第28話 ターン・ミー・オン

 霧沢が真由美を訪ねたのは、街角からコンチキチンと祇園祭のお囃子が聞こえてきていた夏の始まりの頃だった。

 それから季節は移ろい、古都京都に本格的な夏がまた巡ってきた。

 蝉の声が寺社の境内から五月蠅く響き渡ってきて、暑さがよりだっていく。そして、その一年の盛夏を締めくくるかのように八月十六日がやってくる。


 その日は五山の送り火。大文字、左大文字、妙法、舟形、鳥居形の火が夏の夜空に赤々と燃え上がる。

 霧沢が定年退職をしたのは、この三月末。四月からルリとの第二の人生が始まった。しかし、過去の四つ出来事の真実が知りたくて、考えを巡らす日々が続いていた。

 そして、霧沢の思考の中から漏れ落ちていた「誰か一人」、それは龍二の妻の真由美だった。そして会ってみれば、真由美は三十年前のチーママのマミだった。


 真由美の口から語られた往時の出来事。これらで霧沢の疑問は氷解し、龍二の逮捕ですべての謎が解けた。

 こうして、霧沢は遅まきながらも第二の人生へと踏み出す踏ん切りがつき、そろそろルリと一緒に絵でも描いてみようかと思っていた。

 そんな時に、妻のルリが話し掛けてきた。

「ねえあなた、八月十六日は五山の送り火でしょ、昔アルバイトしていたジャズ喫茶店へ行ってみたいの。その後、嵐山へと出掛けてみない?」

 霧沢にとって、それは突然な話しではあったが、気持ちもすっきりしているし、また時間もたっぷりある。「ああいいよ、行ってみよう」と軽く返した。


 そして八月十六日の当日、暑い盛りの日中に二人は家を出た。

 まずはジャズ喫茶店を訪ねてみる。それは銀閣寺道から百万遍へと下る長い坂の途中にある。

 三十年前の時のことだった。海外から日本へ戻ってきた霧沢は、桜もすっかり散り終わった頃に、久し振りに東山を散策した。

 その後まるで春の風に運ばれるかのように、ふらっとここへ立ち寄った。そしてドアを押して薄暗い中へと入った。

 そこで霧沢は八年振りにルリと再会した。この二人の今ある暮らしの出発点、それはここだと思えてくる。


 そのジャズ喫茶店は、あれから少し改造されてはいたが、かっての雰囲気のままだった。霧沢とルリは、まるで学生時代にタイムスリップしたかのように、窓際の席へと当時と同じ歩調で進み、向かい合って座った。

 以前と変わらず店内は薄暗く、目が慣れてくるのを少し待たなければならない。その間、ひんやりとした冷気が熱せられた肌を冷ましてくれる。

 そしてだるくて重いジャズのメロディーが響く中、二人は戸惑いもなく、お決まりの安いブレンドコーヒーを注文した。


 時を学生時代まで遡れば、そこには幾星霜の春秋の変遷がある。しかし、それは同じ無地の白いカップに、同量の八分目が注がれて出されてきた。そして変わらぬ香りがする。

「不思議だねえ」

 霧沢とルリはそれを味わいながら、そんな言葉を同時に発した。

 今、二人はここに座り、四十年前の学生時代、そしてここで再会した三十年前のあの日から流れ去ってしまった月日の長さを実感している。

 しかし、それはどこへ消えて無くなってしまったのだろうか。二人は今ここで、あの日あの時の続きをしているような錯覚に陥ってしまっている。


 そんな時に、歳は七十歳位のマスターがカウンターの奥から「ルリさんか?」と声を掛けてきた。そして二人のテーブルまでやってきた。

 ルリは、学生時代から霧沢と結婚するまでの約十年間、ここでアルバイトをしていた。そんな旧知の仲なのか、懐かしいのだろう。ルリとマスターは昔話しに花を咲かせている。

 そんな途中に、「さあルリ、あれをマスターに渡したら、それが今日の目的だったんだろ」と霧沢は二人の会話に割って入った。

「あっ、そうそう、そうだったわ」と、ルリは思い出したようだ。そして小脇に抱えて持ってきた小包を開き、「マスター、これ、やっぱりここで飾って下さらない」と一枚の絵をマスターに手渡した。


 それは突然のことで、マスターは驚いた様子だった。だが、その絵を見てすぐに思い出したのだろう。

「ああこの絵ね、亡くなった宙蔵さんが描いたやつだね、確か〔青い月夜の二人〕と言う絵だったよな。そう言えば、洋子さんとよく二人で来てくれはったなあ」と懐かしがっている。

 ルリはそんなマスターに、「宙蔵さんからこの絵を受け取った時にね、これが洋子との生きた証だよ、このジャズ喫茶店が一番似合ってるかなと宙蔵さんが仰ってたものですから。随分と遅くなったのですが、やっぱりここで飾って欲しいのです、よろしくお願いします」と改めて頼んでいる。

「ああルリさん、いいよ、元飾ってあった所、そうそうそこのカウンターの奥だったよね、そこへ戻させてもらうよ」と、マスターは快諾してくれた。ルリは「ありがとうございます、これで胸のつかえが一つ取れたました」と礼を述べ、ジャズ喫茶店では似つかわないほど頭を深々と下げている。


 それを見ていたマスターは「ルリさん、もういいんだよ、あの時、霧沢君が戻ってきてくれたんだったよなあ、俺憶えてるよ、ルリさんの嬉しそうな顔を。それで今度は、サラリーマン社会で満身創痍まんしんそういになった霧沢君が再び戻ってきてくれたんだね。……、そうだなあ、お祝いに、ルリさんに一曲贈らせてもらうよ」と言い出した。


 霧沢はマスターのこんな話しを聞きながら、ぼんやりと思い出した。

 ここでルリと再会した時に、誰かが流してくれた一曲を。それは、ヘレン・メリルの哀愁のある歌声だった。

 そうそう、[ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・トゥ(You'd Be So Nice To Come To)]が二人の間に流れてきた。

「ああ、あれは我々の再会を祝っての、マスターからのプレゼントだったのか」と、霧沢は三十年経って今はたと思い当たるのだった。

 そして霧沢は、その時々には気付いてはいなかったが、いろんな縁と繋がってきた、そしてここまで生かされてきたのだなあと感無量となる。


「霧沢君、俺わかるんだよ、仕事が忙しかったんだろ、いっつも家を放ったらかしにして、外を飛び回っていたんだろ。そんな霧沢君を、ルリさんはこんな曲を口ずさみながら、きっと待ってたんじゃないかなあってね」

 マスターは霧沢にそう伝えて、奥へと消えて行った。そしてしばらくして、ジャズ喫茶店の薄暗い空間に、ビートの効いたメロディが流れてきた。

 それは、ノラ・ジョーンズ(Norah Jones)の[ターン・ミー・オン(Turn Me On)]。


 ルリはその歌声を全身に浴びながら、三十年前のあの時と同じように、「私、この歌が好きなのよ」とぽつりと霧沢に呟いた。

 霧沢はユーチューブでこの歌を聴いたことがある。なかなか良い曲だなあと思い、この歌の歌詞を自分なりに和訳してみたことがある。そして今、三十年前のあの時の[ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・トゥ]と同じように、その[ターン・ミー・オン]の歌詞が頭を過ぎって行くのだった。


 今、咲こうとしている花のように

 今、暗い部屋で、消えている電灯のように


 今、雨を待つ砂漠のように

 今、春を待つ子供のように


 私は、ずっとずっと、ここにいて、あなたを待っている

 早く家に帰って来て……

 私のもとへ


 ルリはこんな歌を聴きながら、少し年老いた瞳にうっすらと涙を浮かべている。そして霧沢に小さく囁く。

「お帰りなさい、あなた」


 ノラ・ジョーンズの歌声に、それは掻き消されてはいたが、確かにルリはそう口にした。霧沢は少し皺の入ったルリの手に、そっと自分の手を重ね合わせていく。


 学生時代からいろいろな思い出が詰まったジャズ喫茶店。

 霧沢とルリは、マスターから贈られた[ターン・ミー・オン(Turn Me On)]の歌声を背に受けながら、寄り添い合ってそこを後にしたのだった。



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