第11話 男の答え
霧沢は青薔薇二輪の絵を抱え、タクシーで京都駅へと急ぎ駆け付けた。
ルリは午後七時五三分の新幹線で東京へ帰るという。しかし残り三十分しかない。果たして逢えるかどうかわからない。
だが幸運にも、霧沢は駅の中央ホールの隅で時間待ちをするルリを見付けた。息を切らし霧沢は駆け寄った。
「あらっ、霧沢君、どうしたの?」
ルリからは意外にもあっさりとした返事が返ってきた。
霧沢は出張で博多に行く、そのために今夜同じような時刻の新幹線に乗るとまずは伝えた。そして改めて「元気にしてた?」と軽く訊いてみた。
それに対し、ルリは「私、もちろん元気だったわよ、霧沢君も元気そうで良かったわ。お仕事忙しいんでしょ、霧沢君のことだから、頑張ってるのでしょうね」と明るく返してきた。
その後、霧沢は小脇に抱えて持ってきた絵を指差しながら「この青薔薇の絵、ありがとう」と礼を言った。ルリはそれを受けてか、少しはにかみながらさらりと言う。
「霧沢君も日本へ帰ってきたし、逢いたい時にまた逢えるから、私、東京に戻るわ。それでもうその絵、必要なくなったの。できたら大事に飾っておいてね」
さらにルリは、はきはきとした口調で。
「私、京都でもう充分暮らしたわ。だから、これからは東京でお仕事を探して、画家になる夢を実現するために、もう一度出直してみたいの。新しい旅立ちよ」
霧沢はルリからのこんな言葉に、ルリの強い決意を感じた。そして、その気持ちを大事にしてやりたいと思う。
しかし、それはそう自分で推し量り過ぎているのかも知れない。そんな迷いのせいなのか、「どうしても東京へ帰ってしまうんだね」ともう一つ歯切れが悪い応答となってしまった。
「霧沢君、もういいのよ、あの時もそうだったから。私とは違う夢を追い掛けて生きていくのが好きなんでしょ、それで八年間も行方不明になるんだから、――、さっ、もう時間がないわ、行きましょ」
ルリはそう言って、学生の頃と同じように少し弾んだ調子で歩き出した。その時、霧沢は初めて気付いた。
ルリが溌剌と輝いていたあの学生時代、なぜか霧沢の前だけを、ルリはまるでスキップをするように跳ねて歩いていた。あれはひょっとすると、若い乙女の恋の意思表示だったのかも知れない。
そして今、ルリは同じような振る舞いをしている。
しかし、それも束の間、すぐに霧沢の前をきりっとした顔付きでカッカと歩き始める。
発車までもう時間がない。時は二人の別れに向かって、容赦なくどんどんと流れ去っていく。霧沢にもルリにも、この時間を止められない。
「霧沢君、元気で暮らしなよ、――、バイバーイ!」
ルリは
「うん、そうだな、またすぐに……、いつの日にか」
霧沢はルリの背中に未練が残る言葉を投げ掛け、下りのホームへと急いだ。
ホームに出てみると、向かいのホームの遠くの方にルリが立っている。ルリは下りのホームにいる霧沢に気付いたのか、小さく、しかしわかるように手を振ってきた。霧沢もそれに応えて手を振り返す。
「白線までお下がり下さい」
その当時はまだのぞみ号が登場していなかった。
最速の新幹線はひかり。その博多行き五一号の到着のアナウンスがホームに響き渡る。そして流線型の車両が静かに入ってきた。
霧沢の方が一分早い出発だ。
今、霧沢の視界がすーっとその白い車両で覆い被せられていく。
もうルリの姿が見えない。ひかり五一号は完全に停車した。そしてドアがシュワッという空気音とともに開く。京都駅で降車する人たちが順繰りドアからマナー良く降りてくる。
今度は乗る人たちの番だ。
二列に整列していた人たちがそう慌てることもなくドアの前に群がり、順番に乗車していく。霧沢もそんな人たちの中に混じり、押されながらドアの前まできた。
しかし、霧沢は乗り込めない。
「せめて一分後に出て行くひかり五〇号、東京へと帰って行くルリを見送ってやりたい」
霧沢はなにか雷に打たれたかのように、はっとそう思った。
明日博多では欠かせない仕事がある。絶対に行かなければならない。
しかし、乗れないのだ。
この発車時刻一分の差。たったそれだけの短い時間が、霧沢の人生にとって、一番大事な時間であるとさえ思えてくるのだった。
霧沢はついに乗ることを諦めた。
今ひかり五一号は、目の前でドアーを閉め、スイスイとスピードを上げてプラットホームから滑らかに西へと走り去って行く。霧沢の目の前に覆い被さっていた車両はもう消え去ってしまった。
しかし、その後には東京行きひかり五〇号が向かいの上りホームにすでに停車し、霧沢の視界を妨げている。そんな東京行きひかり五〇号も乗降が完了したようだ。そしてルリを乗せて、東京へと帰って行くために、それは発車した。
徐々にスピードを増していく。
ルリが明るく「バイバーイ!」と言い放ち、手を振っていた。そのひかりが遠くの方へと消え去って行く。
「私、京都でもう充分暮らしたわ。だから、これからは東京でお仕事を探して、画家になる夢を実現するために、もう一度出直してみたいの。新しい旅立ちよ」
ルリはそんな張り切ったことを言っていた。そして今、そんなルリがいなくなる。
いつも「なぜなの?」と訊いていたルリ。
八年前、なぜ私の前から突然に消えてしまったの?
なぜ私の気持ちをわかってくれなかったの?
ルリには、多くの「なぜなの?」があったのだろう。そして最後に「バイバーイ!」と。
それはその言葉の背後に、「なぜもっと真剣に愛してくれなかったの、それはなぜなの?」、そんな口惜しさを隠し、元気に手を振って去って行った。
そうだとも霧沢は思えるのだった。
それはまさに霧沢が手にしている絵、そこに描かれている青薔薇二輪が二人の切な過ぎる
「なぜ、ルリを死ぬほど愛し、彼女のすべてを奪い取れなかったのだろうか?」
霧沢にそんな自責の念が襲い掛かってくる。
午後七時五三分発・東京行きひかり五〇号はもう向かいのホームからは消え去ってしまった。ホームに群をなしていた人たちもいなくなり、今は閑散としている。
そんな向かいのホームを、霧沢はルリの残像を追って、虚脱感を覚えながら眺める。
「あ~あ、俺は一体誰のために生きていこうとしていたのだろうか」
霧沢にはどうすることもできないやるせなさ感が吹き出す。
「一人の女さえも、一途に愛し、幸せにしてやることができないのだろうか」
霧沢はどんどんと自己嫌悪の深みへと、スパイラルに落ちていく。そして、そんな自分に無性に腹が立つ。もう自戒の念で叩きのめされそうだ。
そんな瞬間に、霧沢は見付けるのだ。柱の陰で、茫然自失に項垂れている女性を。
どうも肩を震わせて泣いているようだ。
霧沢はそれが誰だかすぐにわかった。
ルリが激しく泣いている。
ルリはひかり五〇号に乗れなかったのだろう。こんな遠くからでも、ルリの大粒の涙が煌めき落ちていくのが見て取れそうだ。
霧沢はとにかく走り出した。ルリが今柱の陰で我を忘れて、狂ったように泣いている。そんな向かいの上りのホームへと、エスカレーターを駆け上がる。
上りのホームへ出ると、まだルリは柱に寄り掛かっている。
よほど悲しいのだろう、涙が止まっていない。まるで輝く真珠を、辺り一面にばら巻き散らすかのように泣いている。そんなどうしようもない悲痛な涙が、止めどもなく落下し続けている。
八年前から今日まで、なぜこれほどまでに、ルリに悲しい思いにさせてしまったのだろうか。そんなことに、なぜ自分は気付こうともせず、また男として守ってやろうともしなかったのだろうか。
こんな優柔不断で不誠実な自分。このまま行けば、必ず地獄に落ちて行くだろう。霧沢はとにかくそう思った。
しかし、地獄に落ちる前に、もう一回だけ自分たちの縁に賭けてみたい。霧沢はできるだけ大きな声で叫んだ。
「ルリ! もう一度、やり直そう!」
霧沢はルリのもとへと思いっ切り走った。
ルリはそんな声に驚いたのか、涙で濡れてしまった顔を上げた。
自分とは正反対の方向へと去って行ったはずの霧沢。その霧沢がそこに忽然と現れて驚く。
学生時代、ルリは美術サークルに属していた。その内に夢は膨らみ、将来画家となり、情のある絵を描くことを目標としていた。
だが、描けば描くほど自分の才能の行き詰まりを感じたりもして、随分と落ち込んだりもした。そんな時に、いつも霧沢は間接的ではあったが励ましてくれた。
そしていつの間にか、ルリにとって霧沢は守護神のようになっていた。そんなことにある時気付いたのだ。
一生自分を守って欲しい。また、そうしてくれる人だと信じていた。
しかし、霧沢は消えてしまった。
ルリは迷った。
だが、ルリは京都で霧沢の帰りを待つこととした。
しかし、待つ身が時としてどうしようもなく寂しかった。それを紛らわすために、ルームメートの洋子と世間では異常と言われる情愛の世界へと陥ってしまったのだ。
だが親友の洋子は、ルリのために単にそうしてくれていただけ。特に彼女を恨んでいるわけではない。とにかくルリは寂しかったのだ。
いつかきっと霧沢がジャズ喫茶店に戻って来てくれると信じて待った。しかし、それは待ち過ぎてしまったのかも知れない。
京の老舗料亭主人の花木宙蔵、その女将の桜子、そして桜子の彼氏とされている滝川光樹。
霧沢の留守の間に、学生時代の美術サークルの友人関係がより複雑で危険なものに変化していった。
画家を目指すルリはジャズ喫茶店でアルバイトはしているものの、金銭的に余裕がなかった。
これは霧沢にはまだ話しはしていないが、桜子から生活援助を受けていた。そしてまた、画廊を経営している滝川光樹の妻、沙那が同じ高校の同級生でもあることから、光樹からも随分とサポートを得てきた。
これらは言ってみれば未熟な画家のパトロンとなり、その将来に唾を付けておくということなのかも知れない。
だがルリは自分でもわかっていた。絵の才能が秀でているわけではない。だから、その関わりはいつかは破綻する危なっかしいものだと。
しかしズルズルと、甘い蜜の香りに誘惑されるように、より深みへと填まり込んで行ってしまったのだ。
そして状況はさらに抜き差しならぬものになりつつあった。
もし霧沢がいてくれたら、また違った生き方があったかも知れない。ルリは何回ともなくそう思った。
だが霧沢は何年経っても戻ってはこなかった。ルリは三十路の年頃ともなり、霧沢のことはもう忘れてしまおうかと考え始めた。
そんな時に霧沢が突然現れた。
今までの洋子との情事を洗い流してしまいたい。
桜子や光樹との金銭的に絡んだ関係も断ち切ってしまいたい。
霧沢との再会、それはルリにとって千載一遇のチャンスだったのかも知れない。
しかし不幸が起こった。洋子の愛人の宙蔵が亡くなったのだ。
それは事故死とされているが、そうでもないような気もする。
ルリはこんな歪んだ関係をすべて払拭し、この複雑に絡み合った渦巻きから抜け出したい。そのためには守護神霧沢の虜にもっとして欲しい。ルリはそう願い、霧沢に獣のような愛を捧げた。自分の肉体を欲しいままに貪ってもらえば、きっと自分は変われると思った。
自分の八年を忘れさせてくれるほど淫らに愛して欲しい。
そして霧沢はそんなルリをたった一夜ではあったが、狂わせてくれた。ルリは現状から這い出せそうで嬉しかった。
しかし、今までの八年間の自分の汚れを霧沢には語れない。だが霧沢はきっとそれを見抜いてしまっているだろう。
ルリにはわかっている。
霧沢は愛ではなく、単に情だけで抱いてくれたのだと。
辛いことだが、ルリはこんな風に思い至ったのだ。
そしてまた、霧沢をドロドロとした渦の中へと巻き込み、迷惑を掛けるのも嫌だった。しかし霧沢とのすべてが壊れてしまうのも恐かった。こうしてルリは自分の運命を短い文言に賭けてみた。
「もし霧沢君にもっと強い気持ちがあって、いつかまた逢うことがあるのなら、その時までに、私、もう少し身も心も綺麗にしておかないとね」
置き手紙の最後に、意味ありげに書いてみた。
霧沢が自分のことを本当に好きならば、そしてそこに情ではなく強い愛があるならば、これを読み、もっと真剣に、そして激しい求愛をしてくれるだろう。
その結果、宙蔵の事故死まで起こってしまったこの
しかし、一ヶ月経っても、霧沢からはその答は出てこなかった。
「なぜなの?」
二輪の青い薔薇がいつもそんな嘆きを、ルリに代わって呟いてくる。
ルリはそんな苦しみからもう逃げ出したくなった。そしてすべてを捨てて、そこからの逃避を決意したのだ。
ルリが考えていた永遠の愛、そこへ霧沢と踏み出すことは叶わなかった。そのため〔紺青の縁〕の絵はもう必要となくなった。
今夜、霧沢は博多へ行くと言う。それはまるで赤い糸に手繰り寄せられるように、京都駅発の新幹線へと二人は誘導された。
だが乗る新幹線の発車時刻は一分差。それを小さいと言えば小さい。しかし、向かう先は東と西。決して紡がれた糸とはならない。
これは運命の悪戯なのか、それとも二人の宿命なのか。二人は単に手繰り寄せられ、そして一分の差で、まるで引き裂かれるように別々の方角へと離れて行く。
ルリにとっては、これが八年間待った恋の結末。そう思えてならなかったのだ。
ルリはどうしようもなく悲しかった。
しかし今、ルリは自分の方へと走り来る、以上のような想像を巡らす霧沢に、――、気付いた。
「アクチャン!」
ルリもそう叫びながら霧沢の方へと走り出した。
一分という短い時間差で、二人は別々の世界へと。そしてもう二度と逢うこともない、恋の終わりへの旅立ちになろうとしていた。
しかしその一分の時間差の中で、霧沢は人生の中で一番大事な人に、そう、ルリを選んでくれたのだ。
ルリは今途方もなく嬉しい。
「やっと、なぜなのに答えを出してくれたのね」
ルリはそう思いながら、霧沢の胸の中へと飛び込んで行った。霧沢はそんなルリをしっかり受け止めて、きつくきつく抱き締める。
「アクチャン、私……私、やっぱり乗れなかったの……、どうしても東京に帰れなかったの」
「もういいんだよ。これからは、ルリを絶対に辛い気持ちにはさせないから……。ずっと僕は、そばにいるよ。そして絶対に幸せにしてみせるから」
「もう、行方不明にならないでね」
「どこへも行かないよ」
こうして、二人はしっかり抱き合って唇を重ねる。
「ルリ、……、結婚しよう」
「ありがとう。これでアクチャンは、本当に私の守護神になってくれたのね」
「そうだよ、ルリをずっと愛し、守っていくよ」
「じゃあ、証明して」
ルリが霧沢に、その証を求めてくる。
「これが、その誓いの証明だよ」
霧沢はそう囁き、もう一度ルリを強く抱き締めた。そして世界で一番、それはそれは甘くて長いキスをするのだった。
そんな二人だけの時の流れの中で、霧沢は〔紺青の縁〕の青薔薇二輪の絵を足下へ落としてしまう。
ドンと鈍い音がする。しかし二人にとって、もうそんなことはどうでも良いことなのだ。
今はただただ燃えるような熱いキスに没頭している。それは互いに舌を深く絡ませ合って、二人の切れない縁を確認し合っているかのようでもある。
古都京都の晩秋の奥深い夜空に、どこまでも青白く澄み切った、しかし少し下弦に欠けた
そんな明澄な月の光に包まれて、霧沢亜久斗とルリの赤い糸は、ここにしっかりと結ばれたのだった。
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