第23話 妻・ルリの話し

 昼間、遼太の小説で、霧沢は少し動揺した。そしてその夜、霧沢は夕食の後に妻のルリにそっと訊いてみる。

「ルリ、同窓会からの帰り、沙那さんと一緒だったと言ってたよね、そうだったの?」

「そうよ……、多分ね」

 ルリはどうしてそんなことを突然に聞くのという表情となる。だが霧沢はルリの答が曖昧で尋ね返した。

「多分ねって? 事情聴取では、一緒にいたと証言してたよな」

「だって、その時はそう思ったんだもの。私、品川駅を出て、疲れていたのでしょうね、すぐに寝込んでしまったわ、名古屋駅辺りで目が醒めた時、彼女は横にいたし、眠っていた時も横に座っている気配を感じてたわよ」


 霧沢は「そうなの」と答え、「それで、沙那さんは、何か言ってなかったか?」とさらに問う。

「そうね、桜子が殺されてしまった日、京都駅に着いてから別れる時に、沙那はうっすらと涙ぐんでたわ。だから私がどうしたのと訊くと、心配しないでね、また何とかするからと言って帰って行ったわよ」

「ふうん、そんなことを言ったんだね」と、霧沢は考えを巡らせる。

 そして、「沙那さんは、最後に、また何とかするからと言ったんだろう、それってどういう意味なんだろうか?」と、ルリを事情聴取しているようだ。


「私もよくわからなかったのだけど、今考えてみるとね、二年ほど前に沙那がここへ遊びに来たことがあるのよ。そうだわ、桜子の事件の半年前で、愛莉が結婚する一年前のことだったわ」

 霧沢はこれを聞いて、昼間に遼太が「大輝兄さんのお母さんが、二年ほど前に遊びに来られててね」と話していたことを思い出した。その時のことだろうと思い、「それで?」とルリを急かした。


「あなたは知らなかったでしょうけど、その頃すでに大輝さんと愛莉の二人はもう結婚を誓い合っててね。沙那がこっそりとね、愛莉を頂きたいと、私に確かめに来たのよ」

「ほー、そんなことがあったのか」と霧沢が驚くと、ルリはいつになく真剣な眼差しをして、しみじみと話す。

「沙那がね、夫の光樹は気が良くって、まじめで、噂されているような桜子さんとの不倫関係はないわ。その代わりに借金を抱えていてね、その見返りに、単に桜子さんの悪事の隠れ蓑にされてきただけなのよ。だけどそのために、不幸な出来事にも関わってしまった風にもなってしまったわ。信じて欲しいの、私たちは宙蔵さんや洋子さんの出来事に直接的には何も関与していなかったのよ。――、そんなことを沙那が言い始めたのよ」


 霧沢は「ふうん、そうなの?」と出来るだけ理解しようと脳細胞を絞っていると、ルリはそれに構わず続ける。

「それから沙那はね、私たちの名誉も回復させたいのだけど、光樹は少なからず桜子さんに利用されてきたのは事実だし、結局、間接的には関わってしまったことなので、その罪滅ぼしで……、これからは私たち夫婦が、息子のお嫁さんになってくれる愛莉さんに幸せを作って上げないとね。そんなことを沙那が言って、私の手を握って、ここで大泣きしたんだよ」


 霧沢は、愛莉の結婚の一年前、そして桜子の事件の半年前に、こんな会話がルリと沙那の間で交わされていたのかと驚いた。

「その愛莉に幸せを作って上げるっていうのが、沙那さんがその半年後に京都駅で言った、心配しないで、また何とかするからということなの?」

 霧沢がルリに確かめると、ルリは「そういうことだったかも。多分、私たちから愛莉を譲り受けることになるだろうから、言ってみれば義理の娘となる愛莉に幸せを作って上げなきゃならないと、一所懸命考えてたんでしょうね」と言い、自分で深く頷く。


 しかし霧沢はまだ充分に理解できず、「沙那さんは、愛莉をどのようにして幸せにするつもりだったんだろうね」と呟き返した。

 これを受けてか、ルリはしばらく沈黙していたが、覚悟を決めたかのように霧沢に向き合ってくる。

「それはね、あれだけ気丈だった沙那が、このリビングで泣き崩れるものだから、もう泣かないでと言ったらね、……、私たち親たちと、それと子供たちのために、いままわしい過去を全部消して上げるわ、と話すのよ。それで、過去を消すってどういう方法で消すのと聞いたらね、沙那は袖を上げて、見せてくれたわ」

 霧沢は何のことかわからない。

「沙那さんから何を見せてもらったんだよ?」


 するとルリは声を潜めて囁く。

「注射の跡よ。私、それが痛々しくって、どうしてこんなことするのよと訊いたら、沙那は笑って言ってたわ、――、いつかチャンスある時のために、静脈注射の練習をしてるのよってね」

「それって、揺れる新幹線の中で注射をうまく打つための練習だったのか?」

 これに対し、ルリはきつい口調で返す。

「沙那自身も元々そういうことはできないと、もちろんわかってたわよ。多分自分の中だけでストーリーを組み立てて、単に自己演技をしてただけなのよ。だって、事件のあった日、京都駅で別れる時に、沙那は涙ぐみながら……、もう一言言ったのよ」


 霧沢が「何を?」と訊くと、ルリは一段と声を落とした。

「沙那が、私にはやっぱり人を殺めることはできなかったわ、と」

 これを耳にして、霧沢は思わず「うっ」と言葉を詰まらせた。

 そして、「それで沙那さんは、過去を消すために、改めて何とかするからと考え直したということなのか?」と一人呟き、顎を摩るだけだった。


 そんな霧沢をルリはじっと見つめながら、一息ふうと吐き、「光樹さんは沙那に一途だったし、沙那もずっと光樹さんのことを愛していたんだよ。だって光樹さんと一緒に、それは事故だったにしろ何にしろ、車ごと谷底へと落ちて行ってしまったんだよ、そんな強い縁で結ばれていたのよ。女将の桜子が亡くなり、その上に、沙那と光樹さんも亡くなってしまったわ。……、結局そうなることによって、過去のすべてが抹殺されてしまったことになってしまったんだよねえ」と厳しい表情をしている。


 そしてその後、ルリは少し心配げな面持ちとなり、なぜか突然に、「あの桜子の事件の日、私ね、京都駅で光輝さんを見掛けたの。きっと沙那を迎えに来てただけだよね、事件には関係ないわよね。あなた、きっとそうだよね」と呟き、悲しそうな眼差しで霧沢を見つめてくる。

 霧沢は即座にそれに返す言葉が見付からない。ただただ深く思考を巡らす。

 そしてしばらくして、特に根拠はなかったが、「それって、絶対に仕事の合間を縫って、沙那さんを迎えに来てただけだよ。だから光樹はずっと京都にいたんだよ」と、まずはルリの心配、光樹が犯人だという疑いを解こうと、ルリの呟きに対して強く肯定した。


 その後、元の話題へと戻り、「沙那さんは、宙蔵と洋子、それに桜子が亡くなった後、少なからずいろいろな出来事に関わってきた自分たちを反省し、夫婦自ら逝ってしまった。そうすることにより、友人たちの不幸な過去をも含め、全部消してしまったということなんだよ、――、絶体に意図的に」と、霧沢はそう自分を納得させ、沈思黙考する。


 そんな霧沢に、ルリは自分自身の気持ちに念を押すかのように話す。

「そうなのかも知れないし……、だけど真実はそうではなく、単なる自動車事故だったのよ。だって私、警察に見せたのだけど、事故の起こる前に沙那からメールをもらったの。お土産に大きな蟹を届けるから、楽しみに待っておいてねってね。それで警察は他の状況も検討して、光樹さんと沙那には心中する意志はなかったと判断したのよ、そして自動車事故による死亡と結論付けたわ。だけど、これは単なる結果としてなんだけど、大輝さんと愛莉の新婚夫婦に、京藍に借金を返済しても、そこそこ残る保険金まで残してくれたことになったわ。だからある意味では、大きな蟹は届いたのよ」

 霧沢はこんなルリの解釈に「うーん」と言葉が詰まった。


 しかし、一つ心配事がある。

 霧沢はルリの目を見ながら、「なあルリ、こんな話し、大輝君と愛莉は知ってるのか?」と訊いてみた。

「多分、気付いているかも知れないわ。だけど、これは私のあくまで個人的な推理であって、妄想よ。愛莉たちに必要なことは、愛ある家庭をこれから築いて行くことなの。沙那のお陰で親たちの不幸な過去は全部消えてしまったし……、だから二人には、もうこれ以上過去を振り返って欲しくないの」

 霧沢はこんなルリの結論に、「確かに、そうなのかもなあ」と頷いた。


 しかれども三十年前にルリと再会してから、その後共に生きてきた歳月の中で起こった四つ出来事。

 それらは『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』から始まり、『洋子のクラブ内首吊り自殺』へと続いた。

 そして二十八年の月日が流れ、『桜子の新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』が起こり、最後に『光樹と沙那の周山街道・自動車落下事故』で終わった。


 定年退職後、霧沢が一人で推理してきたストーリー、それは不完全ながらも、あたらずといえども遠からずのような気がしてくる。

 しかし、さらに求めたい真実は、光樹と沙那の周山街道・自動車落下事故で、今まで間接的だったにしろ絡んでいた光樹は亡くなり、すべて雲散霧消うんさんむしようしてしまった。

 霧沢はこんなことを感じながら思い出す。それは、定年退職後すぐに賀茂大橋の上でルリが囁いた言葉を。「知り過ぎない方が良いこともあるのよ」と。

 確かにその通りなのかも知れない。霧沢はもうこの辺りで深く考えることは止め、過去を忘れてしまおうか、そして絵でも描こうかと、ルリとの夫婦の会話を通して思った。

 しかし、霧沢にとって、事はそう簡単なことではなかったのだ。



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