第24話 胸にすとん

 霧沢が不確実ながら辿り着いた推理は、次のようなものだった。


『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』と『洋子のクラブ内首吊り自殺』。

 それらは殺人事件であり、その犯人は桜子。

 そして、それを手助けしたのは滝川光樹。


 また、二十八年が経過して起こった事件。

 それは桜子の『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』。

 滝川沙那は遼太が書いたミステリー小説からヒントを得て、下りのこだまから桜子が乗る上りのこだまに乗り移り、桜子を殺害した。


 最後に、光樹と沙那の『画廊経営夫妻の周山街道・自動車落下事故』。

 沙那の夫の光樹が関わってきた過ち、それらに対しての沙那自らへの罰。そして子供たちの未来のために、不幸な過去のすべての消去。

 そのためにまず怨恨で桜子をこだま内で殺害し、そして続けて、光樹が運転する自動車で事故を装い、谷底へと自分たち自身も共に消滅させてしまった。


 不完全ながらも、霧沢の推理は大筋でこのようなものだった。

 しかし、最近のことだった。沙那が語ったことを、ルリが話してくれた。

 それは沙那の夫、光樹と桜子は不倫関係ではなかった。借金を抱えていて、桜子の悪事の隠れ蓑にされてきただけ。そのために、光樹は宙蔵や洋子の死に直接的には関与していない。

 だが桜子に利用されてきたのは事実、その罪を償うために、息子の嫁となる愛莉に幸せを作ってやりたい。沙那がこう語り、さらに「私にはやっぱり人を殺めることはできなかったわ」と打ち明けられたと、ルリは話していた。

 もし沙那のこれらの言葉が真実であるならば、霧沢が今まで積み上げてきた桜子と光樹が共犯で首謀者という推理は成り立たなくなってくる。


 そう言えば、確かに解けない謎があった。

 それは『洋子のクラブ内首吊り自殺』。

 もし桜子がその犯行に及んだとすると、名神高速道路の名古屋を過ぎた岐阜県の養老サービスエリアに立ち寄ったというアリバイを崩さなければならない。

 だが未だ看破できていない。

 それはある意味では、これらの事件は複雑で、もうこれ以上のは謎解きは不可能だ。

 だから今となってしまった以上、もう過去の出来事は忘れてしまって、第二の人生へと早く歩み始めた方が良いのではと思いたくもなってくる。

 しかし、すべての真実を知れば、その先で何かに出逢えるのではなかろうか。

 霧沢はそう思えてならないのだ。


 この四つの出来事の背後に眠るもの、それは一体何なのだろうか?

 もしかして、すべての出来事に関わってきた誰かを……、ひょっとしたら忘れてしまっているのではなかろうか?

 霧沢の脳内がそんな思考でぐるぐると回り、二、三日が過ぎていった。

 そしてある時、霧沢はハッと気付くのだった。霧沢が知らないこと、それは霧沢が卒業して海外をほっつき歩いていた空白の八年間、そこにあるのだと。

 されどもその八年間以外、つまり学生時代と、そして霧沢が日本へ戻って来てからの三十年間、それらのどこかに、真実に繋がる事象があるはずだと。

 そして、その何らかの片割れが、霧沢の目の前で見え隠れしたことがきっとあったのだろうと考えた。


 こうして霧沢は、自分の身の回りで生じたこと、特に今まで気にも掛けていなかったことを一つ一つその記憶を辿ってみるのだった。

 そして、ついにその一つのことを思い出した。


 学生時代、霧沢は貧乏学生だった。そんな霧沢を、花木宙蔵は一度だけ料亭・京藍に招いてくれたことがあった。

 その時、宙蔵はぼそぼそと呟いた。

「宿命ってね、不思議なものなんだよなあ。弟の龍二はやる気満々だし、センスも抜群なんだけど、将来家督は引き継げず、分家の小さな店になっちまうんだよ」と。

 そして、その何年か後に風の噂で聞いたことがあった。京藍の先代が若くして亡くなった。そのためまだ若かった宙蔵と桜子がその老舗料亭を引き継いだ。

 そして弟の花木龍二は、不運にも次男であるがために家督を引き継ぐことができなかった。単なる京藍の分家として、先斗町ぽんとちょうの路地裏にある小料理店へと追い出された、と。

 龍二はそれに甘んずるしかなかったようだ。


 こんなことを思い出し、あとは芋蔓のようにいろんな記憶が蘇ってくる。

 それは霧沢が四十歳の頃のことだった。ホテルで開かれた連携会社のパーティで、一度だけ龍二に会ったことがある。

 宙蔵とは違い精悍で、話しもはきはきとしていて、なかなかのいい男だった。

 霧沢は龍二からの自己紹介で、宙蔵の弟とその時初めて知った。そして霧沢が「京藍の女将さんは、元気?」と単に尋ねてみたら、龍二はそれまでの愛想を強ばらせ、白白しく「さあね」と吐き捨てていた。

 霧沢にはその時の龍二の印象が今も微かに脳裏に残っている。

 その時は、もうすでに宙蔵は他界してしまっていたが、宙蔵の弟の龍二と、京藍を女手一つで切り盛りする義姉の女将、桜子とはまったくうまくいっていないのだと直感した。

 しかれども、今考えると、それはまるっきり正反対だったのかも知れない。


 思い返してみれば、宙蔵の四十九日が終わり、霧沢が桜子を訪ねた時に、和風の奥座敷に通された。そこには和風の部屋にはまったく不釣り合いな一枚の絵が飾られてあった。それは桜吹雪が舞う下で、男と女の情交の姿が描かれたもの。

 霧沢は興味が湧き、立ち上がってそれを見に行くと、その絵の左下に画題が書き込まれてあった。

 それは――、〔桜龍の契り〕と。


 その時、霧沢は桜子に「誰が描いた絵なの?」と尋ねてみると、「光樹が描いてくれたんよ」と桜子は言っていた。

 霧沢は、この段になってやっと気付くのだった。それは桜子の嘘だったと。

 画題〔桜龍の契り〕、その桜は桜子の桜。そして龍は龍二の龍だったと。

 その絵は、まさに龍二が桜子との二人の契りを想い浮かべ、強いタッチで描いたのだと思い至った。


 桜子は古いしきたりのある旧家の娘だった。宙蔵と桜子は熱い恋愛の末に結婚したとなっていた。だが事実はそうではなかったのだろう。

 霧沢が留守にしていた八年間、今となれば事実をよく知る術はないが、本当のところは京藍の次男坊の龍二と恋に落ちていたのではなかろうか。

 そう言えば、ルリと再会したジャズ喫茶店に〔青い月夜の二人〕の絵が飾ってあった。それを見て、霧沢は宙蔵を思い浮かべ、「ルリさん、まだ付き合ってるの?」と尋ねてみた。

 するとルリは「学生時代から私は、その場その場でみんなの隠れ蓑にされてきただけなの。今もそうなんだから、わかってないわね」と噛み付いてきた。

 それに対し、霧沢が「何のために隠れ蓑にされてきたの?」と聞き返すと、ルリは「私よく知らないわ。だけど世の中いつも複雑で、誰かさんと誰かさんとの親密交際なんでしょ」と、曖昧模糊に返してきた。

 その「誰かさんと誰かさん」の組み合わせ、その中の一つに、宙蔵と洋子の関係以外に桜子と龍二の仲も含まれていたのだと、今霧沢は理解した。

 しかし、桜子は家のしきたりに縛られ、長男の宙蔵と結婚した。そして桜子と龍二の関係は桜子の結婚後もずっと続いていたのだろう。


 元々桜子は強い野望を抱き、打算が働く女学生だった。

 多分、将来龍二と二人で京藍を運営するために、まずは自分で乗っ取ってしまうところから始めたのだろう。

 だがその関係や野心が世間に知られてしまえば、たちまち伝統のある老舗料亭は立ち行かなくなる。

 一方光樹は桜子から多額の借金をしていた。

 また桜子は商売柄いろいろな金持ちや経営者たちとも知り合っていた。そんな人脈を活用し、画商でもある光樹に、料亭を通して上客を紹介していた。

 このようなことで、桜子と光樹の間には、しがらみのある従属関係が出来上がってしまったのではなかろうか。

 そして、桜子が光樹に要望した御奉仕とは、桜子と龍二の家族内不倫を隠すためのカモフラージュ役。光樹は借金の引き替えに、その立ち回りをする役割だったのだろう。


 そう言えば、ルリはいかにも残念そうに話していた。

「沙那がね、信じて欲しいの、私たちは宙蔵さんや洋子さんの出来事に直接的には何も関与していないのよ。そんなことを沙那が言って、私の手を握って、ここで大泣きしたんだよ」と。確かにそうなのかも知れない。

 もしそうだとすると、三十年前の『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』、その真実はどういうことだったのだろうか。

 この事件は、宙蔵と洋子の不倫に対しての桜子の怨念で、桜子が光樹の手助けを得て、密室殺人をしたものだと、今まで霧沢は推理してきた。

 だが真実はきっと異なり、霧沢の推理は間違っていたのだろう。


 霧沢は、桜子と龍二の関係を推理の中心に置き、『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』を考え直してみた。

 滝川光樹は桜子に言われるままに、何も知らずに十枚の油絵キャンバスをマンション内へと運び込んだだけだったのだ。

 そのキャンバスの後ろのスペースには、一キログラムずつで合計十キロのドライアイスが貼り付けてあった。そして光樹は桜子の指示のまま、その翌朝にマンションを訪ねて行っただけだった。


 宙蔵の殺害、その動機はむしろ龍二の方が強い。なぜなら、不運にも次男であるがために分家となり、やる気はあったが本家から追い出されてしまった。

 商売っ気のある龍二は、兄の宙蔵から京藍を奪い取りたい。

 そんな龍二にとって、さらに面倒なことに、宙蔵が外に愛莉と言う子供を作ってしまったのだ。そして、その認知を進めようとしている。

 それがもし現実のものになってしまうと、愛莉の婿がゆくゆく継いでいくことになる。これで龍二の出番は消滅し、勝算はまったくなくなってしまう。

 龍二にとって、宙蔵と洋子はまさに邪魔者だったのだ。


 もちろんプライドの高い桜子も宙蔵が許せない。そして、いなくなってもらえば、密事ながらも好きなように龍二と生きていける。

 そんな心理で、桜子と龍二はドライアイスを使って死亡時刻を遅らせる工作をし、宙蔵を殺害してしまうことを企んだ。

 こうして犯行は実行され、そしてその翌朝、龍二は宙蔵のマンションに侵入し、ボヤを発生させ、消化器を使っての事故死を偽装した。

 その後龍二は、桜子がドアチェーンを破って管理人と一緒に入って来るのを、バスルームに隠れて待った。

 そして桜子はマンション内に管理人と入り、宙蔵が死亡しているのを発見する。そんな時に、光樹は指示に従って、何も知らずに展覧会出品用の絵を取りにやって来た。そして宙蔵の死を知り、桜子を手助けする。


 そんなパニックになっている現場の隙に、龍二は隠れていたバスルームから外へと逃げた。

 このように、光樹は龍二が前面に浮き出てこないように、単なるカモフラージュ役として使われ、密室殺人は完結されたのだ。


 だが今となって、霧沢はもう一つのことを推測するのだ。

 ひょっとしたら、妻のルリは当時、こういった事実を全部見抜いていたのだろう。いや、そこまでいかなくとも、少なくともそう疑っていたのではないだろうか。


 ルリは一方で桜子から画家活動の援助を長年受けてきていた。だから自ら思うことを何も語れなかった。

 そんな自分に耐え切れなくなって、ルリは自分の宿命をはかなみ、「なぜなの?」と霧沢に訊いてきた。

 そして、「アクちゃん、今までの宿命を忘れさせて、そして新たな宿命をちょうだい。だから、もっと思いっ切り抱いて」と言いながら、ぽかりと青白い月が東山の中天に上がった夜に、霧沢に抱かれたのだ。


 あの夜、ルリは狂おしく燃えた。そして、「私は、やっぱりけがれてしまっているわ。これ以上、アクちゃんに迷惑を掛けられない」と置き手紙をしてホテルの部屋から消えて行った。

 それはきっと桜子と龍二を疑っていたのだろう。そして霧沢には巻き込まれて欲しくないということだったのだと、この時となって思えてくるのだった。


 そうならば、『洋子のクラブ内首吊り自殺』は一体どういうことだったのだろうか?

 光樹と桜子が伊豆へ旅行をし、その帰りの高速道路の途中で、洋子はクラブ内で首吊り自殺をしたことになっている。

 桜子は日本平パーキングエリア近くの高速バス停留所で車から降り、そこからタクシー/新幹線/タクシーと乗り継いで、午後五時前には京都祇園のクラブに到着した。そして洋子を殺害し、首吊り自殺を偽装した。

 その後は電車で名神高速の深草バスストップへと行き、そこで光樹が走らせてきた元の車へと戻り、午後六時頃に京都南インターチェンジの料金所を通過した。こうしてアリバイを作ったのだと推理してきた。


 だが霧沢には二つの解けない疑問が残っていた。

 一つは、桜子と光樹の二人は名古屋を過ぎ、岐阜県の養老サービスエリアに立ち寄ったことが確認されていた。これにより、桜子も光樹も新幹線に乗る時間的余裕はなく、高速道路から離れることなく京都に戻ってきたことが判明した。こうして二人のアリバイは完璧なものとなった。


 二つ目の疑問は、洋子の首吊り自殺が偽装されたものだとしても、それは短時間内での犯行。女性の力では無理がある。

 したがって、『洋子のクラブ内首吊り自殺』、それはもう少し違ったシナリオで起こった事件だったのだろう。

 霧沢はそう考え直し、もう一度当時のことを調べ直してみた。すると今まで認識していなかったことがわかった。

 その一つは、桜子と光樹の伊豆への旅は不倫旅行ではなかった。料亭組合の研修会が半ば慰労目的で開催されていたのだ。

 桜子はその研修会に参加し、光樹は桜子に誘われ、絵の販売営業のために同伴で付いて行っただけのものだった。


 そしてもう一つわかったことは、龍二が同じように研修会に出席するために、一人車で伊豆に行っていたことなのだ。

 だが龍二にもアリバイがあった。

 龍二は伊豆から京都に戻るに当たって、沼津インターチェンジから東名高速道路に乗り、車を一人で運転し、同様に午後六時頃に京都南インターチェンジを下りていた。いずれの料金所でも通過したことが確認されていた。

 龍二は一人の運転であり、所要時間通りに帰って来たため、高速道路から離れることはなかったと判断されていた。

 このように龍二のアリバイは成立していたのだ。


 だが、ここに桜子、光樹、龍二の三人、そして二台の車が揃った。

 霧沢はこれを前提として、『洋子のクラブ内首吊り自殺』、そのもう一つのシナリオが成り立たないだろうかと推考した。

 光樹は単に隠れ蓑の役割をしただけ。霧沢はそう考えると、徐々にそのストーリーが次のように読めてくるのだった。


 車は桜子と光樹が乗るA車。

 そして龍二が乗るB車、それらの二台があった。

 この状態で沼津インターチェンジより東名高速道路へと入った。

 そして、この三人は日本平パーキングエリアで落ち合った。

 その後、午後一時前の出発時に、何も知らない光樹は、桜子から「龍二に急用が出来たわ、龍二のB車を京都まで運転して行ってちょうだい」と指示された。

 光樹は「ああいいよ」と軽く受け、A車からB車へと乗り換えた。

 そしてそれとは反対に、龍二はB車から桜子が乗るA車に乗り移った。

 A車は桜子と龍二、B車は光樹一人、その組み合わせとなり、日本平パーキングエリアを出発した。


 その後すぐに、龍二は近くの高速バス停留所で桜子が運転するA車から降りた。

 そこから龍二はタクシーで、新幹線に乗るために静岡駅へと向かった。

 一方では、桜子が走らすA車、そして光樹が運転するB車、これら二台の車は連なって東名高速道路から名神高速道路を通り、京都へと向かった。


 この二台の車それぞれを運転する桜子と光樹は休憩のために途中の養老サービスエリアへと入った。

 そして桜子は、土産店の店員の前で光樹に馴れ馴れしく振る舞って、まるで一台で移動しているカップルのように印象付けた。

 一方、龍二は新幹線で京都へと向かい、午後五時前には祇園のクラブ内に入った。

 そして、呼び出しておいた洋子を絞殺し、首吊り自殺を偽装した。

 それは男の力であるならば、そう難しいことではなかった。

 そこから龍二は名神高速道路の深草バスストップへと行き、そこへ桜子が運転するA車、そして光樹が運転するB車、それら二台の車がやって来るのを待った。


 午後六時十分前の時間通りに、それらは到着した。

 そして龍二は元のB車へと戻った。

 またB車を運転してきた光樹はB車から降り、桜子が運転するA車へと乗り移った。

 こうして二台の車は元あった状態に戻ったのだ。

 つまり桜子と光樹が乗るA車、そして龍二が一人運転するB車、その二台の車となった。

 その後は別々に京都南インターチェンジを通過する。

 ただし、A車の桜子は料金所で紙幣を風で飛ばし、係員に光樹が同乗していることを印象付けたのだった。

 このようにして、沼津インターチェンジから京都南インンターチェンジまでの間、桜子と光樹が乗るA車と、龍二が一人乗るB車が別々に走って来た状態が偽装されたのだ。


 しかし霧沢は、今となってしまえばどうすることもできない。だが、この推理こそが真実なのだと手応えを感じた。

 そして友人の光樹は何も知らずに、桜子と龍二にうまく利用されただけだったと思うと実に口惜しかった。

 されどもう一方で、滝川光樹は愛莉の義父でもあり、犯罪の首謀者ではなかったことに胸を撫で下ろした。


『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』と『洋子のクラブ内首吊り自殺』。

 霧沢は、このようにして二つの事件についての納得ができ、その推理が胸にすとんと落ちたのだった。




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