は「真由美さん、うちのルリはこのこと知ってるの?」と訊いてみた。

「もちろんよ。ルリ姉さんは、優菜が遼太さんとお付き合いさせてもらってること、充分承知しててくれてはるわ」

「そうなのか、知らぬが仏は俺だけだったのか」

 霧沢は若干不満ではあったが、これからのことは本人たちの気持ち次第だと思った。

 そして遼太の推理小説、新幹線こだま号を使ったアリバイ作り、それがなぜ真由美に使われたのか、それが疑問だったが、遼太から優菜へのこのルートで流れて行ったのだと納得もした。


 しかし霧沢には、いろんな考えが頭の中を巡っていく。

「優菜の父は……、まさか龍二ではないだろうなあ。もしそうだとすると、龍二は今まで罪を犯してきた男、遼太はその娘と付き合っているのか?」

 親心ながら心配になってくる。

 そんな不安な心境を横にいる真由美は察したのだろうか、娘の優菜が奥へと消えて行った隙に、霧沢の耳元でそっと囁く。

「霧沢さん、心配しないで。優菜の父は――、花木宙蔵、――なのよ」

 これを聞いた霧沢、今日に至るまで、いろいろな場面で多種多様なことを耳にしてきた。

 だが、これほどまでの衝撃発言を聞いたことがない。霧沢はまるで雷に打たれたかのように驚き、口に含んでいたビールを思わず一気に吹き出した。


「なんで、そんなことに……、なってしまっていたんだよ」

 今にもそう叫び出しそうになる霧沢に、真由美は「ちょっと落ち着いて、説明するから」と宥めてくる。

「霧沢さんが宙蔵さんのマンションに訪ねはったんは、紫陽花が一杯咲いていた頃のことだったでしょ。その数ヶ月ほど前のことだったわ、みんな集まってね、宙蔵さんのマンションでパーティがあったんよ。その頃私まだ若くってね、そこで酔い潰れてしまって、早めにアパートに帰って、前後不覚のまま、洋子さんのベッドで寝てしまったんよ」

 霧沢はここまで聞いて、およそ何が起こったのかすぐに推測できた。


「真由美さん、その話しはもうそこまででいいよ。後から訪ねてきた宙蔵が間違ったんだろ。洋子と真由美さんを」

「そうなの、私、訳もわからずにね、抱かれてしもうたわ。だけど、洋子さんに悪いことをしてしまったし、罪を犯してしまったのよ。それからすぐに宙蔵さんは、罰が当たったかのように殺されてしまわはったし、洋子さんは、私のややの父が宙蔵さんだと薄々感じながら、首絞められて亡くなってしもうたんやから……、洋子さんにはホント申し訳なくって」

 真由美はここまでの過去を打ち明け、またエンエンと泣き出した。

 霧沢は知らなかったが、そういうことが起こっていたのかと思い、そして思い出すのだった。


 三室戸寺で宙蔵にばったり出会った時、宙蔵が「ちょっと目出度いことがあってね。記念に紫陽花の絵を描いてやろうかと、その題材探しだよ」と言っていた。

 あの目出度いこととは、愛莉の誕生のことかと思っていたが、それは真由美の懐妊のことだったのだと。

 そして霧沢は想像を巡らす。

「となると、宙蔵が桜子に殺されたのは、愛莉の認知問題以外に、この間違いでの真由美の妊娠、これももう一つの動機になっていたのかも知れないなあ。しかし、真由美は龍二と結婚させられ、優菜を人質に取られて、とにかく生かされてきた。それにしても、なぜ真由美は、洋子のように殺されなかったのだろうか?」


 霧沢はそんなことをつらつらと考えてはみたが、その答が見付からない。

 だがここはまず真由美を気遣い、「真由美さん、間違いだったんだろ、もう良いんじゃないか、要は、優菜さんは愛莉の妹なんだろ。……、愛莉もこれを知ったら、きっと喜ぶから」と告げた。

 これを聞いた真由美、もう涙が止まるどころではない。

 さらに泣きながら、「霧沢さん、おおきに。私、優菜を産もうか、どうしようかと迷っていた時にね、ルリ姉さんも、愛莉ちゃんの妹なんだから、その命を授かってと、背中を押してくれはったんよ」と言い、霧沢の手をぎゅっと握り締めてくる。

 そんな真由美の手を、霧沢は自分の手でそっと包み込んでやる。


 それからずっと真由美は俯いたままだったが、五分ほどの時間の経過後、やっと気を取り戻す。

「そんな優菜の父を殺した桜子と龍二が憎かった。だけど優菜を育てていくために、言われるままに龍二と結婚してしまったんよ、それからずっと龍二とは仮面夫婦を演じてきたの。だけど優菜は大きくなったし、三年前に思い切って離婚したの。だけどね、どうしてもこんな惨めな過去のすべてを消してしまいたくなってしまったのよ、そしてそれを、沙那さんが……、沙那さんが、止めてくれはったの」

 真由美はこうしみじみと語り、あとは一気に泣き崩れるのだった。

 霧沢はそんな真由美の背中をしばらく擦ってやる。それで真由美は落ち着いたのか、今度は声のトーンを少し上げて話す。


「それで沙那さんなんやけど、夫の光樹さんが少なからずともこんないろんな出来事に関わってきやはったでしょ。それに加えて、桜子の死後、多分龍二が借金の返済を光樹さんに強く迫るようになったんやろね、だから責任を感じはったんよ。愛莉ちゃんや優菜に、それと遼太君や大輝君にね、私たちのこんな過去が子供たちの負担にならないようにと、ホント律儀に。沙那さんと光樹さん、心優しい人たちでしょ、きっと二人で相談しやはったんやわ。最後に自動車事故の大芝居を打って、借金返済のために自ら命を絶ってしまわはって。だけど、この大芝居と言うところは、あくまでも私の勝手な妄想よ。ここの真実だけは……、藪の中なの」


 こんな真由美の激白に、霧沢は「やっぱりそういうことだったのか」と改めて得心した。

 そして独り言で、「だけど、なぜルリは、これらのことを、知り過ぎない方が良いこともあるのよと、俺に言ったんだろうなあ?」と己の疑問をついつい呟いてしまった。

 真由美はそれにしっかりと耳を傾けていたのか、小さな声で霧沢を諭してくる。

「ルリ姉さんはね、きっと心配してはったんよ、沙那さんが自動車事故でせっかく消してくれはった親たちの過去、それを霧沢さんが変な思い込みをして、掘り返すんじゃないかってね。そんなことしたって、今さら子供たちのために何の役にも立たないわ。だから、すべては沙那さんと光輝さんの自動車事故で終わったのよ。……、霧沢さんも、さっさとそんな過去から抜け出して、そうよ、早くルリ姉さんと一緒に絵でも描いて上げて」

 霧沢はこの真由美の一種解説めいた話しを聞いてなるほどと思った。

 確かにこの期に及んで過去をほじくり返してみても、藪を突っついて蛇が出てくるようなものだ。


 そしてさらにわかった。

 ルリも何か悪いことに関わってきたのかと疑ったこともあったが、ルリにとってもどうすることもできず、今までただ宿命としてすべてを受け入れざるを得なかったのだ。そして、ルリは事態が流れるままに任せてきただけだったのだと。

 こうして霧沢は、真由美が語ってくれた話しで、四つの出来事の全容が把握できたような気がしてきた。

 あと桜子が具体的にどのようにして殺害されたかの疑問は残っていたが、霧沢はこれでほぼ胸のつかえが取れたのだった。



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