第10話 ママ・洋子の涙

 ルリとの狂おしい一夜の情交があって、一ヶ月の月日が流れた。時はすでに晩秋の頃、霧沢の仕事の方は多忙きわまっていた。


 ルリは「私たちの縁は、決して結ばれないものだったのかも知れないね」と置き手紙で書き残した。そんなルリとの接触はその内にと思いながらも、もうあの秘め事からコンタクトすることは途絶えていた。

 そして今夜は博多へと出張で出掛けなければならない。京都駅午後七時五二分発の新幹線五一号、その切符はすでに手元にある。霧沢はバタバタと仕事を終え、オフィスを出ようとしていた。

 そんな時に、洋子からオフィスに電話が掛かってきた。


「霧沢さん、御無沙汰してます。忙しいところ突然に、ゴメンなさいね」

 洋子は申し訳なさそうに話してくる。

「気にしないで、どうしたの?」と、霧沢はさらりと訊いた。すると洋子は少し低い声で神妙に返す。

「霧沢さんに大切な物を渡したいから、お店が始まる前に、ちょっと寄ってもらえないかしら」

 博多への出張で、霧沢には時間の余裕がない。しかし、ママの声のトーンからして、なにか事の重大さが伝わってくる。霧沢は京都駅に向かう途中で、クラブ・ブルームーンを訪ねることとした。


 そしてタクシーで駆け付けた祇園花見小路、そこは閑散としていた。未だ華やかな夜の様相にはなっていない。夜の蝶が乱舞する風景とはまったく違う風景がそこにはあった。

 きらびやかなネオンやサインボード、それらが目印となって、いつもならすぐにクラブ・ブルームーンに辿り着ける。しかし今日は、それらが光りを放つ前であり、クラブがどこにあるのかを見失いそうだ。

 霧沢はやっとここだと見付け出し、重いドアーを押し込んで中へ入って行った。店内は夜の艶麗えんれいさとは裏腹に薄暗く、異常な静寂がそこにあった。

 そしてママ洋子はそんな中にぽつりと一人、いや目を凝らして見るとそうではなかった。二歳くらいの幼い女の子と一緒に奥のシートに座っている。


「霧沢さん、いらっしゃい、こちらへ来てちょうだい」

 ママが声を掛けてきた。

「元気だった? ところで、どうしたの?」

 霧沢はそんな言葉を発しながら、ママ洋子の正面に腰を下ろした。

 さらに、その幼い子はママの娘だとすぐに見て取って、「今日はお母さんと一緒で、いいなあ、可愛いね」と微笑んでみせた。これは冗談ではなかった。霧沢は本当に母親と一緒でいいなあと思ったし、まことに可愛いとも思った。


「ゴメンね、子連れで、この子、愛莉あいりって言うのよ。パパは事故死したことになってしまったけどね」

「えっ、それってどういう意味?」 

 霧沢は、いきなり洋子の口からとんでもない発言が飛び出してきて、まずはど肝を抜かれた。洋子はそんなぶったまげている霧沢に、さらに無感情に続けてくる。

「あれは密室の出来事やったけど、多分、宙蔵さんは誰かに殺されたんよ。だってあの人、煙草は吸うけど、ベッドなんかで、一度も吸ったことなんかあらへんわ」

「ふうん、そうなんだ。それって警察に話しをしたの?」

「もちろんそう伝えたわよ。だけど密室内の出来事でしょ、私のような愛人の憶測なんて、結局取り上げてくれなかったわ」

 霧沢は、洋子が口惜しげに語るこんな話しに、「へえ、そうなのか、それは残念だね」としか答えられない。そして洋子は、そんな霧沢の同情に気を緩めたのか、「私、シングルマザーなんよ。パパは愛莉を認知してやろうと約束してくれてはったのに……、嘘吐かれちゃったわ」とやり切れなさそうに嘆く。


 霧沢はその幼い女の子を再度眺めてみると、どことなく花木宙蔵の面影があるようにも見えるのだ。

「愛莉ちゃんて、良い名前だね、お母さんが付けてくれたんだね」ともう一度声を掛けた。

 幼児はまだ言葉をうまく喋れないのか、じっと霧沢を見つめてくるだけ。しかしその瞳は、特に霧沢を恐がる風でもなく、むしろ何か助けを求めるような眼差しだった。

「愛莉って名前は、パパが付けてくれはったんだよね」

 幼子の代わりに洋子が返してきた。そしてぎゅっと抱き締める。霧沢は「そうなのか」と声を詰まらせ、「思い出させてしまったかな、ゴメンね」と謝った。

 洋子はそんな霧沢の気遣いを有り難く思っているようだが、それとは裏腹に言い放つ。

「また新しいパトロンを見付けて、しぶとく生きてやるから。安心して」

 霧沢は洋子からのこんな力強い言葉を受けてか、正直ある一面ほっとした。

 そして一方で、「洋子は宙蔵のパトロンで、ルリはやっぱり宙蔵とは関係なかったのだ」と不埒ふらちなことを巡らせる。


 そんな心の動きを洋子は読み切っているのか、「もう宙蔵さんの話しは止しましょう。それで霧沢さん、忙しいんでしょ、だから端的に話しをするわ」と話題を変えた。

 そしておもむろに一枚の絵をテーブルの上に出した。それはいつぞやママ洋子が見せてくれた〔紺青の縁〕と題する青薔薇二輪の絵。それがあまりにも無造作に目の前に出されたものだから、その意外さで、霧沢はそれに見入ってしまった。

 そんな霧沢に、洋子が有無も言わさぬように話した。

「霧沢さん、これ、受け取って」


 それはあまりにも唐突で、霧沢は「えっ、なんで? この絵って、洋子さんの友達が、好きな人に渡す絵なんだろ?」と驚きながら問い返した。

 すると洋子は「霧沢さん、ちょっとここのサインを見てみなさいよ、A/Rとあるでしょ、これイニシャルなんよ。Aは亜久斗さんのA、RはルリのRよ。この絵がどうしてここにあるのか、この間お話ししたでしょ、わかった?」と言って、じっと霧沢を睨み付けてくる。

 霧沢は言われるままにそのサインを目を凝らして見てみる。確かにA/Rとある。


「えっ、これって――、ルリが描いた絵?」

 霧沢は仰天した。なぜなら、ルリのタッチは淡い透明水彩画風のはず。その絵はあまりぼかしを利かさず、深い紺青の色で力強く描かれているからだ。

 その上に、洋子がルリのことを知っていたことが信じられない。

 学生時代、ルリは霧沢のガールフレンドだった。そして洋子は、下宿の近場のスナックでアルバイトをしていた女の子。霧沢は二人を別々に知ってはいたが、ルリと洋子が繋がっていたとは知らなかった。


「洋子さん、なんでルリのことを知ってるの?」

 霧沢は、かってのスナックでの自分の振る舞いが洋子からルリに暴かれてしまっていそうで、その絵どころの話しではなく、すぐさま尋ねた。

 洋子は別段驚いている風でもない。

「あらっ、霧沢さん、知らなかったん? ルリは私の親友よ、霧沢さんがいなくなっていた時にね、ルリと一緒に暮らしていたのよ。ルリは私のアパートのルームメートだったわ、ホント苦しい時代を共に助け合って過ごした仲なの。女でもね、同じ釜の飯を食べた友っていうのがあるのよ」


 霧沢は自分自身がいなかった時のことを聞かされて、「世間とは意外にも狭いものだなあ。それぞれの縁はどこでどう繋がっているかわからないものだ」と感じ入った。

 しかし、霧沢はその縁が不思議で、「ルリとどうして知り合ったの?」と訊いた。

「それがね、今から考えるとそうだったかなあと思うのだけどね、霧沢さんがいなくなってすぐの頃のことよ。ルリがね、私のアルバイト先のスナックにたった一人で来たんよ。その時、私たち二人でグルメ話しで盛り上がってしまってね、それから親しくなったんだけど、あれはきっと、ルリが確かめに来たのだわ、私が霧沢さんを隠してるんじゃないかってね」

 霧沢はこんな洋子の話しに「へえ、そうだったのか」としか相槌が打てない。


 一方、洋子は今さら何を驚いているのよという風な顔をして、「ルリね、ずっと誰かさんを待っていたこと、私も知ってたわよ、だけどそれが誰なのか私わからなったの。まさかそれが霧沢さんだとは気付きもしなかったわ。それをこの間ルリから打ち明けられてしまってね、ホントびっくりだったわよ」と一気にここまで喋って、霧沢の反応をうかがってくる。


「だけどママね、この間初めて身体を合わせたのだけど、その後、ルリは汚れてしまっていると言ってね、俺から去って行ってしまったんだよなあ」

 霧沢はこんな調子で、ついついルリとの一夜の艶事を暴露してしまった。すると洋子は霧沢にじわじわと詰め寄ってきて、怒りを露わにする。

「アホ! 霧沢さん、何にもわかってへんのやね。多分、花木宙蔵のことを疑ってたんやろ。アイツは私のパトロンやったんよ、その証拠に愛莉を授かったわ。だからルリは、宙蔵とはまったく関係ないっチューの」

 洋子はここまで畳み掛け、きりっと姿勢を正す。そして霧沢を真っ正面に見据えて、声を落としさらに訴えるのだ。


「この際だからはっきり伝えておくわ、ルリだって、そりゃあいろんなことがあったわよ。だけど霧沢さんを待つ身が寂しい、そんな独りぼっちが女にはどうしようもなくなる時があるんよ。だって八年間よ、わかってんの、この時間の長さを、……、女は身体が疼くんよ、そんな時だけ、私が慰めて上げてたの。それでルリはね、それが霧沢さんに対しての汚れだと思い込んでしまってるのよ」

 霧沢はこんな洋子からの話しを聞いて、もう言葉がなく押し黙ってしまった。

 洋子は、そんな沈黙を無理矢理に破るように、さらに強く霧沢に言い切る。

「だから、ルリは綺麗なの!」


 その後、洋子はとてつもなく大きな声で泣き出し、そしてまた叫ぶのだった。

「霧沢さん、ルリを――、早く何とかしてやんなさいよ。これって、男の責任よ!」

 霧沢は何のことかわからない。「男の責任て?」と、ついつい聞き返してしまった。

「バカ! ルリは今夜の七時五三分の新幹線で、東京へ帰ってしまうわ、もう戻って来ないんよ、二人の永遠の別れなんだよ」

 洋子はこう絶叫し、より一層の大泣きをするのだった。


 霧沢には明日どうしても外せない仕事が博多であり、今夜移動しなければならない。そのために七時五二分発のひかり五一号で京都駅から出発する。一方ルリは、同じ今夜の七時五三分の五〇号で京都駅から東京へ帰ると言う。

 七時五二分と五三分の一分違いの新幹線。

 しかし霧沢は西へと、そしてルリは東へと。まったく反対方向へと、京都駅から離れて行くことになる。


 今、ママ洋子から手渡された〔紺青の縁〕の青薔薇二輪の絵が霧沢の手元にある。ルリはそれを描き、二人のイニシャルのAとR、そのサインを入れた。

 青薔薇の花言葉はエターナル・ラブ、つまり永遠の愛。

 ルリは二人の永遠の愛を築いていくために、そしてその踏み出しをするために、今日までの八年以上の月日をずっと待ち続けていたのかも知れない。


 しかし、そのためには、巻き込まれてしまっている友人たちとの複雑な渦から抜け出さなければならない。自分の身の回りのすべてを拭い去り、そこから這い上がるために、ルリはその肉体を霧沢に委ね、きっと異なった宿命を作りたかったのだろう。

 しかし、ルリは霧沢がもっと真剣になってくれないと渦巻きから這い出せない、多分そう思い知ったのかも知れない。

 霧沢はそんなことを思い、ルリが無性に愛おしくなってきた。

 今すぐにでも逢いたい。

「ママ、わかった。行く方角は違うけど、俺も出張で、同じような時間に新幹線に乗るから、とにかくルリに逢ってみるから、ありがとう」

 霧沢はルリを気遣う洋子にそう約束をした。

「絶対にそうするんやで。さあ、早く行ってやって」

 洋子は親友ルリのためにそう訴え、涙を拭いている。そしてその横では、幼子の愛莉が可愛い瞳で、母の洋子を心配そうにじっと見つめている。


 なぜか霧沢の眼の奥に、そんな愛莉の残像がしっかりと刻み込まれた。

 そして、それを拭うこともなく〔紺青の縁〕の絵を小脇に抱えて、霧沢は京都駅へと急ぐのだった。



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