第13話 沙那

 霧沢は今回の『洋子のクラブ内首吊り自殺』、それは吃驚仰天きっきょうぎょうてんだった。

 だがそれ以外のことでも驚いた。桜子と光樹の事情聴取結果を警察の担当官からこっそりと聞き、絶句した。それは二人のアリバイのことではない。その男女の関係のことだった。

「伊豆の温泉に二人で出掛けるなんて、やっぱりそこまで関係は進んでいたのか」と、霧沢は開いた口が塞がらなかった。そして思い出す。

 あれは前年の夏から秋への季節の変わり目の九月のことだった。宙蔵の四十九日はすでに終わっていた。霧沢は宙蔵の密室での事故死がなんとなく合点がいかず、桜子を訪ねてみた。

 その時、奥座敷の違い棚の奥に、一枚の男と女の情交の絵が飾られてあった。その絵の左下には〔桜龍の契り〕とその画題名が書き込まれていた。

 そして桜子は「実はね、光樹が描いてくれたの」と言っていた。その後、霧沢の帰り際に小さく呟いた。

「私の人生だもの、好きにするわ。支えてくれそうだし」と。


 霧沢はそのことを今でもしっかりと憶えている。したがって、当時その言葉で、桜子と光樹との間には男女の関係があると一旦は思った。

 だがあとでもう一度振り返ってみると、あの〔桜龍の契り〕の絵のタッチは光樹の写実風のタッチではなかった。

 そしてまた学生時代の頃の光樹を思い出せば、男としては割に純で気の良いヤツだった。霧沢は学生時代の光樹に良い印象を持っていた。

 しかし今回、警察の担当官は決して不倫旅行とは言わなかったが、それを暗に匂わせた。そんな伊豆旅行の二人のアリバイの報告を受け、「ああ、やっぱりそうだったのかなあ」とも思えてきた。


 そして「同じ美術サークルにいた友達、宙蔵が亡くなり、一年も経っていない内に、しかもその女房と温泉旅行に行くなんて、光樹のヤツ、こんな巫山戯たことをよくやるもんだよ。桜子と道ならぬ恋に溺れてしまっていたのか、見損なったヤツだ」と不愉快にもなった。

 しかし、「光樹が……、なんでだろう?」と霧沢はやっぱり疑問で、どう考えても不可解な話しだと思えるのだった。

 それは滝川光樹の妻が沙那だからだ。

 あの律儀でしっかり者の沙那が光樹には付いている。

 もし光樹が桜子とそんな不道徳な女性関係を持っていたとしたら、沙那は決して光樹を許さないだろう。霧沢はそんなことを思いながら、大学三回生の出来事がぼんやりと思い出されてくる。


 あれは紅葉の時節が始まった頃のことだった。

 霧沢は美術室で相も変わらずブルータスの石膏像と向き合って、鉛筆で黒々とデッサンをしていた。そんな時に、風景画を描いていたルリが突然ツカツカと霧沢の前にやってきた。

「霧沢君、いつも真っ黒なのね、ちょっと美しい庭園でも見た方が良いんじゃない」

 霧沢はこれにムッとし、「仕方ないんだよ、キャンバスと絵の具を買うお金がないんだから。それに庭園なんて、行く金銭的余裕がないんだよ」と居直った。するとルリは「じゃあ、今回は私が奢って上げるから、予約してきてちょうだい」と命令口調に言う。


「何を予約するんだよ、南禅寺の庭を観て、湯豆腐でも食べさせてくれるのか。俺、豆腐よりもそこの中華レストランでジンギスカンと餃子の方が好みなんだが、それだったら予約なんていらないよ」

 霧沢は邪魔くさそうにぶつぶつと返した。それに対し今度はルリが反対にムッとする。

「バーカ、ほんと品がないわよね。修学院離宮の見学の予約よ、御所にある宮内庁の事務所へ行って予約を取ってきてちょうだい。京都に住んでるんでしょ、一生に一度は絶対に観ておかないとダメな庭園よ、そこへ一緒に出掛けるのよ」

 霧沢はルリのこんな口上を聞いて、少し嬉しくもなった。

「へえ、秋の木洩れ日の中を、二人でデートするんだ」と、霧沢はニコッと笑った。

「霧沢君、何を思い上がってるのよ、私の友達の沙那と行くのよ。霧沢君はそのボディーガード兼お世話係で、私たちに付いてきてちょうだい」

 霧沢はルリにここまで言い切られると、「うん、わかったよ」と反発ができなかった。


 こうして霧沢はルリの指示に従って、修学院離宮の見学の予約を取りに行った。だが人気があるのか、見学日はシーズン外れの寒い十二月末となってしまった。

 そしてそんな日に、修学院離宮の門前で現地集合することとなった。霧沢はお世話係でもあるため、早めに行って二人の到着を待っていた。

 一般の観光地は門前に土産店が並ぶが、ここは予約が取れた人たちだけが訪問するためか、普通の民家が建ち並ぶだけで何もない。霧沢はそこでじっと待っていると、小雪が舞い始めた。

 実に寒い。

 霧沢はジャンパーの襟を立て、体温を保つため足踏みをして身体を動かしていた。そんな時に、ルリと沙那は話し込みながらゆっくりと坂道を上がってきた。


「霧沢君、待った? 友達の沙那よ」

 ルリは着くなりすぐに沙那を紹介してくれた。

 沙那はぽっこりとしたオレンジ色のダウンコートを着て、首に同系色の大きなマフラー、そして手には厚手の手袋をはめていた。完全武装でいかにも暖かそう。

 そして黒縁のメガネを填め、その奥にはくりっとした瞳が輝いていた。そんなキュートな女学生だった。

 三人が通り一遍の歓談をして待っていると時間となり、案内に従って揃って入口から中へと入って行った。


 修学院離宮は比叡山の麓にある面積五十四万平米の宮内庁所管の離宮で、十七世紀に後水尾ごみずのお天皇により造営されたとされている。

 上御茶屋かみのおちゃや中御茶屋なかのおちゃや下御茶屋しものおちゃやと呼ばれる江戸時代初期の池泉回遊式ちせんかいゆうしき庭園から成り、四季折々に素晴らしい景観を目にすることができる。

 その中でも紅葉の季節が絶景なのだ。

 しかし、霧沢たちは予約が取れず、そのシーズンから外れている。だが季節季節で違った味わいがある。


 見学は三十人ほどが一つのグループとなり、ガイドに引率されて離宮内を進んで行く。またその集団には前後に係員が貼り付き、個々の見学者が勝手にあらぬ方向に行かないように厳しく誘導もしてくる。

 三人の見学日は紅葉の時季は終わり、小雪が舞っていた。だが庭園は管理が行き届いていて、美しかった。

 特に高台にある隣雲亭りんうんていからの眺め、眼下には浴龍池よくりゅうち、そしてその彼方に北山連峰が遠望できる。

 霧沢は「めっちゃ綺麗なあ」と、そしてルリと沙那は「わあ、美しいわ」とその絶景に声を上げた。

 されどもルリと沙那、この若い女学生たちはその隣雲亭からの眺めに感動し、しばし見入っただけだった。それ以外は列の最後尾にいて、小さな声でずっと喋り続けながら後を付いてくるだけだった。少なくとも霧沢にはそう見えた。


 そして見学も終わり、三人は北白川通りへと下りてきた。街路樹のけやきはすっかり落葉している。そんな裸となった木々に、さらに小雪が舞い降り、より寒い。

「どこかで、暖かいものでも食べようか?」

 霧沢はお世話係であるためか、二人を思い誘ってみた。

「霧沢君、今日はもうお役目から解放して上げるわ。沙那と四条河原町に出るから、ここでバイバイよ」

 ルリがあっさりと断った。「じゃあ、またにしようか」と霧沢が仕方なく答えると、沙那が横からきっちりと礼を述べてくる。

「霧沢さん、今日は本当にありがとうございました。お陰様で念願の修学院離宮を見学することができました、楽しかったわ」

 それを聞いていたルリは「霧沢君、御苦労さん、じゃあまたね」と沙那の言葉に付け加え、手を振ってバス停に向かってさっさと歩き出した。

 残された沙那は「霧沢さん、いつまでもルリと仲良くしてやってね」とそっと囁き、深々と頭を下げ、着けているマフラーを巻き直しながら小走りにルリを追い掛けて去っていった。

 そしてバス停に着いて、こちらを振り返り、もう一度遠くから頭を下げてきた。


 霧沢はそんな律儀な沙那を思い出した。

 その沙那の夫、光樹が花木桜子と伊豆の温泉へと今回出掛けていた。そんな内情が警察の事情聴取で、白日の下に晒されたとまではいかないが、周知の事実となってしまった。

 そして今、霧沢は、学生時代キュートで礼儀正しかった沙那、そんな彼女の心情を夫から裏切られて大丈夫だろうかとおもんばかるのだった。



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