第29話 紺青の縁

 霧沢亜久斗、六十歳、その年の八月十六日。その日は京都五山の送り火の日だった。

 霧沢は妻のルリと夏の茹だる昼下がりに出掛けて行った。

 最初に立ち寄った所が思い出の一杯詰まったジャズ喫茶店。そして、今暮れなずみ行く中、嵐山へと向かっている。


 そもそも五山の送り火は、先祖のお精霊しょらいさまをお迎えし、そして供養するもの。その後に、極楽浄土へとお送りする行事なのだ。

 その五山の中でも、嵐山の送り火は鳥居形。それは夜八時二十分に点火される。そして、それを渡月橋とげつきょうから望める。

 また嵐山の中之島公園では、桂川の灯籠流しが催される。それはお精霊さまに灯籠に乗ってもらい、浄土へとお送りする行事。


 霧沢とルリは北野白梅町から嵐電らんでんに乗り、嵐山へと電車に揺られている。

 カタンコトンと心地良い響きを身体全体に感じながら、龍安寺りょうあんじ妙心寺みょうしんじ御室仁和寺おむろにんなじを通り過ぎて行く。そして三十分ほど揺られて、嵐山駅に到着する。


 二人は駅舎の人混みを抜け出し、渡月橋へと歩いた。

 日はすでに西へと落ち、夜のとばりが辺りを包み始めている。しかし、鳥居形の送り火を一目見ようと浴衣姿の人たちで賑わっている。

 そんな中へと霧沢とルリは身を埋めてしまい、汗ばむ身体を寄せ合って、何も言わずにじっと待っている。

 時間は確実に刻み行き、いつの間にか八時となり、そして八時二十分となった。こうして五山の送り火の一つ、鳥居形が時間通りに点火されたのだ。

 この一瞬を待っていた多くの人たちから、わあと歓声が上がる。大文字ほどの激しさはないが、それぞれの炎の塊が点々となり、そしてそれらは線として結ばれ、鳥居形の火の絵を夜空に浮き上がらせる。その盛りに、山はこれでもかと紅く染め上げられていく。

 そしてその後、うたかたの勢いは衰え、炎は淡くなり儚くも消えていく。そんな真夏の古都の伝統行事は二十分ほどで終了する。

 そして人たちは、そこにこの世の諸行無常を感じ取ったのだろうか、賑わいは静まり、それぞれの日常へと戻っていく。


 霧沢とルリも人に押されるように歩き始めた。だが二人がそこから向かった先は、渡月橋を西へと渡り切った所にある中之島公園。そこで執り行われている灯籠流しへと進んだ。

 お精霊さまに灯籠に乗ってもらい、浄土へとお送りするために、多くの人たちは会場で手続きを待っている。

 霧沢とルリもその順番を待った。そして手続きを完了させ、五人の灯籠を流した。


 その五人とは、霧沢とルリの友人たち。

 花木宙蔵に洋子、そして桜子、さらに滝川光樹と沙那。

 霧沢にとっては、学生運動でキャンパスが揺れていた頃、美術サークルを通し、またその周りで縁あって出逢った友人たち。

 しかし卒業後、霧沢は海外へと飛び出し、連絡を断った。そのために八年間の空白ができてしまった。そして挫折を背負って京都へと戻り、ヘレン・メリルの哀愁ある歌声が流れるジャズ喫茶店でルリと再会した。

 そこからまた繋がり、それぞれの友人たちと再会していった。


 だが、すでにルリを含めた友人たちは、まるで渦巻きに巻き込まれたかのように複雑に絡まり合っていた。霧沢も、あの頃予感したように、その渦巻きの中へと嵌まって行った。

 そして、その後の三十年の歳月が流れる中で、不幸な四つの出来事が起こり、友人たち五人との辛くて悲しい別れがあった。

 そして今、霧沢とルリのたった二人だけが残されたのだ。


 そう言えば滝川沙那は「過去を全部消して上げるわ」とルリに伝えた。

 そして夫の光樹と共に冬山の山道から谷底へと、自らその命を絶ってしまった。

 八月十六日の今宵、霧沢とルリは五人の冥福を祈り、灯籠を流した。

 霧沢はこれで沙那の約束通りに、気持ちの整理がきっちりと付いたような気がする。


 しかし、思えば悪いことばかりではなかった。

 宙蔵と洋子から天使を預かり受けた。

 その愛莉は、光樹と沙那の一人息子の大輝と結婚した。そして今仲良く暮らしている。

「愛莉がお目出度だって、あなたは、おじいさん、ジージー、それともグランパ、どう呼んで欲しいの?」

 二、三日前に、ルリが霧沢をからかうようにこんなことを聞いてきた。そろそろ孫の顔が見られそうだ。

 また息子の遼太は、どうも宙蔵と真由美の間にできた娘、優菜にほの字のようだ。婚約の日は間近いだろう。


 そして霧沢にとって一番嬉しいことがある。

 それは異母ではあるが、その優菜が愛莉の妹だということだ。

 いつ愛莉に打ち明けてやろうか。その時の愛莉の驚きの顔が目に浮かぶ。今から胸をワクワクとさせている。

「これからは姉妹仲良く、親たちの不幸分、幸せに生きて欲しい」

 霧沢はそんなことを思いながら、ルリと並び、渡月橋の西のたもとまで戻ってきた。


「ねえ、アクちゃん、この橋を渡る前に、二つお願いがあるの」

 妻のルリが突然霧沢のことをアクちゃんと呼んできた。

 三十年前ルリと再会し、鴨川の淡い月光の中を歩いた。そして、ルリは「キスして」とせがんできた。

 それまで霧沢は霧沢君と呼ばれていた。だがそれ以降、ルリは愛称のアクちゃんと呼ぶようになった。そして当然のことなのだが、結婚してからは「アクちゃん」は「あなた」に変わった。


 還暦となり、これから老いを迎えつつある二人。それでもルリは、なぜ今ここで、突然にアクちゃんと呼び出したのかがわからない。霧沢は、それはまたいつものルリの気まぐれかとも思い、「何だよ、二つのお願いって?」と訊いてみた。

 ルリはそれを待ってましたとばかりに、「一つ目はね、この橋を渡ってる間、絶対に後ろを振り返らないでね」と言う。

 霧沢はそんなことはわかっている。嵐山の法輪寺に、知恵もらいの十三詣りをした子供が橋の上で振り返れば、そのもらった知恵を返してしまうという言い伝えがある。

 そして、それは今、渡月橋を渡るカップルが後ろを振り返ってしまえば別れがある、そんな伝説めいたものを生み、噂されている。


「ああ、もちろん振り返らないよ」

 霧沢はそう軽く返し、「それで、二つ目のお願いって、何?」と訊いてみる。

 するとルリは、「ねえ、アクちゃん、憶えてる? 私たち、あれを残してきたでしょ」と、少し口ごもりながら話すのだ。

 しかし、霧沢は妻の言うあれがわからない。

「あれって、何を残してきたんだよ?」とすぐさま聞き返した。

 いつの間にか、ルリは霧沢の腕にぶら下がるように寄り掛かってきている。そして少し語調を強めて発する。

「私、あれを消しに行きたいの」

 霧沢には、その「あれ」が思い浮かばない。ただただ「うーん」と唸るだけだった。

 ルリはそんな霧沢に痺れを切らせたのか、ついにその「あれ」を言葉にする。

「あの時、ホテルの窓ガラスに残してきたでしょ、……、私の手形よ」


 霧沢はこれを聞いてしばらく考えていたが、ようやくその意味がわかった。

 まさになるほどと思った。

 そして当時のことが霧沢の脳裏にまざまざと蘇ってくる。

 シティホテルの窓から見た月は、その輝きを透明にし、中天に青白くぽかりと浮かんでいた。

「あのお月さんまで、二人で飛んで行けたら、いいわね」

 確かルリは、そんなことをぼそぼそと小声で呟いた。

 その後に、「ここでお月さんを見ながら……、して」と、ルリはせがんできた。

 そして、「ああ、あの月に、アクちゃんと一緒に」と言いながら、ルリはイッタのだった。


 事が終わり、霧沢がルリの手をゆっくりと窓ガラスから外すと、そこには紅葉のようなルリの手形がガラス面に浮き出ていた。

「ルリ、見てごらん、ルリの手の跡が残ってるよ。消しておこうか?」

 霧沢はそう尋ねてみた。

「ううん、いいのよ。そのまま残しておいて」と、ルリは淡泊に返してきた。

 霧沢はそれを、まるで愛の痕跡こんせきを残しておきたいというルリの意思の表れなのだろうかと思った。


 霧沢がルリの前から消えた八年間、二人で残した痕跡は何もなかった。あったのは想い出だけを思い出す、そんなやり切れない日々だった。

 そしてその翌朝、ルリは置き手紙を残し、部屋にはもういなかった。だが、ルリの絶頂の証の紅葉の手形、それが朝の陽光に乱反射し、美しく光り輝いていた。

 霧沢はそれを消してしまうと、ルリとのすべてを失ってしまいそうな気がした。そのため、その愛の名残なごりをそのままにし、部屋を出て行った。

 霧沢はルリとの初めて夜のことを、渡月橋の賑わいの中でフラッシュバックするかのように思い出した。だがそれは三十年前の出来事。

「そのシティホテルに泊まっても良いけど、もう時が経ってるから、同じ部屋なんてないし、多分窓ガラスも変わってしまってるよ、ルリ、それでもいいの?」

 霧沢は今まで連れ添って共に頑張ってきてくれた妻を思い、できるだけ優しく聞き返した。


 夫婦喧嘩もしたし、事実離婚の危機もあった。だが霧沢はそれをも包み込み、ルリを一途に愛してきた。

 ルリにはわかっている。霧沢は随分とルリの我が儘も聞いてきてくれたと。

「ううん、いいの、もう部屋はなくなっていても。そこへ泊まるのを一つのセレモニーにしてね、過去を完璧に消し去って、私たちの切っ掛けにしたいのよ」

 ルリはこんなことを囁いてくる。

 霧沢はセレモニーにしろ何にしろ、ルリを初めて抱いたホテルに泊まりに行くことはやぶさかでない。しかし、「切っ掛けって、何の切っ掛けにするの?」と尋ね返した。


 するとルリは「ふふふ」と小さく笑ってじらしてくる。こうなれば霧沢は余計に知りたくなる。「何だよ、切っ掛けって、早く言ってよ」とせっついた。ルリは澄ました顔をして、自信たっぷりに話す。

「アクちゃんね、沙那が全部過去を消してくれたわ、だけどね、私たちには一つだけ消えずに残っていたのよ。それが、あの紅葉のテガタよ。アクちゃんは、またいつ過去を振り返るかも知れないでしょ、だから、これも消してしまいたいの。これからの私たち、新たな気持ちで共に穏やかに歩んで行くために、……、その切っ掛けにしたいのよ」


 霧沢は「なるほど、そういうことなのか」と思い、もう言葉が出てこない。そして、ぼうと嵐山の山並みを眺めてみる。

 そこには鳥居形の五山の送り火で紅く燃え輝いていた山はなく、どこまでも深い青、そう紺青の山々が連なっているのが見える。

 ルリはかって〔紺青の縁〕と題し、永遠の愛が花言葉の二輪の青薔薇を描いていた。

 今二人を大きく包む山並み、それは同じ色調。そう、紺青にその色合いを深めていっている。霧沢はルリとともにその色に溶け込みながら、ついつい思いに耽ってしまう。


「ルリと学生時代から今日まで歩んできた人生、それは二輪の青薔薇を探す旅、その花言葉通り、エターナル・ラブ(Eternal Love)、つまり永遠の愛を見付ける旅だったのかも知れないなあ。しかし、それはまだ終わっていない、そしてこれからの第二の人生でも、ルリと一緒に青薔薇を探す旅は続いていくのだろうなあ。……、こういう男と女の関係を、ひょっとすれば、紺青の縁で結ばれた二人と言うのかも知れないなあ」

 霧沢はこんな漠然とした思考で、棒立ちとなってしまっている。そんな時に、ルリが霧沢の脇腹を、学生時代にふざけ合った時のように指で突っついてきた。


「さっ霧沢君、もういいでしょ。この渡月橋の橋の向こうまで、後ろを振り返らずに、私を連れて行ってちょうだい」

 ルリは今、まるで十八歳の女学生。そう、二人の人生の原点に回帰したかのように、霧沢君と呼び、エスコートを迫った。そして霧沢の手をしっかりと握ってくる。

 これで霧沢ははっと我に返り、ルリの手を強く握り返した。そして少し大きな声で、まるで男の宣言かのように伝えるのだった。

 それは四十年前の賀茂川で、ルリに触れることもできなかった純な学生の霧沢君まで戻り、その場面の映像を今撮り直すかのようにだ。

「わかった、ルリさん、ここからスタートだよ。橋の向こうにある新たな人生、そこへ君を連れて行くよ。そして、君を永遠に愛し、――、もっと幸せにしてみせます」


 これをしっかり聞いていたルリは、少し年老いたのだろう、目尻に皺を浮き出させ、充分その誓いの言葉に満足しているかのように、霧沢に微笑む。

「この日を待ってたわ。私のなぜなの、……、なぜ紺青の縁は見付からないのと、学生時代からずっと探したり、嘆いたりもしてきたわ。だけど今やっと霧沢君が真剣に私への永遠の愛を誓ってくれたのね」

「ああ、もちろんそうだよ」

 霧沢は自分の決意が堅いことを伝えた。ルリはそれを聞き、ほっと安心したのか、本心のようなことを漏らす。

「霧沢君にはわかってもらえそうもなかった四つの出来事、少し時間が掛かってしまったけど、霧沢君はそれらをやっと咀嚼そしゃくし、心の奥底へと仕舞い込んでくれたのだよね。だから、もう振り返らないで。これでやっと私たちは一蓮托生、そう、紺青の縁で結ばれたことになったのよ。――、これからも仲良くしてね」


 霧沢はこんなドキッとするようなルリのセリフを耳にした。

 これにより、心の奥深い所に眠り続けてきた禁断の憶測が……、一瞬ではあったが蘇り、かすかに脳裏を過ぎっていく。


 それは八年振りにジャズ喫茶店で霧沢とルリは再会した。

 それをきっかけとして、ルリは誰にも言えない宙蔵との汚れた男女の縁を切るために、密室殺人のストーリーを組み立てた。

 そして、宙蔵を邪魔だと思っていた桜子と龍二に実行させた。


 さらに、その事実を知った洋子を、今度は高速道路を使ったアリバイ工作を考えだす。

 そして桜子と龍二に働きかけ、首吊り自殺を偽装する方法で殺害させた。


 その後、年月を経て、新幹線こだまのアリバイ工作を、老舗料亭・京藍を自分のものにしたい龍二に、その息子を通じ教えた。

 そして、すべての悪行を知ってしまっている実行犯の桜子を殺めさせた。


 最後に、何もかもの過去を消すために、光樹と沙那に罪の意識を植え付け、二人を心中に追い込んだ。

 そして残る龍二にすべての罪を被せた。


 四つの出来事の真実、それは絡まり合い捻れた縁から抜け出すために、ルリがシナリオを書いた。

 そして直接的には手を掛けず、友人たちに一つ一つ執行させて行った。

 その一方で、妻ルリ自身が最後まで幸福に生き残れるように、生涯を掛けて霧沢をナビゲートしてきた。


 こんなおぞましい、そして恐ろしい勘ぐりが霧沢の脳裏をかすめて行くのだった。


 しかしここはまず、妻からの要求、「これからも仲良くしてね」にすぐさま応えなければならない。

 霧沢はきりっと直立不動となり、今しがたまでの忌まわしい不安を払拭させ、ルリへの愛の気持ちを握ったこぶしにぎゅっと凝縮させた。それから何はさておき、「はい、これからも仲良くさせて下さい」と真摯に返した。


 しかし、霧沢の胸の内はそう単純なものではなかった。

「四十年前、女子学生のルリはフレッシャな青いレモンのようだった。夏になるとホットパンツから伸びた白くて長い足で、青春を一人占めするかのように跳ねて歩いていた。そして縁あって知り合った友人たち、ルリはその中で誰よりも一番幸せになりたいときっと願っていたのだろう」

 霧沢は学生時代のルリのことを思い出した。


「しかし、卒業後の俺がいなかった八年間、ルリは宙蔵を始めとする友人たちとの歪んだ縁の渦巻きに巻き込まれてしまい、身動きが取れなくなった。そして幸せを独り占めするためには、そんな過去を、ルリは一番消したかったのだろう。だから、ここに至る四つの出来事、それらは妻のルリによって、夫の俺も含め、友人たちも見事にあやつられた結果なのだ。

 つまり、真のシナリオライターはルリであり、――、首謀者だったのだ」


 確かルリは言っていた。

「知り過ぎない方が良いこともあるのよ」と。

 霧沢は今、そんなとんでもない、そして危険過ぎる疑念を一層深くしつつある。

 こんな四つの出来事を、早く完璧に解決済みとしたい。

 いや、全部忘れてしまいたい。

 渡月橋の橋の向こうへと渡ってしまえさえすれば、これからの妻ルリとの穏やかな第二の人生がきっと開かれるだろう。

 どうもそのような気がする。


 霧沢はルリの手をしっかりと取った。

「ルリ、そうだよ、俺たちは紺青の縁で結ばれているから。新幹線のホームでプロポーズした時に誓った通りだよ。ルリを永遠に愛し抜く、だから何があっても、ずっと守っていくから」

 霧沢亜久斗は何かが不安で、もう一度自分の気持ちに念を押すかのように声を上げた。


「アナタ、きっとよ。これからも、――、私を守って!」

 ルリがいつになく、大声で叫び返してきた。


 この後、二人は決して後ろを振り返ることなく、急ぎ足で西から東へと橋を渡って行った。

 そして橋の東の袂へと辿り着いた。

 霧沢はなんとなくほっと一安心する。


 そんな時だった。

 袖口がすり切れ、くたびれたジャケットを着た男が二人の前へと歩み寄ってきた。

 そして、黒い警察手帳を差し出し、低い声で告げたのだった。


「霧沢ルリさんですね。……、任意同行願います」



                        おわり


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紺青の縁(こんじょうのえにし) 鮎風遊 @yuuayukaze

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ