第22話 遼太の小説

 約三十年前に起こった『花木宙蔵の密室・消化器二酸化炭素・中毒死』。

 そして『洋子のクラブ内首吊り自殺』。

 霧沢はこれらについて桜子が光樹の手助けを得て殺害したものだと推理した。だがその検証は、まだまだそれが真実だったとは言い切れない不完全なものだった。

 完璧な推理になるための前提として、桜子が名神高速道路の養老サービスエリアに立ち寄ったというアリバイを崩さなければならない。

 あるいは現在の洋子殺害の推理を根底からくつがえす他の手段、もしそれがあるならば、それを見付け出さなければならない。


 しかし、三十年も経ってしまった今ともなれば、情報もなく、なかなか核心へと入っていけない。

 そしてそれ以外に、霧沢にはもう一つ引っ掛かることがあった。なぜ滝川光樹はここまで関わったのか、それが不思議だった。

 男としては純で気の良いヤツだった光樹。霧沢は、光樹が愛莉の義父でもあり、自分のこの疑いが勝手な妄想に過ぎないのだと思いたかった。

 だが、ここで立ち止まっていても何も見えてこない。たとえ不明瞭なものであるとしても、やはりこの三十年間の全貌が知りたい。そんな思いで、次の出来事へと思考を移していった。


 それはほぼ一年半前の事件。霧沢が五十八歳の晩秋に起こった桜子の『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』。それについての推理を始めた。

 霧沢はまず、一体桜子を殺してしまいたいほど憎悪していたのは誰なのだろうか?

 そんなポイントから考え始めた。

 しかし、それは霧沢にとって辛いものだった。

 なぜなら、それは霧沢の周りにいる愛する者たちも、犯人と仮定して推理を進めていかなければならなかったからだ。

 その一人が娘の愛莉。実父の宙蔵が事故死した。そして実母の洋子が自殺した。

 もしそうではなく、女将の桜子によって殺害されたものだと、愛莉が疑いを持ったとしたら、それは愛莉にとって、とてつもなく深い憎しみとなる。


 しかし、桜子が殺された頃、愛莉にはすでに大輝という恋人がいた。この二人は将来に一杯の夢を描いていたことだろう。殺人を実行し、大輝との未来への夢を潰してしまうほど、愛莉は馬鹿な娘ではない。

 霧沢はそう結論し、桜子を恨む者を他に考えてみた。


 確かにもう一人いる。それは滝川沙那。

 ここで霧沢は、彼女が桜子を殺害したと仮定してみた。


 沙那は、三十年前の洋子の首吊り自殺の時に、夫の光樹と桜子が伊豆へ旅行に出掛けていたことを知ってしまった。

 それから二十八年の歳月が流れ、今回は桜子と光樹は一緒に熱海へ行く予定だった。

 沙那はその二人の計画をきっと知っていたことだろう。

 さらに、光樹と桜子の関係が二十八年間途切れることもなく、ずっと続いていたことも認識していただろう。


 だが霧沢には疑問が湧いてくる。そんな夫婦の状態がもしずっと続いていたとしたら、沙那は光樹と離婚せず、仮面夫婦のままで一人息子の大輝を立派に育て上げたということなのだろうか?

 もしそうだったとしたら、息子の成長を見届けてから、悪意を一杯抱く一人の女性、いや魔物に変身したということなのだ。

 それを前提とするなら、鬼女となる沙那は、自分の人生を愛のないものにした桜子が絶対に許せない。

 とにかく桜子が憎いのだ。

 殺してしまいたい。

 沙那はずっとそんな思いを持って暮らし、そしてその機会をずっと狙ってきたのだろうか?

 そうであるならば、光樹のケイタイメールを盗み読みし、桜子が京都駅午後二時〇五分発のこだま六六二号で熱海温泉に一人旅をすることを知った。

 沙那は桜子の殺害をここに計画し、ついにそれに及んだのだ。


 霧沢はいずれにしても一気にここまで推理してみた。しかし、そこからが進まない。

 沙那とルリは、桜子が殺害された日の前日、東京で開かれた高校の同窓会に出席していた。そして一泊し、東京から二人で、東京駅十二時五十六分発のこだまに六五七号に乗り、京都駅へと帰ってきた。

 一方殺害された桜子は熱海に行くために、反対方向の東京に向けて走る上りのこだま車内にいた。

 こんな上りと下りの新幹線こだま号、途中ですれ違うことがあっても、決して重ならない。

 そのため、沙那にたとえ桜子に対しての強い殺意があったとしても、物理的に犯行に及ぶのは不可能。その上に、ルリはずっと沙那と一緒だったと言っていた。


 だが霧沢はなぜかしっくりこない。何かがありそうだ。

 霧沢はそんなことを思いながら、されど答えは見付けられず、月日だけが過ぎていく。少し焦りも生じてきた。

 そんな時のことだった。霧沢の息子、遼太は今は地元メーカーに勤めるサラリーマン。養女の愛莉を実の姉のように慕い、家族思いの一端の社会人となっていた。


 学生時代、小説サークルに所属していた。そして現在は社会人となり、今でも町の小説同人会に所属して執筆活動を続けている。

 その遼太のジャンルはミステリー小説。時々、賞を狙いに出版社に応募したりもしているようだ。

 そんな書きかけの原稿がリビングのテーブルの上に置かれてあった。多分遼太が加筆でもしようと思い、リビングで通読し、自分の部屋に持っていくのを忘れてしまったのだろう。

 霧沢はその原稿を留守の遼太の部屋に放り込んでおいてやろうと手に取った。しかし、今まで自分の息子の小説を読んだことがない。「遼太のヤツは、一体どんな小説を書いてるんだろうなあ?」と興味が湧き、軽く読み始めた。

 そして読み進むにつれて、霧沢は「えっ、これって?」と目を疑った。まるで狐につままれたかのように驚いた。


 その小説の題名は〈ノートパソコンの行方・新幹線こだま刺殺事件〉と題されていた。

 京都のハイテク企業a社に勤める研究員Aが、東京で開催されるビジネスディナー、そこでクライアントへのプレゼンをするため京都駅から新幹線に乗る。

 そんなところからストーリーは始まっていた。そしてその粗筋は次のようになっていたのだ。


 研究員Aは大事なプレゼンであり、前もってその技術資料をじっくりと目を通しておきたい。そう思ったのだろうか、空席がありゆったりとする京都駅午後二時〇五分発のこだま六六二号に乗車した。

 そして名古屋駅を過ぎ、次に三河安城駅に到着する前のことだった。

 車輌デッキで、研究員Aが刺殺されているのが発見された。そして、Aのノートパソコンは盗まれていた。


 捜査は難航したが、事件は解決する。

 この犯行に及んだのは、その時間帯に東京駅から京都駅に向かうライバルb社の研究員Bだった。

 そのBは東京駅から十二時五六分発の下りこだま六五七号に乗車した。従ってBは、a社の研究員Aが上りのこだまに乗っていたため、Aとの接点はなく、殺人は不可能と主張していた。

 されどもそれは見事に見破られた。

 Bは東京駅の十九番線ホームから、そのこだまに乗ったことは事実だった。

 しかし、Bの足取りは次のようなものだった。


 まずこだまで、新横浜駅で降り、後続の午後一時二九分発ののぞみ三七号に乗り移った。

 そして、そののぞみで名古屋駅に午後二時五一分に到着した。

 そこでBは、Aが乗る東京行きの上りこだま六六二号を待つ。

 そして、それは四分遅れの午後二時五六分に名古屋駅に到着し、Bはそれに乗り換えた。


 そこで容疑者Bは、次駅の三河安城駅に着くまでの僅かな時間に、a社研究員Aを人気のないデッキへと呼び出し、そして刺殺した。

 その後、技術情報がメモリーされてあるノートパソコンを盗み、三河安城駅で午後三時一〇分に降車する。

 Bはそこでしばらく待ち、午後三時三一分に到着してくる元の、東京で乗り込んだこだま六五七号に戻った。

 こうして容疑者Bは午後四時三八分に京都駅へと到着し、ノートパソコンを抱えて姿を消したのだった。


 遼太の小説・〈ノートパソコンの行方・新幹線こだま刺殺事件〉は短編で読み易く、その謎解きをした筋書きはこのようなものだった。


 しかし、霧沢は腰を抜かすほど驚いた。

 それはまさに霧沢が今推理を進めている事件、ただ一点だけを除けば、まったく酷似していた。

 その一点とは、現実の桜子の死亡推定時刻が三河安城駅を過ぎてからとなっていたこと。

 それを考慮しなければ、要はa社研究員Aを桜子、そしてb社研究員Bを沙那と読み替えれば、桜子の『老舗料亭・女将・新幹線こだま内塩化カリウム注射殺人事件』とまったく一緒なのだ。

 そして霧沢は、この筋書きにより、東京からの下り・こだま六五七号から、京都からの上り・こだま六六二号へと一旦移り、また元の下り・こだま六五七号へと戻ることは可能だったのかと一人感心する。


 そんな時に、外から帰ってきたのか遼太がリビングへと入ってきた。

「なあ遼太、これ結構面白いストーリーだよなあ。それで、ちょっと教えてくれないか、この小説、もうどこかへ投稿でもしたのか?」

 霧沢は話しが重くならないように軽く訊いてみた。

 突然問われた遼太は少し怪訝な表情となったが、「ああ、それね、元は学生の頃の作品だよ。当時サークル内では人気があってね、友達によく貸し出してたんだけどね。だけど残念ながら未完成なんだよなあ、殺人が刺殺じゃね、絶対に返り血を浴びるんだよなあ、そこが越えられなくってね」と軽く返してくる。


「それじゃ没だな、没にしときなさい」

 霧沢は少し強い口調でそう言い切った。

「ああ、もうそのようにしているよ、だけど、周山街道で亡くなってしまった大輝兄さんのお母さんが、結構気に入ってくれてたんだけどね」

 霧沢はこれを聞いて耳を疑った。

「ということは、遼太、大輝君のお母さんは、この小説を読んだのか?」と思わず聞き返した。


「そうだよ、あれはもう二年ほど前のことだったかなあ、お父さんが出張している時に遊びにこられててね。その時俺のいろいろな小説を紹介したら、その中でもこれが一番面白そうねと仰って、一週間ほど貸して上げたのだけど」

「ふうん、そうなのか」としか霧沢には答えられない。

 だが霧沢は、もう一つだけ確認をしておきたいことがある。

「なあ遼太、ところで、愛莉もお母さんもこの小説を読んだのか?」

 遼太は今さら何をそんな質問をするのかという風な顔をしている。

「お姉さんに、お母さんて? お父さん、長年一緒に暮らしていて、何にもわかってないんだね。お姉さんの興味は大輝兄さんだけだよ。それにお母さんの興味は絵、絵だけだよ、恋愛小説なら、ひょっとしたら読むかも知れないけどね。これはミステリーだぜ、そんなの二人とも読むわけないじゃん」

 霧沢は遼太のこんな言葉を聞いて、「そうか」と短く答え、ほっとした気持ちで一杯になったのだった。



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