第9話 置き手紙

 カーテンの隙間から差し込んでくる朝の日射しが目映い。霧沢は目を覚ました。

「あれっ?」

 あんなにも激しく、鬼気迫るほど燃えたルリが……。

 このベッドの中で、一緒に眠っているはずのルリがいない。

 霧沢はベッドから下り、バスルームの方を覗いてみた。

 ルリがこともあろうか部屋から消えてしまっているのだ。そして、霧沢はテーブルの上に置かれた一通の手紙を見付ける。

 それを手にして、まだ眠気のある目をこすりながら読んでみる。



 アクちゃんへ


 二人だけの夢の世界へ連れて行ってくれて、ありがとう。


 アクちゃんのいなかったこの八年間。

 いろんなことがあって……。

 そして、今も続いているわ。

 たとえば、ジャズ喫茶店に飾っていた花木宙蔵の〔青い月夜の二人〕の絵。

 桜子が高く買い取ってくれたわ。

 多分、なにかの口止めなんでしょうね。


 だけど、夕べアクちゃんに抱かれて、

 たとえ一時でもそんなことを忘れることができたわ。

 その上に、「アクちゃんの宿命と私の宿命は、もう一緒になったのね」と厚かましいことを囁いてしまったね。


 アクちゃんが思っている通りよ。

 私は、やっぱりけがれてしまっているの。

 それに、これ以上アクちゃんに、迷惑を掛けられない。

 だから、もういいのよ。

 元の霧沢君に戻って。

 私たちの縁は、決して結ばれないものだったのかも知れないね。


 けれど……

 もし霧沢君にもっと強い気持ちがあって、

 いつかまた逢うことがあるのなら

 その時までに、私

 もう少し身も心も綺麗にしておかないとね。


                    ルリより



 霧沢はこんなルリからの置き手紙を読んで、二人の行き詰まりを感じた。

 ルリは身も心も汚れてしまっていると言う。この八年間で、どう汚れてしまったと言うのだろうか。霧沢には本当の所がわからない。

 そしてルリは「これ以上、アクちゃんに迷惑を掛けられない、元の霧沢君に戻って」とまで書き、まるで自分を責めるかのように去って行った。


 霧沢はもう一度ルリの手紙を読み直した。そして、無理にこじつけたような疑念が膨らんでくるのだった。

「そうか、あの〔青い月夜の二人〕の絵、あれは宙蔵とルリを表していたのか。ルリはやっぱりこの八年間、宙蔵に抱かれてきたのか」


 ルリとジャズ喫茶店で再会した時、冗談ぽく「私、ずっとここで待っていたような気がするわ」と言っていた。さらに、「私、ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・トゥの歌が好きなのよ」とも言っていた。

 その歌詞は「君が帰りを待っていてくれたら、それは最高」で始まる。これはどちらかと言うと、戦地に出た兵士がそう願う歌。ルリは、霧沢がそういう気持ちであって欲しいと望んでいたのではなかろうか。


 しかし現実には、この八年間、霧沢はルリの目の前から消えてしまっていた。そんな長い寂しさの中で、ルリは宙蔵に慰められていたのか。

 学生時代、淡黄の月のロマンチックな夜に二人は歩いた。だけど霧沢は触れてもくれなかった。そして何も言わずにどこかへ消えて行ってしまった。

「なぜなの?」

 ルリはそれだけを霧沢に確かめたくて、ずっと待っていたのかも知れない。


 あの若い時、抱き締めてくれていてさえすれば、八年の長い歳月を待つことはなかったはず。

 そして汚れることもなかった。

「なぜなの?」

 そんなルリの嘆き、それはきっと深過ぎる。結局のところは、一夜の狂った艶事つやごとだけでは、ルリの心の奥底に眠る嘆きの解決にはならなかったのかも知れない。

 霧沢は勝手な解釈で、そう思い巡らすのだった。


 しかし、よくよく考えてみれば、花木宙蔵はクラブ・ブルームーンのママ洋子のパトロンだった。

 一体これはどうなっているのだろうか? 霧沢には全体像が見えてこない。

 それであるならば、今は執拗にルリを追い求めず、ルリの好きなように振る舞わさせてやろう。そしてルリが自分で言う、身も心も綺麗になるまでそっとしておいてやろう。そうすることが、まずはルリへのつぐないの果たし方ではないだろうか、霧沢はそんなことを独善的に思うのだった。


「あ~あ」

 霧沢はなんとも言えない大きな溜息を一つ吐いた。そして、こんな複雑で鬱々うつうつとした思いを払拭ふっしょくさせるために、思い切りカーテンを開けてみる。

 朝の陽光が一気に窓ガラスを通して部屋に差し込んでくる。

 その瞬間、霧沢の目は衝撃的に釘付けにされてしまうのだ。


 ガラスの表面に、キラキラと乱反射しているものがある。

 それは、昨夜のルリとの淫靡いんびな秘め事の時。ルリは窓ガラスに、その細くて長い指の手の平を貼り付かせた。そして中天の青白い月を睨み付けながら、昇りつめたのだ。

 その絶頂の証の紅葉の手形、それがそこにある。

 その狂った愛の痕跡が今乱反射をして、美しく光り輝いている。

 ルリは「そのまま残しておいて」と淡泊に乞うてきた。そのせいか余計にルリの拘った意思を感じ取った。

 霧沢はそれにそっと触れてみる。今でもルリのその熱い脈動が伝わってくるように感じられる。


「やっぱり消さずにおこう」

 霧沢はそれを消してしまうと、ルリとのすべてを失ってしまいそうな気がした。

 そのためか、その愛の名残なごりをそのままにして、ルリを初めて抱いた部屋を出て行ったのだった。



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